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或る夏の日の北陸
〜糸魚川、黒部、そして高岡へ〜

2015年7月、北陸の諸地域を訪れました。新潟県西部の糸魚川から西へ、
富山県内の黒部市生地、高岡市街地と、多様な地域における夏の一日の態様に触れることができました。

本地域文は地域的に関東甲信越と東海北陸にまたがる内容ですが、「北陸」に注目した文章構成のため、「東海北陸」カテゴリーに分類しています。

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ページ設置:2018年2月25日

糸魚川市街地とその周辺 〜北国街道沿いの交通の要衝をゆく〜

 2015年7月19日、梅雨明けを間近に控えた新潟県最西の町は、穏やかな曇り空の下、新しい一日を迎えていました。東京を中心とした「甲信越」という地域区分が一般的となり、富山・石川・福井の3県を指して「北陸」と呼ぶことが多くなって、新潟県が北陸の一部とされるケースは従前に比べますと少なくなってきているように思います。北陸の名は、古来からの広域的な地域呼称である五畿七道のひとつ北陸道から来ており、その範域が現在の福井県から新潟県にかけての地域でありました。京から見て日本海沿岸を北へ進む地域という、概念的な地域区分であった北陸も、地形的な特色によって徐々に複数の国に分割・整理され、今日の地域区分に生きています。この日最初に到達した糸魚川の町は、そうした海と大地がせめぎ合うような立地で、木ノ芽峠に始まり多くの地形的な難所を経る北陸道の気分を感じさせる町であるといえるのかもしれません。新潟県の一部ながら、糸魚川という地域が発する空気は、信濃川などの大河に育まれる雄大な低平という新潟的なイメージよりは、海と山とが大地に寄り添うような北陸のそれに近いように感じられます。

天津神社参道

市役所北の天津神社参道
(糸魚川市一の宮一丁目、2015.7.19撮影)
天津神社

天津神社拝殿
(糸魚川市一の宮一丁目、2015.7.19撮影)
天津神社

天津神社(奥は奴奈川神社)
(糸魚川市一の宮一丁目、2015.7.19撮影)
糸魚川駅

糸魚川駅(アルプス口)
(糸魚川市大町一丁目、2015.7.19撮影)
糸魚川駅

糸魚川駅(日本海口)、奴奈川姫の像
(糸魚川市大町一丁目、2015.7.19撮影)
ヒスイロード

ヒスイロードの景観
(糸魚川市大町一丁目付近、2015.7.19撮影)

 この年3月に北陸新幹線の金沢延伸により新幹線駅となった糸魚川駅の南に位置する市役所に車を止めて、糸魚川市街地の散策を始めました。市役所の近傍には越後国一宮を称する天津(あまつ)神社が鎮座します。午前7時過ぎという時間帯もあって、豊かな森に包まれた境内は静かで、景行天皇の時代に創建されたという由緒を持つ古社の気韻を引き立てていました。境内には茅葺きの拝殿が一際目を引きまして、その背後には天津神社の本殿と、併存する奴奈川(ぬながわ)神社の社殿とが佇んでいました。奴奈川神社の祭神である奴奈川姫は古事記などにその名がある神で、糸魚川市街地を歩くと奴奈川姫の像を見かけるなど、地域を象徴する存在として親しまれているようです。

 整然と整えられた現代的な市街地といった雰囲気の町並みを抜け、糸魚川駅へ。新幹線開業後リニューアルされたと思しき駅舎は、複数の直線が交わるような外観が印象的で、それは日本海の波やアルプスの山並み、糸魚川市を流れる姫川流域で産出するヒスイをイメージしたものであるようでした。やはり駅舎改築後に整備された南北自由通路には、南口には「アルプス口」、北口には「日本海口」の名が冠されていまして、糸魚川の特色が生かされた命名となっているのが印象的でした。

ヒスイ原石

ヒスイロードに設置されているヒスイ原石
(糸魚川市大町二丁目、2015.7.19撮影)
日本海

日本海を望む
(糸魚川市大町二丁目、2015.7.19撮影)
相馬御風宅

相馬御風宅
(糸魚川市大町二丁目、2015.7.19撮影)
相馬御風宅前の町並み

相馬御風宅前の町並み
(糸魚川市大町二丁目、2015.7.19撮影)
雁木の町並み

糸魚川・雁木の町並み
(糸魚川市大町二丁目、2015.7.19撮影)
雁木の町並み

雁木の町並み
(糸魚川市大町二丁目、2015.7.19撮影)

