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北海道道南をめぐる
〜藩政期と近代化の痕跡を訪ねる〜

 018年7月14日から15日にかけて、北海道道南の諸都市を巡りました。余市から室蘭、江差、松前とめぐり、古くから和人の影響を受けながら、地域を変化させてきた地域の姿を見つめました。


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洞爺湖周辺から大沼へ 〜火山がつくる多様な地形〜

 霧の中の室蘭市沿岸部を後にして、一路北へ、前日は湖岸で小休止しただけであった洞爺湖周辺を再訪すべく、噴火(内浦)湾岸の国道を北へ辿りました。曇り空で終始していた空からは徐々に雨が落ち始め、内陸に入って昭和新山の特徴的な山容が見え始めた頃にはだんだんとその雨脚が強くなって、昭和新山の西側、有珠山ロープウェイの駅近くの駐車場に到達した頃には本降りとなっていました。1944(昭和19)年から翌45年にかけて、もともと広大な農地であった場所から突如として噴火が始まりやがて溶岩ドームが成長をはじめ、1年足らずの短期間の内に175メートルほどにまでになった経緯があることはよく知られています。畑の土壌が煉瓦のように焼かれたため赤茶けた山肌が活動休止後70年を経ても未だに生々しく、山麓に広がる自然林がその過ぎ去った時間を象徴しているように感じられました。

昭和新山

昭和新山
(壮瞥町昭和新山、2018.7.15撮影)
1977年火山遺構公園

1977年火山遺構公園
壮瞥町壮瞥温泉、2018.7.15撮影)


旧国道230号(2000年噴火遺構)
(洞爺湖町泉、2018.7.15撮影)
洞爺湖を望む

洞爺湖を望む
(洞爺湖町洞爺湖温泉、2018.7.15撮影))

 昭和新山を側火山の一つとしている有珠山は、直近で噴火をしている2000(平成12)年の噴火までに、概ね20年から30年の周期で噴煙を上げている、世界的に見ても活発な活動を行う火山として知られています。北側の洞爺湖も、火山活動によって陥没したカルデラに水がたまって形成されたことも既にご紹介しています。有珠山の北麓、洞爺湖眼に温泉街がある洞爺湖温泉も、1910(明治43)年に発生した噴火活動後に湧出するようになったものであり、洞爺湖やその周辺の風光は、有珠山その他の火山活動と密接に関わりのあるものであるとも言えます。温泉街のある一帯を山側に上っていきますと、「1977年火山遺構公園」があります。ここは、1977(昭和52)年から最終的には1982(昭和57)年まで継続した噴火活動による地殻変動の影響で倒壊した病院の建物がそのまま保存されている場所です。噴火後数日でひび割れが入り、2〜3か月後には徐々に崩壊していったという病院の姿は、火山被害の実際をまざまざと見せつけるものであり、後世への教訓ともなっているものです。今付近には、2000年の噴火で破壊され通行不能となった国道の跡地も残されています。

 洞爺湖周辺の訪問の後は、北海道を南北に縦貫する基幹交通路の一つである道央自動車道をひたすらに南下し、渡島半島方面へと車を走らせました。時々雨が強まっては小康状態となる天気は相変わらずで、北海道の原野の中を進む高速道路は、山野の緑や海岸側に時折広がる台地上の農地や市街地などを車窓に概観させながら、ゆるやかに南へとつながっていました。北海道は、その広大さ故に、都市とそれ以外の地区との対比が明瞭で、さらにその他の地域も農地を除けばほとんど手つかずといってもいいような草原や森林であって、その雄大さはまさに北海道独特の風景であるとも言えます。比較的和人との接触の歴史が長い道南エリアにあっても、その北海道における基本的な土地のあり方は同様で、そういったいかにも北海道らしい風景の中を現代的な高速道路が続いているのでした。午前10時前に洞爺湖を出発し、高速道路の南端である大沼公園インターチェンジを経て、渡島半島南部の駒ヶ岳南に広がる大沼へと到達しました。時刻は正午少し前になっていました。

大沼から駒ヶ岳方向を望む

大沼から駒ヶ岳方向を望む
(七飯町大沼町、2018.7.15撮影)
大沼公園内の散策路

大沼公園内の散策路
(七飯町大沼町、2018.7.15撮影)
大沼の風景

大沼の風景
(七飯町大沼町、2018.7.15撮影)
島伝いに散策路が通る

島伝いに散策路が通る
(七飯町大沼町、2018.7.15撮影)

 渡島半島にあって、山体崩壊が構成した奇景を見せる駒ヶ岳は雲に覆われてその姿を望むことはできませんでした。大沼と西に接する小沼は、この駒ヶ岳の噴火によって形成された堰止め湖あるいは陥没湖です。沼の間を縫うようにしてある散策路を歩きながら、駒ヶ岳から供給されたたくさんの岩屑によってつくられた「流れ山」と呼ばれる地形(小規模な丘状の塊)が湖に浮かぶ風景は、大地のエネルギーが地上に湧き上がる永遠の躍動の歴史の中における、つかの間の時間に現出した奇跡ともいえるのではとも思いをめぐらせました。洞爺湖、そして大沼での時間は、そうした幾星霜の時間を経て地球が存在した膨大極まりない、果てしないほどの時間に比べれば本当に塵埃の一粒の大きさにさえ到底到達し得ない、他愛のないほどの短さであるといえるのでした。


