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神戸メモリーズ・アンド・メロディーズ

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(3)元町から三宮へ 〜神戸港と神戸の中心商業地〜

JR鷹取駅の北側一帯は、かつてJR鷹取工場がありました。2000年3月に同工場は閉鎖され、新たに設置された網干総合車両所へ移転しました。工場はその後解体され、敷地のうち10ヘクタールが神戸市に売却され、震災被災者の受け皿としての住宅建設と、先に触れた千歳小学校と、児童減少の進む大黒小学校とを統合する新たな小学校とを建設する運びとなり、広大な工場跡地の再開発が進められています。現在、新設された「だいち小学校」が開校し、高層のマンションも数棟建設されているように見えましたね。

JR鷹取駅北側の様子

JR鷹取駅北側の再開発地区の様子
(2003.3.22撮影)

JR神戸駅で列車を降り、観光地神戸を代表する場所の1つ、「神戸ハーバーランド」に向かって進みました。ハーバーランド内には、「キャナルガーデン」、「オーガスタプラザ」、「神戸ハーバーサーカス」、「モザイク」などの複合商業施設が軒を連ね、活気あるショッピングエリアを形成しています。春分の日と土日が重なった連休の中、このゾーンには多くの人々が訪れていて、近代的に美しく整えられたウォーターフロントでの休日を過ごしているようでした。

神戸港の景観は、爽快な水辺の都市景観そのもののように移りました。ウッドデッキからは、ポートタワーや阪神高速、神戸の町並み、六甲の山々が美しく眺められ、一方南側に視線を移せば、オリエンタルホテルのゆるやかなカーブが美しい建物の向こうにポートアイランドが浮かび、彼方には川崎造船のドックとクレーンの一群が遠望できます。オイルショック後の不況の最中、重厚長大型の製造業が振るわなくなる中で、それらが商業施設やオフィススペースへと転換される再開発が世界的に盛んになった時期がありましたが、その1つとして有名なロンドンのドッグランドの再開発を髣髴とさせるような、非常に明るさに満ちた臨港空間であるように思われました。

私の手許には、昭文社ニューエストシリーズの「兵庫県都市地図」が2冊あります。1つは1993年1月発行、そしてもう1つは2002年9月発行のものです。この2つの地図に表現されている神戸市の海岸線を見ると、明らかな差異が認められます。それは、突堤と突堤の間の海の多くが埋め立てられて、1993年当時はくし型に「ぎざぎざ」していた海岸線が、2002年の地図ではその凹凸がなくなり、フラットになっているということです。具体的に列挙しますと、中央区の第五突堤から第八突堤にかけて、灘区の摩耶埠頭(第三突堤と第四突堤との間はすでに埋め立てられている)、そして兵庫区の兵庫第一から第三突堤が、2002年の段階では埋め立てられ、くし型の海岸線が消失しています。中央区新港町の第一突堤から第四突堤(小野浜町には三井埠頭もあるようです)までのみが、くし型の突堤の、往時の様子を残しているようです。海運の物流がコンテナを主流とするようになり、神戸港における積み下ろしの主力はポートアイランドのコンテナバースなどに移っているということなのかもしれませんが、大貿易港神戸を象徴してきた、突堤の「ぎざぎざ」がなくなっていくのは、何か切れ味鋭い刃物が磨耗していく様を見ているようで(実際に衰退しているというわけではないのかもしれませんが)、時代の移り変わりを感じるような思いでした。モザイクでの休憩の後、そのような、突堤間の埋め立ての走り?として作られた「メリケンパーク」へと歩きました。



ポートタワーとホテルオークラ神戸
(中央区波止場町、2003.3.22撮影)
メリケンパークとオリエンタルホテル

メリケンパークとオリエンタルホテル
(中央区波止場町、2003.3.22撮影)

メリケンパークは、中突堤と、開港以来の歴史を持つメリケン波止場との間を、1987年に、神戸港開港120周年記念事業として埋め立てて整備された公園です。シンボル施設として、神戸海洋博物館が建設されています。メリケンパーク東側には、メリケン波止場が昔ながらの佇まいで保存されていたのですが、震災によって大きく崩壊し、地盤が傾いてしまいました。現在、その一部が「神戸港震災メモリアルパーク」として、震災後の姿のまま保存されていまして、震災の恐ろしさを今に伝えております。また、このメモリアルパークの横を北へ向かい、国道2号と阪神高速の間の波止場には、多くのはしけが係留されています。これらのはしけは、大型の貨物船が到着したときには、船に近づいていって荷物をその船に積み替えて、陸揚げするという役割を担ったものであるとのことでした。

神戸港震災メモリアルパーク

神戸港震災メモリアルパーク
(中央区波止場町、2003.3.22撮影)

震災の惨禍と、海上貨物輸送の変化、都市開発の態様の変容、それらすべてが渾然一体となって、現在の神戸港は存在している。ポートアイランドや、兵庫方面など、神戸港の機能を分担する諸地域のすべてを見たわけではないので、はっきりとはいえない部分もありますが、きらびやかに燦然と輝く現代の神戸港の姿は、このような姿として、私の目には映りました。

阪神高速の下をくぐり、神戸税関前を通過して国道2号線の交差点に達すると、神戸の旧外国人居留地の西端に行き当たります。この居留地は、神戸市役所の北側、有名な花時計がある場所のすぐ北側の通りより南側の地域一帯に形成されていまして、現在でも整然とした区画がされていますから、地図上で見ても一目瞭然です。アメリカ合衆国をはじめとしたいくつかの国家は、締結された修好通商条約のなかで、際開港を求められた5つの港(函館、新潟、横浜、兵庫、長崎)に対し、開港に付随した条件の1つとして、外国人居留地の設置を要求しました。外国人居留地は、日本の行政管轄外に置かれ、完全な外国人による自治が行われていました。兵庫(先述のとおり、実際に開港場となったのは神戸だったのですが、公式文書上はあくまで「兵庫」とされていました。また、改めて整理しておきますと、現在は「神戸市」として広域な範囲を指す行政地名となっている「神戸」も、もともとは三宮や元町付近にあった一寒村の名前に過ぎませんでした。神戸村は、北前船交易などによって伝統的な港町として成長していた兵庫津のはずれの一集落だったのです)の場合、1868年1月の開港から、1899年までの間、居留地がこの地で営まれました。ただ、開港の遅れなどの諸要因によって、居留地の整備に時間を要したことから外国人の居住地の確保が十分でなかったことが、北野町などの異人館街を生んだことは、既に述べました。「メリケン波止場」の名前も、この波止場の前にアメリカ合衆国の領事館が設けられたことに由来しますが、旧居留地とメリケン波止場をはじめとしたオリジナルな神戸港から、港町神戸の成長は始まったといえるのでしょうね。

後半へ続きます)

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