 駅の北側一帯が、糸魚川における古くからの中心市街地です。駅舎の北側のデザインは南側のそれと比べて落ち着いた意匠になっていまして、古い町並みの残る中心市街地との調和が図られたもののようでした。駅前からまっすぐに伸びる街路の両側には、新潟県内の諸地域で多く見られるアーケード状の構造である「雁木(がんぎ)」のある歩道が続いていまして、雪の多い当地の気候を反映していました。インターネットの地図での計測では、糸魚川駅前から海岸線を通過する国道8号の大町交差点までの距離は360メートルほどで、鉄路と海岸線との間の東西に長い地域に、北陸道(北国街道)に沿って発達した市街地が高密度に展開しています。この駅前の通りは1990(平成2)年にシンボルロードとして完成したもののようで、先述の奴奈川姫の像のほか、ヒスイの勾玉を象った彫像なども設置されていまして、「ヒスイロード」の名称で供用されているようでした。国道8号を渡った先には日本海展望台があって、日本海の大海原をドラスティックに眺めることができます。

 日本海の眺望を確認し、ヒスイロードを戻って大町二丁目交差点を東進しますと、程なくして童謡「春よ来い」などの作詞で知られる文人・相馬御風宅が保存されています。旧道に面して昔ながらの風情を残す邸宅は、糸魚川の町が古くから交通の要衝として町場を発達させてきた歴史を伝えていました。周辺の町並みも懐かしい雰囲気を残す佇まいで、早朝のさわやかな空気もあいまって、古き良き時代のよすがを今に伝えているようでした。旧市庁舎跡であるという駅前海望公園を経て、クランク状にずれて西へつながる本町通り(ありがたや通り)方面へと歩を進めました。

加賀の井酒造

加賀の井酒造(焼失前)
(糸魚川市大町二丁目、2015.7.19撮影)
白馬通りの景観

白馬通りの景観
(糸魚川市新鉄一丁目、2015.7.19撮影)
牛つなぎ石

牛つなぎ石(西性寺境内)
(糸魚川市新鉄一丁目、2015.7.19撮影)
経王寺梵鐘

経王寺梵鐘
(糸魚川市新鉄一丁目、2015.7.19撮影)


美山公園から眺望する姫川の河谷
(糸魚川市一ノ宮、2015.7.19撮影)
親不知ピアパーク

親不知ピアパーク
(糸魚川市外波、2015.7.19撮影)

 本町通りは、加賀通りとも呼ばれる北陸道(北国街道)沿いに成長した糸魚川における昔からのメインストリートです。この通り沿いにも雁木がしっかりと整えられていまして、1994(平成6)年に町並みの修復と絵馬型看板の配置など、特色あるリノベーションが施されて、雁木のある文化を生かした修景がなされていました。雁木に象徴される豊かな町並みの中には、酒造元の建物など歴史のある建造物も含まれていまして、往時の繁栄を彷彿とさせます。富山第一銀行の支店もあって、富山県を間近にする地域性も感じさせます。この支店のある交差点から南へ進む道筋が、信州方面へ塩や海産物を輸送する道路として「塩の道」と呼ばれた千国街道にあたります。白馬通りと呼ばれる街路周辺にも雁木のある建物が密集して、道路元標や牛つなぎ石なども残されて、主要な交通路として栄えてきた地域の歴史を表現していました。東に入った場所にある経王寺の梵鐘は県内最古のものとして県の文化財指定を受けています。

 その後も白馬街道周辺の町並みを確認しながら鉄路の南へ出て、糸魚川駅前から自家用車を止めていた市役所へ戻りました。糸魚川の町をご紹介する上で、やはり2016年12月に発生した大火に触れなければなりません。この時訪ねた市街地の少なくないエリアは、この火災によって灰燼に帰してしまいました。現在復興に向けた取り組みが進められる糸魚川の町ですが、ここに火災前の景観を含めて取り上げることによって、そうした動きを後押しする力になればとも考えました。糸魚川は、「糸魚川静岡構造線」でも知られる、地質的に東日本と西日本の境界にあたる場所でもあります。最後に、糸魚川市街地から見て南に位置する美山公園を訪れました。公園にある展望施設からは、この構造線が通過する姫川がつくる雄大な河谷を俯瞰することができました。



