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点描千葉市とその周辺


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#6 長沼原から四街道へ 〜台地に刻まれる、開拓の歴史〜

三角町から、千種町にかけての地域は、南を旧花見川河谷に、北を勝田川河谷に、それぞれ接する典型的な台地上の平坦地です。こういった土地柄であることと、火山灰起源の土壌の影響などから、概して水はけがよいのですが、それは裏を返せば水が得にくい、生活するには不便な地域であることを意味するものでした。そのため、集落は台地の端の、地下水が湧き出る部分に発達し、斜面林も発達しました。水の得にくい、木々の少ない茫々たる台地が、今日のような多様な土地利用のもと生活の舞台として広く供されるようになった背景には、多くの先人の努力がありました。今回のフィールドワークの最後の部分では、そういった開拓の歴史にも触れながら、内陸の台地をひたすらに、四街道へと進みました。

花島橋から急崖を登り、東へまっすぐに続く道沿いは、街灯にぶら下がるように「千種町商店街」という表示があることから、団地とまではいかないまでも、北側の鉄工業団地と期を一にして区画整理が行われた住宅地であるように思われました。また、鉄工業団地入口バス停付近から南方向の街路沿いには松並木もあって、台地という特性をうまく活かし、整然とした区画のまちを作り出した地域性が窺い知れました。やがて、千葉工業大学のグラウンドの広大な敷地の前に至ると、「千葉市ふるさと農園入口」の表示が見えてきます。この「ふるさと農園」は、「都市と農業のふれあいの場」をテーマに建設され、およそ2ヘクタールの園内に都市的公園エリアと農村的なエリアとを再現した施設であるとのことで、少し寄り道をして、足を運んでみることにしました。

三角町付近の景観

花見川区三角町付近の景観
(2002.12.11撮影)
ふるさと農園

千葉市ふるさと農園
(花見川区千種町、2002.12.11撮影)

入口は、長屋門を模した茅葺き屋根の建物になっており、入口脇のスペースには、千歯こぎなどの農具が置かれていました。園内は、中央奥に茅葺きの民家、その隣に水車小屋が作られていて、その前庭に、段々畑状に花畑が作られたエリアと、大根やキャベツなどが植えられた畑からなるエリアとがバランスよく配置されており、程よく配された木々などともに、うまくつくられた庭園といった趣でした。その佇まいは、このフィールドワークの道すがらでも幾度となく出くわした、ゆたかな農村景観そのままであり、この地域を代表する、残していくべき風景であるように思われました。この農園に隣接して、千葉市農業をはじめとした千葉市の姿の概略を展示した「ふるさと館」もあり、親子連れで千葉市のことを学ぼうという需要には十分に答え得る展示内容でした。

ふるさと農園を後にし、犢橋高校の南を通過すると、通過車両の量がすさまじい幹線である、国道16号につきあたります。千葉北署の前を通過し、東関東道の千葉北インターチェンジを歩道橋で通過すると、交通量の激しさがいっそう実感できます。高速道路が至近であること、台地上で開発がしやすく地価が安価であること、こういった条件から、工場が多く立地しているのかもしれません。また、すぐ近くには、北清掃工場の高い煙突を見ることもできます。このあたりから、行政区では花見川区から稲毛区へと入っていきます。

国道16号線をさらに南に進み、長沼交差点を東に進むと、ほどなくして立派なつくりの長屋門をもった、屋敷の前を通過します。長沼原は、江戸期の新田開発の中で開発されてきた土地で、この屋敷の主である島田家は、この長沼新田の草分け的な名主であるとのことであり、江戸後期の豪農屋敷の面影を今に伝えるものであるといいます。その巨大な長屋門の背後には、これまた類のないくらい広い敷地と屋敷林とを擁した大屋敷がでんと構えています。現在では、西と南に交通量の多い道路が通過して少し落ちつきがない環境になってしまっているのが、残念なようにも思われます。また、東隣にある駒形観音堂は、この付近の新田開発を請け負った、江戸の薬種問屋で信仰心の厚かった野中源内によって開かれ、周辺住民の講によって大仏が建立されたものであるとの表示がある。また、観音堂には馬頭観音が安置され、目の前を通過する御成街道(東金街道)を往来する人馬の安全を祈願したとのこと。今ではさしずめ、国の事業を請け負ったディベロッパーが、宅地開発を行うことに似た行為であると思われますが、江戸期とはいえ、開発者自らが地域の人たちと一体となって大仏と観音様を建立した姿には、人情に厚い当時の人間の気質が伝わってくるようです。

