Japan Regional Explorerトップ > 地域文・近畿地方 > 神戸メモリーズ・アンド・メロディーズ・目次

神戸メモリーズ・アンド・メロディーズ

元町から三宮へ 前半へ 「和田岬から兵庫運河へ」 へ →


前半からの続き)

旧外国人居留地の西端を通り、神戸の中華街である「南京町」へと向かいました。南京町といっても、正式な地名というわけではなく、住居表示の「元町通」と「栄町通」との境界をなす路地を中心とした地域を指します。南京町の中華料理店が組織する組合が、町の名前「南京町」そのものを商標登録していて、組合の許可なくして「南京町」という名前を使用することができないという話も耳にしましたが、本当のことかどうかは分かりません。大丸デパートの向井の東側入口の楼門をくぐって、南京町へと入っていきました。
街中は、休日に挟まれた土曜日ということもあってか、芋を洗うような人ごみでした。まちなみも、朱色で統一されており、雑多な印象が緩和されているように思われました。中華街のほぼ中央のちょっとした広場には、楼閣のようなモニュメントも設置されていまして、中華街としての一体的な景観づくりがなされているように感じられました(中国における都市景観について知識がなく、目にしたこともないので、はっきりとしたことを申し上げることはできないのですが・・・)。


南京町の活気は、その北側の元町商店街から、三宮センター街と歩いても、そのまま受け継がれていました。神戸市中心部を代表するアーケード街は、人並みが途切れることがなく、現代の神戸まちが今日ある力の源泉を見たような気持ちがいたしました。

三宮に戻り、神戸の町をいっぱいに俯瞰できる神戸市役所へと向かいました。有名な花時計の前を通過すると、神戸市役所は目の前です。神戸市役所のある場所の住居表示は「加納町6丁目」です。地図を確認しますと、この「加納町」がフラワーロードに沿って、新神戸駅前から1丁目、2丁目、・・・、とこの神戸市役所のある6丁目まで、帯上に割り出されているのが理解できます。これは、フラワーロードに沿って流れていた旧生田川の流路を、現在の新生田川の流路につけかえる造成工事を行った加納宗七の名前に因むものです。神戸市役所南の広場「東遊園地」には、彼の功績を称えた「加納宗七の碑」があるのだそうです。以上の事実が物語りますように、フラワーロードは元来河床であったわけでして、地盤もそれなりに軟弱な性質がありました。また、生田川は河床が流域の標高よりも高いいわゆる天井川を形成しており、フラワーロードもそれを反映して、中央部が盛り上がった格好をしています。このことが、三宮地域、特にフラワーロード沿線における震災の被害を相対的に大きくしたのではないかという指摘があるようです。

目の前の神戸市役所は、高層の1号館と、低層の2号館とによりなっていますが(西側には3号館やその別館もあるようです)、北側の低層の2号館は、震災によって押しつぶされた部分を除去したうえで、現在でも庁舎として存続しているものなのだそうです。この神戸市役所を含め、神戸国際会館などの高層ビルが倒壊または損壊の被災を受けたといいます。神戸市役所1号館に入り、最上階の展望階より、夕闇のせまる神戸の町並みを眺めました。ほんとうに、美しかったですね。

元町商店街の様子

元町商店街の様子
(中央区元町通、2003.3.22撮影)
神戸市役所

神戸市役所(2003.3.22撮影)
(手前が、上層が押しつぶされた建物)
花時計

花時計
(中央区加納町、2003.3.22撮影)
市役所からの眺望、須磨方面(西)

神戸市役所からの眺望
(西方向、2003.3.22撮影)
市役所からの眺望、灘方面(北東)

神戸市役所からの眺望
(北東方向、2003.3.22撮影)
市役所からの眺望、三宮方面(北)

神戸市役所からの眺望
(北方向、2003.3.22撮影)


西側は、須磨方面の六甲山地に、いままさに太陽が沈まんとしているなか、切れ間なく続く神戸の市街地がゆったりと広がって、山の懐に抱かれて発展した大都会の営みが想起されるように思いました。

南側は、ポートアイランドが目と鼻の先に横たわって、現代の港町神戸の趨勢が実感できるような、燦然とした光景が展開します。ポートアイランドの先には、神戸空港の人口島もうっすらと眺めることができました。眼下には、今まで歩いてきた元町やハーバーランド方面も見ることができます。

北側には、三宮の市街地を介して、すぐそこに六甲の山塊が逼ります。そこから、東へ、また西へ、市街地が隙間なく展開し、阪神間の大都市地域が連なっている様子が、手にとるように実感できます。海と、山とに接する大都市神戸のすがたを、いっぺんに見ることができる場所は、そうないのではないかとも思われるのでした。

神戸の市街地と地形との関係について、若干触れます。一見して確認することができることは、六甲山麓が刃物ですぱっときったように刻まれたようなラインが東西に繋がっているように見えることでした。地形図上でも明瞭に読図できますし、宇治川は、中山手通七丁目の北側でこのラインに沿って河道が大きくゆがめられている様子も見て取れます。申し上げるまでもなく、このラインこそ、震災を引き起こした活断層の一部です。この活断層の活動が六甲の山系を形成し、神戸市街地の乗る扇状地や沖積地を埋める土砂を供給し、神戸市の風光そのものを形作ったこともまた真実です。

そして、震災の被害があまりに衝撃的なため一般にはあまり認知されていないきらいがあるのですが、神戸市を含む阪神地域が何度なく被ってきた災害として、「水害」があります。南側に開けた土地柄で、南から湿った空気が入ると大雨になりやすく、また延長の短い河川は氾濫しやすい特質を持っています。1938(昭和13)年7月におきた阪神大水害はこの地域に未曾有の被害をもたらし、死者600名を超える大惨事となりました。現在でも、阪神地域にはこの水害の教訓を刻んだ水難碑が各地に残されているそうです。

この前日、私は神戸市がもつ3つの貯水池の1つ、布引貯水池を潤す布引谷を望む立地にある布引ハーブ園からの夜景を楽しみました。この布引谷は、神戸の市街地に出る手前で布引雄滝、布引雌滝となっているのですが、この貯水池から供給される水は、かつては貿易港神戸に停泊する船舶に供給され、そのおいしさから「コウベウォーター」としてかなり人気があったと聞きます。また、かつては神戸市内を流れる河川には水車小屋が多く設置されていまして、地域生活を支えていました。このように、水の面でも、神戸は神戸らしさを与えられるとともに、また水によって試練を与えられていました。神戸はいい意味においても、また悪い面においても、六甲山地とそこから流れ出る河川とともにあったといえるのかもしれません。

布引ハーブ園や、そこへ向かうロープウェイ(愛称:神戸夢風船)からは、筆舌に尽くし難いほどの輝かしさを誇る、神戸の町が広がっていました。このすばらしいまちは、いつまでも神戸らしさを持ちつづけながら、輝きつづけていくのだ。目の前の風景は、揺るぎないこのまちの主張を、はっきりと表現しているように思われました。


このページのトップへ

元町から三宮へ 前半へ

「和田岬から兵庫運河へ」 へ

神戸M&Mトップへ

ホームページのトップへ


Copyright(C)YSK(Y.Takada)2003 Ryomo Region,JAPAN