黒部市生地を歩く 〜湧水群とともに暮らす漁師町〜

 糸魚川訪問を終え、国道8号を西へ、富山方面へと車を走らせました。途中、北アルプスの山塊が日本海に落ち込む難所・親不知に立ち寄りました。切り立った断崖が海に落ち込む親不知は、古来より陸上交通の障壁として立ちはだかってきました。現在でもここを通過する主要交通路は、トンネルや橋梁などにより何とかこの難関を乗り越えています。北陸自動車道も上越から富山県内へ抜けるまで実に26ものトンネルを通過します。トンネルの入口には26カ所中の何カ所目かを示す表示があり、ドライバーに注意喚起を行っています。



生地駅前の湧水のあるモニュメント
(黒部市吉田、2015.7.19撮影)
黒部漁港

黒部漁港の風景
(黒部市生地、2015.7.19撮影)
黒部漁港

黒部漁港内の風景
(黒部市生地、2015.7.19撮影)
生地の町並み

漁師町の風情を残す町並み
(黒部市生地、2015.7.19撮影)

 親不知を抜けますと、かつての越中国、富山県内へと入ります。まず最初に到達するのは、北アルプスの山中を流れ下ってきた黒部川が形成する扇状地がつくる低地帯です。愛本橋を扇頂とし、美しい扇形を描く扇状地はそのまま富山湾に落ち込んでいて、地中に浸透した地下水が海水圧と拮抗することから、海岸に近い扇端部では豊かな湧水が自噴しています。黒部市の海辺の町・生地(いくじ)地区は、そんな湧き水に恵まれた町で、「黒部川扇状地湧水群」のひとつとして、全国名水百選に採られています。内陸型の港湾として整備された黒部漁港に程近い地域のコミュニティセンターの駐車場から、湧水の町の散策をスタートさせました。

 小型の船舶がひしめく漁港を進み、地域の交通の便と船舶の往来の確保とを両立させるための海中遊歩道を進み、「清水庵の清水」と呼ばれる湧水ポイントへと歩を進めました。生地では、湧水のことを清水(しょうず)と呼びます。清水庵の清水は、1689(元禄2)年の夏に、松尾芭蕉が越中巡遊の途中で経妙寺に立ち寄り、庭に湧き出る清水を見て道場を「清水庵」と命名したことに由来するとされています。清水は複数の洗い場が直列に並んだ施設に導水されていまして、上流側は野菜の保冷や洗浄、下流側は洗濯用と、効率的な活用がなされているのが特徴です。清水は地域で共用されていまして、住民共有の財産として受け継がれています。毎分600リットルいう湧水量は生地地区では最大とのことで、近傍を流れる背戸川の美しい風景と共に、水の里・生地のたおやかな町並みを形作っていました。

背戸川

背戸川
(黒部市生地、2015.7.19撮影)
清水庵の清水

清水庵の清水
(黒部市生地、2015.7.19撮影)
日本海

生地から望む日本海
(黒部市生地、2015.7.19撮影)
生地の家並み

生地の家並みと黒部峡谷へ連なる山並み
(黒部市生地、2015.7.19撮影)

 糸魚川では薄曇りであった天気も、親不知、生地と進むにつれて日が射すようになり、鮮やかな夏の青空が、漁港の町並みを猛々しく照らし出すようになっていました。港内の水面は夏の日射しを浴びてなめらかにきらめいて、真夏の熱量をいっぱいに受け止めていました。港町らしい、瓦屋根の家並みが続く穏やかな集落を抜けて、海岸へと足を向けました。地区に掲げられた表示板に「富山湾が一番美しく見える街 生地」とうたっているだけあり、防波堤の上から眺める富山湾の風景はまさに爽快の一言でした。夏のエネルギーを溢れんばかりに染みこませたような青空はどこまでもクリアに海に向かっていて、大海原を極上のマリンブルーへと導いているかのようでした。彼方には能登半島の影もうっすらと認められます。振り返りますと伸びやかな生地の町並みを介して、黒部峡谷方面、北アルプスに連なる山並みがぼんやりと目に入りました。視界が良好であれば、北アルプスの山並みも一望のものになるのではないかと思われました。

 橋の片側を軸として回転する、片持ち式の旋回式可動橋としては日本初、世界でも珍しいという可動橋・生地中橋を渡り、さらに生地の散策を続けました。清冽な湧き水を思考した酒造元も立地しており、漁師町を礎とする穏やかな町並みはどこまでも穏やかで、海と向かい合いながら生きた地域の歴史を垣間見たような印象を持ちました。豆腐屋があったことに因むという絹の清水や、弘法の清水、個人のお宅の名前が付された清水などを巡りながら、清水が地域と関わりながら存立し、生活を支えてきたことを実感しました。

