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点描千葉市とその周辺


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#7 城下町佐倉 〜住宅都市の中に歴史が佇む街〜 前編

2003年2月8日土曜日、私は長らく時間が空いてしまった千葉市とその周辺の訪問を再開しました。かなり時間が空いてしまいましたので、前回のおさらいをいたしますと、12月11日水曜日、11月30日の京成津田沼〜JR幕張駅のフィールドワークに続き、JR幕張駅から幕張地域を周回し、花見川流域を内陸に進んだ後、京葉道路にほぼ沿うような形で千葉市北部の内陸を東に歩いて、JR四街道駅に至るルートを歩きました。そこで、今回は、四街道市に隣接し、近世は城下町として成長し、近年は首都圏に近接した住宅都市としての性格も強くなっている佐倉市をフィールドに定めました。

この落書き帳に出入りするようになり、千葉市周辺に造詣の深い皆さんのお話を拝見する前までは、私にとって千葉市の周辺の諸都市は、埼玉県や東京都下の多くの衛星都市の例と同じように、首都圏への人口流入により成長した都市群という大雑把なイメージしかなく、佐倉市が城下町起源であることを知らず、印旛沼に隣接していたということさえにも気をはらうことは無かったのです。しかしながら、印旛沼に隣接した風光と、城下町であるという素地に気付いた時、この佐倉という街は実は魅力溢れる場所なのではないかと思うようになり、下総台地の谷津の景観への憧憬とあいまって、ぜひこの目で見てみたいと思うようになっていたのでした。

今回は、自動車にてこの町にやってきましたが、なかなか駐車スペースが見つからなかったものの、市役所の駐車場がどうやら解放されているようでしたので、失礼ながらその一角をお借りして、市街地の街歩きをスタートさせました。

市役所に隣接して、付近の町名にもなっている海隣寺。この寺は、千葉氏との関わりが深く、境内の石塔群は千葉氏の歴代の菩提を弔うものであるようです。千葉氏の本拠が千葉市猪鼻から本佐倉、そして現在の佐倉城跡に移るのと一緒に、この寺も千葉から佐倉へと移ってきたものであるとのことです。市役所の東の国道は、成田街道で、この付近では佐倉城下町を通過します。この付近は、並木町。現在は、京成とJRの佐倉駅とを結ぶルートにあたるためか、自動車の往来が頻繁で、歩くスペースも少なく、散策するにはちょっとせわしない巷でしたね。町並み自体は、新しい建物に混じって、明治期か、昭和初期のような風合いの建物も混じっていまして、これからのルートもきっとすてきなものであろうことを予感させるものでした。

甚大寺

甚大寺
(佐倉市新町、2003.2.8撮影)
鉤の手

佐倉市新町、鉤の手の入口
(2003.2.8撮影)

横町を過ぎて、新町の交差点を東に折れて、新町の商店街へ。この一帯が、佐倉城下町のメインルートであったように思われますね。それを示すように、「上町」などの地名標が復刻されていていました。記憶が曖昧ですが、市制30周年記念と書いてあったように思います。この新町界隈ですが、ほんとうに、歴史的なエッセンスがあちこちに散りばめられていて、すてきの一言に尽きますね。昔ながらの表情を残す商店があちこちにあります。市立美術館の建物もなかなか風格があります。そして、通りの東端には城下町特有の「鉤の手」(クランク状の街路のことです)が現存します。このようなレトロな一角が首都圏の住宅都市群に包摂されながらも、脈々と残されていることには、本当に新鮮な驚きを覚えましたね。この鉤の手の程近くに、甚大寺の結構が佇みます。ここは佐倉藩堀田家の菩提寺とのことで、付近には嶺南寺、宗円寺、延覚寺などの寺院が集り、穏やかな住宅地となっていました。

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