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神戸メモリーズ・アンド・メロディーズ

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(2) 新長田界隈 〜職住近接の下町情緒溢れるまち〜

三宮から新長田への道程は、神戸の成長の足跡をたどる道のりであるように思います。開港場として目覚しい都市化への道を進んだ神戸、古くからの重要な湊として多くの歴史に名を残す兵庫。この2つのまち−海の彼方に門戸を開くという、共通した伝統と機能をもつまち−とそこに集った内外のひとびとの、先取の精神こそ、神戸というまちのすべてを作り出した源泉なのではないでしょうか。

JR新長田駅

JR新長田駅(南側)
(2003.3.22撮影)

長田区の前身、林田区(当時大きな集落であった「長田村」と「駒ヶ林村」の一字ずつをとった合成地名です)は、1896(明治29)年に林田村ほか2村が神戸市に編入されて成立しています(注1)。早くから神戸市の範域に編入されたことが、この地域の将来の、かなりの部分を規定することとなりました。神戸市における工業化の萌芽の1つには、兵庫運河沿いの地域(現在は兵庫区となっているこの地域は、発足当初は林田区の範域でした)に建てられた製糖工場や木材加工工場、製粉工場などの工場もあったのではないかと思います。それらの諸工業の中でも、初期の神戸市を代表する産業として発達したものが、マッチ製造業でした。神戸監獄の付属工場から始まった神戸のマッチ製造業は飛躍的に成長し、明治中期には日本一になり、第一次大戦でヨーロッパからのマッチ供給が低調になるのに乗じて、世界に冠たる規模にまで拡大しました。

マッチ製造業の基盤は、ゴム製造業に引き継がれます。1918(大正7)年に神港ゴム工業所が日本発の硫化ゴム靴を製造したものが大当たりし、製造業の基盤があった長田区に小規模なゴム工場が林立することとなりました。この種の工場は、零細事業主の独立が比較的容易でした。したがって、中小規模の町工場が住宅地に並ぶという今日の長田区の基礎が形成されたのも、この頃からであったものと考えられます。戦後これらの製造業はケミカルシューズ製造業へと転換してその伝統を受け継ぎ、全国的にも高いシェアを誇るようになりました。

新長田1番街

新長田1番街
(長田区若松町、2003.3.22撮影)

私がこの神戸行きに際して用意した神戸の観光ガイドには、長田区内のことが紹介されていません。一般的な神戸のイメージ−“ミナト神戸”や“異人館のある町並み”“六甲山地やそこからの夜景”−に、長田区の地域性がなじまないのかもしれません。しかしながら、以上に概略を示しましたとおり、長田区の工業地域は、外国に門戸を開き、広く通商を行う基盤を持つという、「神戸らしさ」をある意味では最もよく体現している地域の1つといえるのかもしれません。長田区の製造業も、外国との競争、不況、そして震災の惨禍と度重なる試練に立ち向かおうとしています。

JR新長田駅南口は、整然とした広場の前に区民ホールとなっている「ピフレ新長田」が屹立していました。駅舎や駅前広場は震災後に整えられたものですが、「ピフレ新長田」そのものは震災前から着工していたのだそうです。駅前には、新長田駅周辺の再開発事業によって形成される副都心「アスタ」についての概要と完成予想図(航空写真をベースに着工予定の建物を合成したもの)が掲げられていました。駅前から一部損壊しながらも、倒壊はまぬかれたジョイプラザの南の路地を抜けて、南北のアーケード街「新長田1番街」へと入りました。ここから、阪神高速の通る国道2号線を越えて、二葉町と駒ヶ林町の境界付近まで至る南北の街路は、新長田1番街(阪神高速より北)から大正筋(阪神高速より南)と移り変わる、この界隈の一大商店街です。商店街を中心として、職住近接の低層の住宅街が一帯に広がって、雑然としながらも、下町情緒に満ちた、活気のあるコミュニティが形成されていたのでした。街は多くの人々で溢れていたのだそうです。新長田一番街は、火災の影響を相対的にあまり受けなかったためか、アーケードと小規模商店街という景観が維持されてはいましたが、アーケードのすぐ西側では再開発が着々と進められており、多くの建物が崩れ落ちた場所なのであろうことが容易に想像できました。

大正筋入口

大正筋入口
(長田区腕塚町付近、2003.3.22撮影)

やがて、阪神高速の高架下に達すると、「大正筋」と大きく書かれた街路の入口が見えてきます。このあたりの阪神高速は、東灘区あたりのように横倒しにはならなかったものの、道路を支える支柱の中央部分が上から押しつぶされたように曲がってしまったのだそうです。なお、ここから東へ800メートルほど東にある湊川出口は、インターチェンジごと新湊川の中に倒壊していたのだそうです。

この大正筋の北側の入口に接して、新長田のシンボルとして多くの住民に親しまれた「神戸デパート」がありました。小規模な店舗もテナントとして入っていた庶民的な雰囲気の百貨店であったようで、高級品の似合わない、また気の置けない、下町新長田を象徴する存在であったといいます。

しかし、神戸デパートは震災による被害を受けて使用不能となり、震災後に惜しまれながら解体され、現在は再開発事業の一環として建てられた商業施設「アスタくにづか1番館」として生まれ変わっています(大正筋を挟んで「アスタくにづか2番館」も建設された)。1番館は小規模な店舗がテナントとして入るスタイルの商業施設でして、神戸デパートに入っていた店舗の一部も引き続き営業を続けているようです。1番館、2番館ともに、低層部分は商業施設に、高層部分は市営住宅になっており、住宅の受け皿としての機能も有しています。ちなみに、「アスタ」とは、「私たちを」を意味する「us」と、「town」とを続けて字をはしょった造語、「くにづか」とは、付近の「久保町」、「二葉町」、「腕塚町」の一次ずつをとった「久二塚」の意なのだそうです。

「アスタくにづか」再開発が進む

「アスタくにづか」再開発で生まれ変わる大正筋
(長田区腕塚町付近、2003.3.22撮影)
再開発工事が進行中(当時)

大正筋も、南側はまだこのような状態でした
(長田区久保町付近、2003.3.22撮影)

震災後、大規模な再開発のなか、新たな形態で再スタートをした旧神戸デパート自体も、実は、下町を神戸の西の副都心として位置付けようと行われた市街地改造事業によって1965(昭和40)年に建設されました。再開発によって燦然と建てられた新長田のシンボルは、再び再開発によって生まれ変わろうとしています。

後半へ続きます)


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