江差から松前へ 〜和人が記した蝦夷地の足跡をたどる〜

 大沼からは、渡島半島の脊梁を超えて、日本海側へと趣きました。中山峠を越えて厚沢部川流域に出て日本海岸に至り、そのまま沿岸を南に進んだ先に、江差の町はありました。一般的には民謡の「江差追分」で知られる町です。渡島半島西部を範域とする檜山振興局の所在地であり、北海道におけるローカルな行政の中心地として機能する町でもあります。江差追分会館近くに車を止めて、この歴史のある江差の町並みをめぐることとしました。

江差追分開館

江差追分開館
(江差町中歌町、2018.7.15撮影)
国道228号

国道228号、役場前の夜景
(江差町中歌町、2018.7.15撮影)
中村家住宅

中村家住宅
(江差町中歌町、2018.7.15撮影)
いにしえ街道の町並み

いにしえ街道の町並み
(江差町中歌町、2018.7.15撮影)
旧檜山爾志郡役所

旧檜山爾志郡役所
(江差町中歌町、2018.7.15撮影)
旧檜山爾志郡役所のバルコニー

旧檜山爾志郡役所のバルコニーからの眺望
(江差町中歌町、2018.7.15撮影)

 ここで、この項の表題にも採用し、本稿でも時々言及してきた「和人(わじん)」の表現について触れます。それは一般的には古来における大和政権や中世以降の武家政権の存立した時代下に生きた民族、いわゆる「大和民族」と同義で、江戸時代以降は、北海道(蝦夷地)を中心としたエリアに住んだ先住民族であるアイヌに対して用いた、大和民族の自称となりました。その和人が松前藩を介してアイヌとの交易を行う中で、函館(箱館)や松前、江差は、蝦夷地において最も早く成立した「都市」でした。江差の市街地は、鴎島と本土を繋ぐ砂州と、それに続く低地に広がっていまして、鴎島が西側に擁壁となって存在することで、船舶の停泊地としては良好な地形的要件を備えています。役場前を通り、海岸段丘がつくる小規模な斜面にまたがって、「主屋」「文庫倉」「下ノ倉」「ハネダシ」という4棟の建物が一列に連なる旧中村家住宅(国重文)が目に入りました。その脇の坂道を上りますと、「いにしえ街道」と呼ばれる通りに沿って、妻入りの町屋造の建物が軒を連ねているのが目に入りました。一見して、本州以南の商人町における町場そのままの風景です。

 町場の背後の段丘崖をさらに上りますと、白壁に浅葱色の建具が鮮やかな洋風建築が目に入ります。1887(明治20)年に、檜山郡と爾志郡を管轄するために建設された「旧檜山爾志郡役所」の建物で、道内に残る唯一の郡役所の遺構です。階上のバルコニーからは、穏やかな江差の家並みと、この日は曇天下に沈んでいましたが、空の色を映した日本海の海原を望むことができました。いにしえ街道に戻り、馬坂と名付けられた坂道を上りますと、法華寺の門前へと導かれます。門前に掲げられた縁起によると、開山は1521(大永元)年、江差町の南にある上ノ国で、その後1665(寛文5)年に現在に移転、1716(享保元)年に復健、現在に至っているとのことでした。山門は先に訪問した旧檜山爾志郡役所のある場所に立っていた檜山(ひのきやま)奉行所の正門を移築したものです。奉行所は松前藩が上ノ国から厚沢部にかけてのヒバ(当地では「檜(ひのき)と呼んだ)林の伐採を管理するために置いたもので、この奉行所の名が「檜山(ひやま)郡」の由来となっています。門前の歩行者が通れる程度の坂道を下り、北海道最古の神社とも言われる姥神大神宮へ。創建は社殿によると1216(建仁4)年とされます。この地域における和人の進出がかなり古くから行われてきたことに改めて驚かされます。国家的な概念が強固でなかった時代、民間の交流は存外フラットに行われていたということなのかもしれません。

馬坂

馬坂
(江差町中歌町、2018.7.15撮影)
法華寺山門

法華寺山門
(江差町本町、2018.7.15撮影)
横山家の商家建築

横山家の商家建築
(江差町姥神町、2018.7.15撮影)
姥神大神宮

姥神大神宮
(江差町姥神町、2018.7.15撮影)


開陽丸
(江差町姥神町、2018.7.15撮影)
鴎島を望む

鴎島を望む
(江差町姥神町、2018.7.15撮影)

 神社の前の「いにしえ街道」はクランク状になっていまして、本州以南でもしばしば見られる、防衛上の都市構造が反映されたものになっています。神社と道を挟んだ向かい側には、横山家の商家建築が重厚な佇まいを見せています。1769(明和6)年に能登半島珠洲より初代がこの地に移り、1822(文政5)年より現在地で商いを続けているとのことです。母屋など7棟の建物がどっしりと建つその構図は、ニシン漁による交易で大いに栄えた、江差の町の歴史を感じさせます。