駒形大仏を後にし、再び東関東道方面に北へ進みます。比較的新しく開発された土地らしく、街路は碁盤目状に区画されており、畑にはねぎやら大根やらが栽培されています。そして、住宅地に、若干の事業所が交じり合う東関東道の手前に、長沼原開拓神社の、小ぢんまりとした、いたってシンプルなつくりの社殿に行き当たります。この神社は、1945(昭和20)年に、復員軍人や外地からの引揚者、戦災者などがこの地に入植し、3年かけて原野を開拓し、豊かな農地を作り上げた際に、この地に天照大神、菅原道真、二宮尊徳の3柱を祀る神社を建立し、人々の精神的な柱としたものであるそうです。傍らには、その開拓を記念した石碑が建てられており、戦後の混乱の中、自らの生活のためにこの地の開拓に精進した人々の労苦が察せられます。現在の神社は、背後に高速道路を背負って、農業地域から、さまざまな事業所の立地も進んだ地域へと変貌を遂げました。月日の経過のむなしさをも感じますが、神社前のちょっとした芝生の中、2日前の雪でつくったかわいい雪だるまが2つ、仲良く並んでいるのを見て、少しほっとした気持ちになりました。

開拓神社を後にし、東関東道沿いを少し進んだ後、鹿放ヶ丘の南をかすめる道路を東に折れて、四街道を目指しました。付近は、雪印種苗の実験農場なども立地し、基本的には広大な農業地帯なのですが、事業所の立地もかなり進んでいて、また大型車両がひっきりなしに往来するあたりは、開拓当時の純農業地帯という空気は次第に失われつつある地域であるのかもしれません。人間の歩くスペースがあまり広くない道を大型車が次々と通過していく環境も、改善されるべきでしょう。

島田家住宅

島田家住宅
(稲毛区長沼町、2002.12.11撮影)


稲毛区長沼原町付近の景観
(2002.12.11撮影)
長沼原開拓神社

長沼原開拓神社
(稲毛区長沼原町、2002.12.11撮影)
稲毛区小深町付近

住宅街の中を続く勝田川
(稲毛区小深町、2002.12.11撮影)

千葉市宇那谷町の区域が、勝田川の支谷にそって四街道市域に食い込んでいるあたりに到達しましたが、支谷もこのあたりまでくると数メートルの落差しかなく、車両で通過する限りにはその差には気がつかないのではないでしょうか。また、地図上では東関東道が通過するあたりで不連続になる勝田川本流の支谷も、遠近五差路付近ではやはり小規模な溝といった趣でした。時間の都合で鹿放ヶ丘の中央部付近にまで行くことができなかったのですが、そのあたりに行けば、台地上と、支谷下の谷地とがもう少し明瞭に区別されるのかもしれません(その支谷に対応して行政界がつけられているくらいですからね)。

そこで、この勝田川の流れが、どのあたりまで続いているのか興味が湧き、稲毛区小深町方面に、三面側溝となっている流れを南へ追跡してみることにしました。四街道市街地も至近のこのあたりは、四街道市方面と連続した住宅地となっており、三面側溝からやがて暗渠に変わった流れは、住宅地の間を縫うように、続いていきます。稲毛区小深町と四街道市さつきが丘との境界付近を流れは更に南へ進み、ついには県道66号線付近まで到達して、確認できなくなりました。

県道に出た頃には、夕闇がかなり迫っていました。八幡神社の北を通過し、四街道市域に入り、駅を目指します。付近は、鹿放ヶ丘付近のような広々とした台地上の景観ではもはやなくなっていて、ところどころに木々はあるものの、総武線沿線に千葉市方面から連続する住宅地・商業地といった雰囲気になっています。やがて、南から来る県道64号線が交差する四街道交差点に至りました。

四街道の碑

四街道の碑(旗の陰にある)
(四街道市四街道一丁目、2002.12.11撮影)

この交差点の北側、ガソリンスタンドの敷地に押しつぶされてしまいそうな狭いスペースに、「四街道」の地名の由来になった街道の道標の石碑がひっそりと立っています。石碑には、「北成田山道 南千葉町道 東登宇がね・馬渡道 東京・船橋道」と彫られています。この石碑が彫られたのは、1881(明治14)年で、その頃までには、この地域の通称として「四街道」という名称が一般化していたのでしょうか。この碑の来歴を記した表示板はあるものの、石碑を囲む柵にまで、ガソリンスタンドののぼり旗がくくりつけられているのには、閉口してしまいます。この後、四街道駅に到達し、この日のフィールドワークを終えました。四街道駅前は、ロータリーや商店街が充実し、中規模都市の玄関口として一応の規模は備えているように思われました。

千葉市から四街道市にかけての内陸の台地上では、戦後間もなくまで、開拓事業が行われてきた土地でした。とはいえ、その最後の開拓が終了して60年も経過しないうちに、高速道が通過し、事業所が多く立地し、地域の景観はめまぐるしい変化をしてきたものと思われます。農業とその他の産業と、住宅地と、どのように均衡させていくか。今後を注目していきたいと思います。


<追加情報!!>
グリグリさんのホームページ「都道府県市区町村」にあります掲示板「落書き帳」にて、NTJ会長さんより、長沼原四街道について、丁寧なご解説を頂きました。ここにリンクを掲載させていただきますとともに、心より感謝申し上げます(2004年10月25日追記)。

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