生地中橋

生地中橋
(黒部市生地、2015.7.19撮影)
絹の清水

絹の清水
(黒部市生地、2015.7.19撮影)
田園風景

富山平野の田園風景
(黒部市生地付近、2015.7.19撮影)
水田と日本海

田園風景越しに日本海を望む
(黒部市生地付近、2015.7.19撮影)

 閑静な町並みとそれに溶け込むようなたくさんの清水、集落ないに点在していた畑地や寺院、後背地に広がる豊かな水田。それらすべてが夏の日によって美しいきらめきに包まれる。生地の町はまさに日本海と黒部川の賜物であると感じました。


高岡市街地の町並みをめぐる 〜富山県第二の商工業都市〜

 生地の町を後にして、富山県内をさらに西へと彷徨しました。一年の内で最も暑さが厳しい季節である大暑を間近に控えて、夏の日光が空を支配する中、日本でも有数の穀倉地帯のひとつである富山平野はまさに稲が美しいエメラルドグリーンを水田にはためかせていまして、その緑の海が北アルプスや立山連峰、そして日本海の水平線へと連接する景観は、富山が誇る最高のパノラマであるように思いました。富山平野を横断し、富山市に次いで県内第二位の規模を持つ県西部の中心都市・高岡市街地へと入りました。市中心部の市営駐車場で車を降り、御旅屋町(おたやまち)のアーケードを通り、万葉線の路面電車通りを経て高岡駅前へ。市の表玄関として複合商業施設やホテルの集まる、現代的な都市景観を形成していました。万葉ロードと命名される自由通路を経由して、南側の駅入口の名前にもなっている古刹・瑞龍寺(ずいりゅうじ)へと向かいました。

御旅屋町通り

御旅屋町通り・大和前
(高岡市御旅屋町、2015.7.19撮影)
高岡駅

高岡駅・万葉線は駅ビル下へ乗り入れる
(高岡市下関町、2015.7.19撮影)
高岡駅前

高岡駅前の風景
(高岡市下関町、2015.7.19撮影)
瑞龍寺への参道

瑞龍寺への参道
(高岡市駅南四丁目、2015.7.19撮影)
瑞龍寺山門

瑞龍寺山門
(高岡市関本町、2015.7.19撮影)
瑞龍寺

瑞龍寺・仏殿と回廊
(高岡市関本町、2015.7.19撮影)
高岡駅前

高岡駅前
(高岡市下関町、2015.7.19撮影)
末広町電停

万葉線末広町電停
(高岡市末広町寺、2015.7.19撮影)

 駅南は住宅地の中に商業施設が混在する穏やかな町並みで、一本の幹線道路が南へ直線的の延びて、北陸新幹線が停車する新高岡駅近くを通過する形となっています。その通りを南へ進み、それと直交する、松が植えられた石畳の参道のような歩道が道路中央に設けられた道筋を西へ歩きますと、目指す瑞龍寺に到達します。瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長の菩提を弔うために、三代藩主前田利常が建立しました。造営の期間は正保年間から1663(寛文3)年まで実に20年に及びました。2007(平成9)年、山門と仏殿、法堂が国宝に指定されています(本稿執筆現在、富山県内で唯一)。総門を入り、山門と法堂が左右に渡された回廊によって連結され、その中央に仏殿を置く伽藍配置となっています。回廊は大庫裏鐘楼、禅堂も連接し、七堂伽藍の様式を整えています。回廊内側の芝生がとても鮮やかで、前田利長公・織田信長公御分骨廟(富山県指定文化財)などの文化財と共に、江戸時代における禅宗建築の姿を今に伝えていました。

 再び駅前に戻り、高岡駅北側中心市街地をめぐるフィールドワークへと移行します。高岡市街地の礎は、前述の加賀藩二代藩主前田利長が隠居後の居所として1609(慶長14)年に建設した町に由来します。開町の際に他地域より高岡に移住した商人や職人によって町は商工業都市としての基盤を確立し今日に至ります。中心市街地には利長が晩年を過ごした高岡城跡にあたる高岡古城公園のほか、城下町建設時から続く町人地を継承する豊かな町並みも残っていまして、藩政期から現代までの町の歩みに浸ることができます。

片原町交差点

片原町交差点
(高岡市末広町、2015.7.19撮影)
山町筋

山町筋の景観
(高岡市守山町、2015.7.19撮影)