 再び昔ながらの町並みの中を歩いて海岸沿いに出て、鴎島へとつながる方面へと歩を進めます。そこには開陽丸記念館があり、記念館先の岸壁には1990(平成2)年に史料館として復元された開陽丸が係留されています。開陽丸は江戸時代末期に、幕府が諸外国と対抗するためにオランダで建造されましたが、1868(明治元)年に、暴風のため江差沖で座礁、沈没した哀史を持ちます。1975(昭和50)年に江差町教委は発掘調査プロジェクトを起こして大砲や遺留品などを引き上げました。最後に江差追分記念館で姥髪大神宮渡御祭で巡行される山車の展示や江差追分の実演などを観賞した後、松前半島沿いの国道を周回、幕藩体制下における北海道内のただひとつの城下町である松前へと急ぎました。松前までの海岸線は上ノ国など低地に発達した町場を除けば概ね草地が海岸線と接していまして、冬の西寄りの季節風が厳しい環境を想起させました。

国道228号の風景

国道228号の風景
(2018.7.15撮影)
松前の町並み

松前の町並み
(松前町松城、2018.7.15撮影)
松前城天守

松前(福山)城・天守
(圧前町松城、2018.7.15撮影)
松前神社

松前神社
(松前町松城、2018.7.15撮影)
龍雲院

龍雲院
(松前町松城、2018.7.15撮影)
寺町の景観

寺町の景観
(松前町松城、2018.7.15撮影)

 松前は渡島半島が南端で二股に分かれるようになる南西側の松前半島の先端に位置していまして、藩政期には松前藩の政庁が置かれた場所として知られます。蝦夷地に向かい合う場所であり、藩の財政はアイヌとの交易のより維持されました。町のランドマークであり、かつ城下町としての縁を残す松前城は、正式には福山城と呼ばれていたもので、江戸時代末期、幕府の要請のため海防強化を図り、従来の館を拡張して築城されました。明治維新後の城郭関連施設の破却後も天守は残されていましたが、1949(昭和24)年に焼失。現在の天守は1961(昭和36)年に再建されたものです。海岸沿いの道の駅に車を止めて、市街地を越え、坂を上った先に広がる城跡へと歩を進めました。

 福山(松前)城跡は、先述した経緯により整備され、石垣と複数の曲輪(本丸、二の丸、三の丸)と周囲を取り囲む堀による構成となっています。城郭の遺構としては日本で最後、かつ我が国最北に位置するものです。城内は松前公園となっており、桜の名所として全国的に知られる存在です。訪れたこの日は随所に鮮やかな葉を繁らせた桜の木を認めまして、春本番の美しさに思いを致しました。蝦夷地開拓の礎となった武田信廣公を祭神とする松前神社の先、城の背後には寺町が広がり、北側の防衛をなしています。その風情は内地における近世的な寺町そのもので、無論、それは道内唯一となります。龍雲院、法源寺、法幢寺など5つの寺や松前藩主松前家墓所が現存しています。石畳の参道脇にはアジサイが咲き、木立の下しっとりとした成城に包まれる寺町には、蝦夷霞桜(龍雲院)、血脈桜(光善寺)などの名桜もあって、松前の城下町としての歴史を濃厚に感じさせました。桜に包まれるような城内を回って、高台のかつて櫓が建っていた場所から津軽海峡を眺望しました。

法源寺山門

法源寺山門
(松前町松城、2018.7.15撮影)
松前藩主墓所と大欅

松前藩主墓所と大欅
(松前町松城、2018.7.15撮影)


桜が植えられた散策路
(松前町松城、2018.7.15撮影)
松前市街地・津軽海峡俯瞰

松前の市街と津軽海峡を俯瞰
(松前町松城、2018.7.15撮影)
夏空が覗き始めた

夏空が覗き始めた
(知内町内、2018.7.15撮影)
新函館北斗駅

新函館北斗駅
(北斗市市渡一丁目、2018.7.15撮影)

 松前城下町の散策後は、この日の最終の仙台駅行きの新幹線に乗車すべく、一路新函館北斗駅へと向かいました。北海道最南端の白神岬でも津軽海峡は雲に覆われて本州を俯瞰することはできませんでしたが、木古内辺りから徐々に日射しも覗くようになって、周囲の山々の緑も本来の鮮やかさを取り戻したかのようなきらめきを見せていました。午後7時30分過ぎ、新幹線は駅を出発し、夕闇に包まれつつある北海道を疾走し始めました。雄大な火山地形や広大な大地、そして和人との接触の歴史の深い多様な町並みに触れることのできた北海道道南の彷徨でした。道南において展開されたいろいろな場面を思い起こしますと、やはりそれらの風景の基底にあるのは、おおらかな時間と空間を共有する、北海道が持ち合わせる唯一無二の、大地が醸すおおらかさなのではないかと実感しました。

-完-



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