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神戸メモリーズ・アンド・メロディーズ

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5)運河沿いから兵庫港へ 〜運河に象徴されるまち〜

清盛橋は、兵庫の町をUの字にくり抜く新川運河から西へ分岐した、兵庫運河を跨ぐ橋です。苅藻島方向に掘削された兵庫運河には、高松橋あたりから北へ分岐する支線もあります。あまり知られていないことですが、兵庫運河は日本最大の運河です。そして、そのような長大な運河の建設が、国や県などの事業として行われたわけではなく、民間の有志が中心となって行われたという事実には改めて驚かされます。当時の兵庫津における漲る活力が推し量られますね。

和田岬付近の海上は、海流が強いために海の難所として遭難する船が多い海域でした。そこで、和田岬を迂回せずに兵庫港に入港できるようにするために、運河の開削は早くは天明年間(1781〜1789年)から検討されてきたのですが、実際に事業が着手されたのは、初代神戸市会議長も務めた神田兵衛門の手によるもので、1873(明治6)年のことでした。神田兵衛門は兵庫県と伊丹の小西新右衛門、兵庫の北風荘右衛門から5万円の資金提供を受け「新川社」を設立し、運河の建設を開始しました。難工事のため、当初の計画は縮小され、新川運河と呼ばれる半円形の運河として完成しました。この運河の設置により、南東方向からの風浪から船を守るための場が確保されることとなりました。現在でも、入江橋付近には多くの船舶が係留されていて、船の休息場所となっているようです。


清盛橋から見た新川運河

清盛橋から見た新川運河
(2003.12.13撮影)
清盛橋から見た兵庫運河

清盛橋から見た兵庫運河
(2003.12.13撮影)
清盛塚と琵琶塚

清盛塚と琵琶塚
(兵庫区切戸町、2003.12.13撮影)
大輪田橋と大輪田水門

大輪田橋と大輪田水門
(兵庫区切戸町、2003.12.13撮影)

その後、神田兵衛門の事業を受け継いで、兵庫運河を完成させたのが八尾善四郎でした。予定地の地主の反対や、日清戦争後の土地の急騰によって工事は困難を極めましたが、1898(明治31)年に兵庫運河は現在の形を見ました。この時、運河の開削した土砂を利用して苅藻島がつくられました。こうして、兵庫港の長年の悲願であった運河計画は実現し、船舶の航行や貨物の陸揚げは飛躍的に合理化されました。青々と海水を湛える運河を見渡すと、そうした兵庫の人々の心意気と、兵庫の町の力強さのようなものが感じられるようでした。港湾の近代化に伴って、運河はその役割をほぼ終えた状態にはありますが、運河は、まさに兵庫津の歴史そのものを象徴する遺産として、兵庫にはなくてはならない存在であるに違いありません。初冬の運河は空のクリアな青色をそのままに受け止めて濃紺色の輝きを見せて、付近の工場や住宅地を見守っているかのようにたおやかな表情を見せていました。

清盛橋北詰の交差点の北東、兵庫住吉神社の境内には、十三重の石塔と石像、石碑が並んでいます。清盛塚、平清盛像(1972(昭和47)年に建立されたもの)、そして琵琶塚です。清盛塚は、1286(弘安9)年の銘があり、昔から清盛の墓と信じられ、8.5メートルの高さの堂々たる石塔です。1923(大正12)年に市電松原線の敷設に伴う道路拡幅のために、北東へ11mの現在地に移転した際発掘調査が行われましたが、清盛と石塔との関連を示す証拠は発見されず、清盛の墳墓ではないとする見解が有力となっています。琵琶塚は、元々清盛塚と小道を挟んで北西の位置にあった前方後円墳であり、1902(明治35年)に有志によって塚の上に「琵琶塚」と掘られた石碑が建てられていたものを、清盛塚の移設とともにその石碑を現在の位置に移したものです。平清盛は、日宋貿易の拠点とするため、大輪田の泊に経ヶ島と呼ばれる人工島を整備し、港湾としての修復を図り、このことが兵庫津の繁栄の礎となりました。そのため、兵庫では古来より平清盛を恩人として称え、その墓と目された清盛塚を厚く供養してきました。歴史の教科書に一般的に見られる平清盛像は、とかく横暴な側面が強調されているようにも思われます。しかしながら、大輪田泊建設時に清盛が記した文献をつぶさに跡付けますと、そこには死を迎える前に多くの民が喜ぶようなことをしたいという記述が見られるのだそうです。港の建設のための費用についても、当初は私財をもって賄っていたという史実もあります。清盛本人の気持ちを知る術はないのですが、天下の頂点を極め、最期はたくさんの人々のためになることをしたいという気持ちが少なからず清盛にあったことを評価してもよいのかもしれません。清盛塚の立派な姿は、何より清盛の功績が兵庫の町の基礎となり、その後における、兵庫の人々の生活を支えていくきっかけとなったことへの、人々の尊敬の気持ちが集約されています。兵庫では、平清盛は土地の開祖として、揺るぎない信仰を得ています。

2度にわたる惨禍を乗り越え、美しい景観を運河に映す大輪田橋のたもとから、運河沿いに歩きます。付近には大輪田水門があります。ここから入江橋までの間の運河の西側は、「キャナルプロムナード」として整備され、市民の憩いの場となっています。プロムナードは、運河の岸壁を取り壊し、新たに遊歩道に生まれ変わり、運河に向かって木製のデッキが張り出す構造になっていまして、周辺の都市景観や、その向こうに垣間見える山なみとあいまって快いウォーターフロント景観となっています。1993(平成5)年に完成したプロムナードと新川運河を挟んだ対岸には、中央卸売市場があり、この一帯は、かつて兵庫城があった場所です。兵庫城は、1580年に落城した花隈城の用材を使って、織田信長の家臣、池田恒興(つねおき)によって築城されました。城の様子を伝える文献として、第1回朝鮮通信使の副使として来日した慶暹(けいせん)の記した『海瑳録(かいさろく)』が知られていまして、その中で兵庫城は、「領主の所に行く、周らすに城池を以てし、門は三重に設く」と描写されています。残された絵図などの分析によって、城の大きさは140メートル四方で、その周囲に3.6メートルの堀がめぐらされていたようです。規模としてはそれほど大きい城ではなかったようですが、朝鮮通信使の目には、一定の拠点性のある城として映ったことと思われますね。そのことは、この場所に一時兵庫県庁が設置されていたことでも窺い知れます。県庁の移転後は、1874(明治4)年の新川運河の掘削と翌1875(明治5)年の市街区整備によって、堀の外側に残されていた土堤などが失われ、兵庫城の痕跡は現在では全く残っていないようです。中之島にあった「兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地」と記された石碑は、現在対岸のキャナルプロムナードの一角に移設されています。

キャナルプロムナード

新川運河、キャナルプロムナード
(兵庫区切戸町、2003.12.13撮影)
兵庫城跡石碑

兵庫城跡(最初の兵庫県庁跡)の石碑
(兵庫区切戸町、2003.12.13撮影)
プロムナードに設置された表示を撮影

1880(明治13)年当時の兵庫
(新川運河が描かれる)
プロムナードに設置された表示を撮影

1897(明治30)年当時の兵庫
(兵庫運河が完成)

後半へ続きます)

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