富山銀行本店
(高岡市守山町、2015.7.19撮影)
山町筋の景観

山町筋の景観
(高岡市守山町、2015.7.19撮影)


有礒生八幡宮
(高岡市横田町三丁目、2015.7.19撮影)
金屋町の景観

金屋町の景観
(高岡市金屋町、2015.7.19撮影)
旧南部鋳造所の煙突とキュポラ

旧南部鋳造所の煙突とキュポラ
(高岡市金屋本町、2015.7.19撮影)
鳳鳴橋の鳳凰像

鳳鳴橋の鳳凰像
(高岡市金屋本町/川原町、2015.7.19撮影)

 山町筋(やまちょうすじ)は、高岡駅前から万葉線の電車通りを進み、木舟町交差点で直交する通り一帯に広がる町並みを指します。この通りは高岡城下町の割り出すにあたって北陸道の道筋を変更して引き入れたもので、利長より御所車(御車山(みくるまやま))を与えられた町を山町と呼んでいます。山町は10か町で構成され、御車山は毎年5月1日に挙行される高岡御車山祭にて巡行されています。駅前からアーケードのある通りを進み、片原町で路面電車と別れた後、木舟町交差点を左に折れて土蔵造の建物が随所に残る山町筋を歩きました。山町筋には、明治期に入り大火で大部分を消失した後、防火のために土蔵造で再建された町並みが残っています。土蔵造の町屋建築に混じって赤煉瓦の銀行や、洋風の衣装を取り入れた建物もあって、町並み再建時における建築の姿を今に伝えていました。
こうした昔ながらの景観が残っていることが評価され、2000(平成12)年に、国の伝統的建造物群保存地区として指定を受けています。

 御馬出町あたりから大法寺などの寺院が集積する一帯を経て中島町付近のクランクが残る場所を確認しながら北西へ、千保川(せんぼがわ)沿いに到達しました。川の左岸一帯には金屋町(かなやまち)の町並みが広がります。金屋町もまた、前田利長の高岡建設に伴い金屋村(現在の高岡市戸出西金屋)から鋳物師を移住させたことにより割り出されました。高岡における銅器産業の中心的な地区として発展し、アルミニウム産業へも昇華しました。千本格子造の町屋と石畳の街路が美しい風致を構成していまして、地域の伝統産業発祥地としての風情を感じさせました。地域に隣接して鎮座する有礒生八幡宮の境内には鋳物の彫像があったり、鳳鳴橋の歩道上には一対の鳳凰像があったりして、鋳物の町としての矜持を随所に認めることができました。町並みの外れには旧南部鋳造所のキュポラと煙突も保存されていました。金屋町もまた、2012(平成24)年に国の伝統的建造物群保存地区となっています。「鋳物師町」としてのカテゴライズは金屋町が初であるとのことです。

菅野家住宅

山町筋・菅野家住宅
(高岡市木舟町、2015.7.19撮影)
山町筋

山町筋の景観
(高岡市小馬出町、2015.7.19撮影)
高岡大仏

高岡大仏
(高岡市大手町、2015.7.19撮影)
射水神社

射水神社
(高岡市古城、2015.7.19撮影)
高岡古城公園

高岡古城公園・堀
(高岡市古城、2015.7.19撮影)
高岡古城公園

高岡古城公園
(高岡市古城、2015.7.19撮影)

 鳳鳴橋を渡り南に進んで木舟町交差点に戻り、山町筋の東側の町並みを確認しながら市街地を歩き、高岡鋳物の技術の高さを示すシンボルとして名高い高岡大仏(銅造阿弥陀如来座像)へ、そして高岡古城公園へと歩を進めました。市街地にあってみずみずしい緑に包まれる公園内には堀や石垣などの遺構が現存して、高岡の町が成立してから今日までの時の流れを静かに物語っているかのようなしなやかさに溢れていました。同公園は桜の名所としても知られていまして、日本さくら名所100選にも採られています。園内に鎮座する射水神社は越中国一宮としての格式を持ちます。

 糸魚川から黒部、そして高岡へと駆け抜けた今回の北陸彷徨は、海と陸とが寄り添いながら多様な地域性を育んできた当地の姿を存分に感じることのできる行程となりました。藩政期にその基礎を求めることのできる町並みや、湧水や山並みに象徴冴える大地の恵み依拠する風景は、間もなく本番を迎える盛夏に向かって、いっそうの輝きに包まれていたように思い起こされます。



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