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シリーズさいたま市の風景

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#4 荒川の東方(前) 〜秋ヶ瀬公園とその周辺〜

 ひとまずJR西浦和駅で終わった私のさいたま市探訪ですが、11月16日、この西浦和駅から探訪を再開し、旧浦和・大宮市を北へ進んでJR指扇駅までを踏破しました。さいたま市の区名案では、概ね「桜区」予定区域から「西区」予定区域までとなります。西浦和駅に向かうにあたり、前回のコースを車窓から眺めようとJR埼京線を利用してみました。北与野、与野本町、南与野、中浦和と向かうにつれて市街地が低密度になり(つまりは畑などの土地利用が増え)、武蔵浦和で再び住宅が増える様子が概観できました。また、東側の車窓からは、浦和の市街地が乗る台地の縁に連なる緑が市街地の良いアクセントとなっている様子も見て取れました。

JR西浦和駅周辺は、新大宮バイパスが地域を縦断していることも影響してか、住宅地と、工場と、流通団地とが入り混じる地域となっているようでした。また、もともとの基盤は農村集落であったため、所々にその面影を思わせる樹林地や耕地も見受けられました。この傾向は、新大宮バイパス西側でより顕著で、まだ建築後あまり建っていないと思われる巨大マンションと道を一本隔てて町工場が立地している場所もありました。そんな西浦和駅周辺を概観しながら、志木街道を西に進み、秋ヶ瀬公園に入る道を北へ進みました。付近には浦和ゴルフ場もあります。この日はウォークラリーが開催されていたようで、多くの人たちが秋ヶ瀬公園を北から南へ歩いてきていました。私はその流れに逆らうように、南から北へ秋ヶ瀬公園内を進みます。

秋ヶ瀬公園
秋ヶ瀬公園内の様子(2002.11.16撮影)

秋ヶ瀬公園は、志木街道から埼大通りの間の荒川沿いに作られた公園で、大きく分けてグランドやテニスコートなどのスポーツ関連のゾーンと、野鳥観察の森やピクニックの森などの自然観察・体験関連のゾーンに分けられる、比較的広大な公園です(地図上で大雑把に見積もると、東西1キロメートルほど、南北2.5キロメートルほどの広がりです)。公園西縁の道路に付けられた歩道は、柳など河川敷に良くある植生をある程度生かした街路景観でまとめられていました。その中でも一際目立つのが、野鳥観察のために河川敷の植生をなるべく壊さず再現したと思われる「野鳥園」でした。ヤナギの仲間をはじめ、桑や竹などが生い茂り、カラスウリが枝からたくさん垂れ下がり、足元も、気をつけないとヌスビトハギの種子などが衣服についてしまいます。時々葦が生えた沼沢地もあり、中には落雷によると思われる、途中から幹が裂けて垂れ下がった柳の木さえありました。都市近郊のきれいに整備された公園に慣れた目で見ると、ここまで極力自然のままに植生を残した景観は逆に新鮮かもしれません。時折武蔵野線の電車の音などが聞こえて、大都市地域近隣に自分がいることに逆に気付かされるほどでした。

 秋ヶ瀬公園には、もう1つ自然の林をなるべく保存した一角があり、「ピクニックの森」と呼ばれています。こちらは埼大通りに近い、公園の北側にあり、ヤナギ、シイノキ、クヌギ、ナナカマドなどが繁茂していました。沼沢地も随所にあり、イネ科の植物たちやオナモミなどの草本が豊かに生育していました。荒川に隣接したこの地域は、東側を流れる鴨川の堤の内側の低湿地で、おそらく豪雨の際にはしばしば荒川から水が溢れて浸水する土地なのであろうと推察しました。また、付近の大字の飛び地が複雑に錯綜しており、雑木の供給源などの機能を持つ、周辺集落の入会地としてのバックボーンを持つ土地なのではないかとも考えられました。

秋ヶ瀬公園、ピクニックの森
秋ヶ瀬公園内、“ピクニックの森”
(2002.11.16撮影)

秋ヶ瀬公園は、以上のほかにグラウンドやテニスコートなど、広大なスポーツ施設もあり、また芝生にメタセコイアや桜などを植え込んだ、近代的な公園もまた整備されています。この日は、ウォークラリーに参加していた人たちをはじめとして、スポーツを楽しみ人々、公園内を散策する人々、バーベキューやオートキャンプを楽しむ人々など、多くの人たちが公園で充実した土曜日を過ごしているようでした。広大な秋ヶ瀬公園をやっとのことで縦断し、埼大通りに出て、辺りの景観を一瞥すると、そこには堤のすぐそばの低地まで溢れた住宅地が彼方まで広がる様子が見て取れました。日本一の長さを誇るという埼大通りのケヤキ並木は豊かに色づき、はらはらと木の葉を散らしていました。通りの南側は、住宅地が比較的切れ目無く続くのに対し、北側には住宅に加えて木々や畑なども目に付く景観となっているようでしたね。下大久保交差点から県道さいたま鴻巣線を北に進んでも、畑の中に屋敷林を伴った古い住居が点在する景観をベースに、新しい住宅やアパートなどがまばらに立地する景観が続きました。私にとっては初めて訪れた場所でしたが、その景観は私の居住する両毛地域でも見られそうな、ごくありふれた関東内陸の一風景であるように思われました。

 やがて、カステラで有名な某菓子メーカーの工場横に差し掛かると、旧大宮市との境界が迫ります。この工場の北側にある小規模な三面側溝の用水路が境界なのですが、道路の端、用水路の両側にかなり錆びたポールが2つ、所在無さそうに立っていました。このポールは、「浦和市」、「大宮市」というプレートを掲げていたのでしょうか。あと半年後、この場所には政令市の行政区を示す看板が設置されることでしょう。とはいえ、小さな用水路を挟んだ南北の地域が行政的に別区域であることを視覚的に判別することは難しく、荒川の東方に広がった農村地域−その後の都市化の波を緩やかに受けた地域−が、ただそこには存在しているだけのように思われました。

(以下、後編へ続きます)

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