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神戸メモリーズ・アンド・メロディーズ

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II.兵庫津の道


兵庫津は、古来より重要な港湾としての地位を占めてきました。その繁栄は、平安時代、兵庫津がまだ「大輪田(おおわだ)の泊」と呼ばれていた頃、平清盛によって大改修が行われ、日宋貿易の拠点として整備されたことから始まるといわれているようです。その後も、日明貿易や江戸期における北前船交易、あるいは参勤交代においても、兵庫津は物流・交流の拠点として栄えました。

現在は、神戸市の一行政区としてその名を残す兵庫津ですが、その豊かで重厚な歴史を今に伝える事物が、今でも町の中に点在しています。「兵庫津の道」は、それらを結ぶルートの愛称として一般公募で選定されたもので、その途上には案内表示や地図などが整備されています。

そんな歴史の町、兵庫を歩きました。


(4)和田岬から兵庫運河へ 〜兵庫津の足跡を辿る〜

新長田から、地下鉄海岸線を利用し、和田岬駅へ。地下鉄出口を出て、現れたJR駅は、簡素な駅舎に、人影のない直線のプラットホームがあるだけのものでした。この山陽本線の支線の伸びる先に、和田岬があります。和田岬は、かつては兵庫津方向に流下していた旧湊川から供給される土砂と、明石海峡方向からの海流にのった土砂とが堆積してできた砂州で、地形の様子を見ますと、川崎造船神戸工場のある岬状の地形もまた旧湊川によって形成されたものであろうと思います。兵庫津は、和田岬によって西からの風浪から守られていて、このことが港町としての成長の基礎となりました。なお、もとの湊川は、神戸と兵庫の市街地を分断し、かつ天井川でしばしば氾濫を起こしていたことから、現在の新開地があるルートを流れていたものを、1897(明治30)年から4年の歳月をかけて流路を付け替えられました。そして、苅藻島西側に河口を持つ新湊川へと変貌しています。なお、和田岬には、外国船侵入の増加に対応するために幕府が1864(元治元)年に建設した和田岬砲台の跡が三菱重工工場敷地内に現存します。また1871(明治4)年、兵庫(実際は神戸)開港後には、近代的な灯台が設置されました。現在は、JR須磨駅近くの須磨海浜公園の一角に移設保存されているようです。

ようこそ兵庫津の道へ

「ようこそ兵庫津の道へ」
(兵庫区上庄通二丁目、2003.12.13撮影)
土曜日の昼下がりで人通りもほとんどない和田岬駅横の路地から、「兵庫津の道」は始まります。駅の東側、三石神社から和田神社方向へとつながる歩道は、きれいに整備されていて、東側の壁には、「ようこそ兵庫津の道へ」と書かれたモザイク作品が掲げられていました。新川運河や和田岬砲台、兵庫大仏、神戸港などのモザイク作品が連続し、周囲を暖かい雰囲気に演出していました。「兵庫津の道」散策はきっと楽しく、味わいのあるものなのだろう、そんな気持ちを掻き立ててくれます。和田神社の大きな鳥居の横を過ぎ、兵庫工業高校・神戸工業高校北の道路を西へ進み、さらにその先の交差点を清盛橋方向(北方向)へ折れて、運河の方向へと進みました。


兵庫ゆかりのモザイク作品が並ぶ

兵庫ゆかりのモザイク作品が並ぶ
(兵庫区上庄通二丁目、2003.12.13撮影)
付近は、基本的には工業地域で大小の工場が並んでいるのですが、「住宅地分譲予定」と書かれた幟り旗に囲まれた広大な空地もあり、工場の間に屹立する高層マンションの多さとあいまって、住工混在地域としての性格が濃厚な地域であることを示していました。この広々とした土地も、もとはきっと大きな工場が立地していたのでしょう。その工場が廃止され、撤去されてできた土地が、大規模な住宅団地へと変貌を遂げようとしている現場なのであろうことが想像されました。この光景は、兵庫の町が戦後歩んできた道のりを多かれ少なかれ、象徴しているのではないか、今振り返りますと、ふとそんな気持ちになります。工場やマンションの建物の隙間から、六甲の山なみが覗く光景は、兵庫のまちの今と、いろいろな個性を内包した「神戸」という町の、鮮やかなバラエティとを、巧みに織り交ぜたポートレートのように思えました。

住宅団地予定地と兵庫の町並み

住宅団地予定地と兵庫の町並み
(兵庫区今出在家町三丁目、2003.12.13撮影)
兵庫津の道案内表示

「兵庫津の道」案内表示
(兵庫区和田宮通二丁目、2003.12.13撮影)

兵庫運河を渡る清盛橋の南東に、薬仙寺(時宗)が佇みます。この寺院には、幾層もの歴史を伝える、数々の碑が建立されていました。「花山法皇歌碑」は、若くして妻を失い、また藤原氏の策謀で19歳にして退位、出家して花山院(三田市)に隠棲した花山天皇(968〜1008)の詠じた歌が刻まれたものです。法皇は、大輪田(のちの兵庫)の海をこよなく愛し、しばしばこの寺に逗留したと伝えられているのだそうです。「後醍醐天皇御薬師出現古跡湧水の碑」は、後醍醐天皇が付近の福厳寺に滞在した際、ひどい頭痛に悩まされ、この寺に湧いた霊水を捧げたところ頭痛が癒えたため、天皇より「医王山」の山号を下されたという言い伝えを伝えるもの(「薬仙寺」という名前もこの出来事に由来すると言われているようです)、また、「萱の御所跡の碑」は、平清盛が後白河法皇を押し込めたという萱の御所のあったことを示すものなのだそうです。幕末には、イギリス初代公使オールコック一行が、兵庫開港予定地を視察するために1861(文久元)年に兵庫を訪れた際、この寺が宿舎になったこともあったのだそうです。兵庫津の数々の歴史を見守ってきた薬仙寺は、近代におけるこの町の悲劇をもその目にしました。

「戦災・震災モニュメント」として、大輪田橋の石材の一部もまた、薬仙寺の境内に保存されています。その建立の経緯が以下のように表示されていました。

「大輪田橋は、神戸の誇る名橋として全国的に知られている。1945(昭和20)年3月17日の神戸大空襲では、この橋近くに避難した五百名を越すともいわれる市民が犠牲になり、橋も炎で真黒く焼け焦げた。それから丁度半世紀、1995(平成7)年1月17日の大震災でも大被害を受け、親柱などの石材が大崩落した。修復にあたり旧石材破棄するに忍びず、ここにその一部をモニュメントとして保存した。大空襲・大震災の惨禍を後世に伝え、また犠牲者に鎮魂のまことをささげるものです。」

薬仙寺

薬仙寺
(兵庫区今出在家町四丁目、2003.12.13撮影)
戦災・震災モニュメント

戦災・震災モニュメント
(薬仙寺境内、2003.12.13撮影)

記憶に新しい大震災の被害、そして工場を多く抱えて戦時中に甚大な空襲を受けた地域の記録として、犠牲になった尊いいのちを悼むシンボルとして、そのモニュメントは大切なことを訴えかけているかのようでした。そして、兵庫津は、古来より栄えた港町として、また神戸の町の成長を支えた産業の町として、ゆたかな風光と文化、人々の息吹を育んできた街なのだ、ということを何よりも雄弁に語りかけてくれているようにも思えました。花山法皇の詠んだ歌には、そんな美しい大輪田の泊への思いが込められています。

「有馬富士ふもとの海は霧に似て波かと聞けば小野の松風」

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