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HIROSHIMA REVIEW

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#11 十日市町から土橋一帯 〜都心に近接した住商地域〜

 横川橋を渡りますと、雲石路筋は寺町の只中へと誘われます。この一帯は城下町時代より寺院が集められた寺町を形成していまして、その北端には本願寺広島別院が鎮座します。いわゆる“安芸門徒”の中心的な道場のひとつとして、何度かの変遷を経た後に、1609(慶長14)年に、広島藩主である福島正則がこの地域に移転させ、寺町としたものであるようです。電車通りの大通りに近接しながら、本川の流れに寄り添うように土塀と堂宇とが連なる景観は、戦後の再建によるものながらも、城下町時代から受け継がれた情趣を感じさせます。周辺は都心に近接する立地を志向した多くの中高層のマンションが立ち並んでいます。広島の都心・八丁堀や紙屋町から繋がる電車通り(相生通り)に近づくにつれて、それらはさらにその密度を増してきます。やがて、広電の横川線が宮島本線と接続する十日市町へと至ります。交差点の一角には線路間のポイントを制御する操車塔が現存しています(現在はほぼ自動化されており、操車塔にオペレーターがいるということはほとんど無いそうです)。

 至るところでマンションの建設が進行している十日市交差点は、広島電鉄の本線が通過する要衝であることから、横川方面や江波方面からの列車も含めてたくさんの路面電車が通過する地点です。都心への幹線道路でもあるため、通過車両も多くて、路線バスも頻発しています。高層の建造物が立ち並ぶ中で、交差点付近には歩道上にアーケード状に庇を伸ばした場所も認められまして、穏やかな一面もまた覗かせていました。戦後の復興の中でまず中層の各種建造物が建築され、その後に高層のマンション群が徐々に建てられていったというストーリーが見えてきそうな風景で、このエリアが、下町的な要素を残すまちから、急速に高層マンションの並ぶ地域へとその姿を変えてきた雰囲気を色濃く感じさせる風景であったように思いました。

寺町

寺町の景観
(中区寺町、2007.9.4撮影)
十日市遠景

十日市町遠景
(中区寺町、2007.9.4撮影)


十日市町の町並み
(中区十日市町二丁目、2007.9.4撮影)
十日市交差点

十日市交差点
(中区十日市町二丁目、2007.9.4撮影)

 十日市町は、吉田城下(現在の安芸高田市吉田)にあった十日市場(毎月十日に開かれた市場)が、毛利家の広島への移転に伴い、一緒に移ってきてこの地で市場が開かれたことに由来するのだそうです。路面電車で始めてこのエリアを通過したとき、紙屋町界隈とはまた異なった、中高層の建物に充填された町並みの迫力に驚かされた記憶があります。十日市町から南へ電車通りを歩いてきますと、その当時の記憶がよみがえるとともに、そうした市街地の高密度化が現在進行形で継続しているエリアであることが実感されます。電車通りから東へ一筋入った南北の道筋は、前述のとおり雲石路を承継したもの。現在ではマンションや雑居ビルなどに囲まれた市街地の只中です。

 本川橋から越えてくる道筋が旧西国街道筋で、西国街道から雲石路が分岐していた場所が、現在でも住居表示に名を残す堺町です。都心の本通から現在平和記念公園となっている中島本町、そして堺町へと続くエリアが、かつての広島市街地の繁華街でした。堺町の名は、城下町時代に自由都市・堺から移り住んだ商人が住んだことに由来しているようです。堺の商人は近世に全国各地に移転した例が少なくなく、各地に堺の商人が移り住んだことにちなむ地名が残されているようです。

土橋

土橋町交差点、舟入(南)方向
(中区堺町二丁目、2005.8.7撮影)
土橋電停

土橋電停
(中区小網町、2005.8.7撮影)
土橋

土橋の町並み、十日市町(北)方向
(中区榎町、2005.8.7撮影)
観音町電停

観音町電停
(西区天満町、2007.9.4撮影)

※一部2005年8月7日に撮影した写真を使用しています。ご了承願います。

 住居表示上の「堺町一丁目・二丁目」の間の電車通りには、土橋電停があります。宮島本線はここから西へと進み、直進方向(南方向)に江波線が分岐する乗換駅となっています。堺町一丁目の南に画された住居表示・土橋町の住所としての公式な読み方は「どはしちょう」である一方、電停名は「どばし」であって、読み方の清濁にちょっとした差異が見られます。電停名のほうがより耳に馴染みやすいからか、一般的な呼び名としては「どばし」のほうが広く普及しているようです。土橋付近も十日市町一帯と同じように、中高層のマンションと、中低層の住居系・業務系・雑居ビルなどが混在するエリアであるようで、都心に隣接する特性から、マンションの有力な立地先として志向されてきた土地柄を垣間見ることができました。土橋の地名の由来は、その名のとおりで、かつてこの地に土橋があったことによるものであるようです。

 路面電車は、土橋から西へ折れ、観音町電停付近まで、連接車両が頻発する路面電車のメインルートが通る道路としては例外的な、狭隘区間を通過します。この区間の路面電車の車内では、電停の幅が狭かったり、ホームのない平面電停であったりすることから、乗降の際は注意するようなアナウンスが流れていたような気がいたします。観音町からは、軌道は再び大通りに出て、中広通り、平和大通りを経由しながら太田川放水路を渡っていきます。天満川と放水路に挟まれたこのエリアは、太田川放水路開削の際、旧福島川の流路が埋め立てられた地域も含むエリアであるようで、中広通りを中心に比較的新しい建築物の多いエリアであるように思われまして、十日市町・土橋エリアよりも心持ちゆったりとした土地利用がなされているような印象を受けました。

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