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シリーズさいたま市の風景

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#3 台地に抱かれた「低地」〜都市化と武蔵野のはざま〜


与野本町を受け継ぐ本町東、本町西地区を過ぎ、芸術劇場を一瞥して旧中山道脇往還を南に行くと、徐々に与野の町ののる台地の末端部にさしかかります。鈴谷2丁目から、旧浦和市の西堀10丁目にかけて、台地の崖下の低地をなぞるように進む埼京線と新幹線及び南与野駅の姿を遠望することができます。このあたりからは、畑や屋敷林など、農村地域の名残をうかがわせる土地利用が、住宅地の間にちらほら見えるようになってきます。そして、日向交差点の丁字路に向かって道は一気に坂を駆け下り、霧敷川、鴨川のつくる低地に向かってさらに下り坂が続きます。今回私は西浦和方面向かおうと決めていたので、日向交差点を西に進みました。西堀地区と南元宿地区との間の急崖は、比高約8メートルほどにもなる落差です(地形図上で計測)。地質が台地から低地へ移行した証でもあるのでしょう。このように、桜区予定区域の特徴の1つは、台地上に展開する大宮、浦和、与野の中心市街地とは異なり、基本的に低地に広がる地域であるということだと思います。

与野の大カヤ
与野の大カヤ(2002.11.10撮影)
※(2)を参照

とはいえ、大都市圏からのスプロールに見舞われた、住宅だらけの地域性という点では、この地域は例外ではありません。南元宿地区を西へ、浦和西消防署、市立土合(つちあい)中学校の前を過ぎても、道路ぎりぎりまで住宅に充填された低地帯は途切れることがありません。また、そのなかの片側一車線の道を、車やバスなどが長蛇の列を作って行き過ぎます。ただ、所々に残る畑や木々の緑を見つけては、ほっとするような、そんな感覚でした。中でも、旧家の軒先の柿木にたわわに実った柿の実は、秋のゆるやかな日差しの中で、一際目立って見えるのでした。一部の住宅の表札には住居表示前の「大字」と書かれたものも散見され、住居表示の地名も基本的にこの地域の大字を踏襲したものであることが理解できました。

そんな農村地域を基盤としながら、都市化の進んだこの地域の雑然とした雰囲気を切り裂くように、国道17号線(新大宮バイパス)と首都高速埼玉大宮線の巨大な構造物が現れます。町谷地区がこの道路の両側に分断されていることからも、この片側3車線の道路がこの地域をすぱっと問答無用に切り裂いてできたものであることが理解できます。ただ、この道の効用として、歩道橋上からこの地域の俯瞰を眺めることができたことくらいでしょうか。果たして、個人住宅、高層住宅、畑、樹林帯、産業道路沿線を志向した工場などがモザイク状に地域を埋めた姿を眺めることができました。

やがて、住宅地は鴨川の堤に至って途切れます。その西側には、荒川へと続く広大な水田地帯が突如として広がります。その低地の一部は、区名案の最終候補にも登場する「秋ヶ瀬公園」や「浦和新日本ゴルフ場」にもまた利用されています。また、このあたりで最も標高が低いためか、汚水処理場の立地も認められます。ただ、西方への眺望は抜群に開けていて、午後3時30分という時間帯もあり、まぶしいほどの夕日を西の空に望むことができました。そして、おそらく区名案選定の一要素になったと思われる「鴨川堤の桜並木」が堤防上を南北に連なります。時刻はちょうど休日の夕刻、犬を連れて散歩をする人影が見られました。日没が近くなったので、桜草公園や秋ヶ瀬公園へ足を伸ばすことは断念し、霧敷川にかけられた「桜橋」をわたって、志木街道を東に進み、新大宮バイパスを右折して、JR西浦和駅に到着しました。西浦和駅は、ガード下に、一定水準のサービス提供が可能な「駅」として運営し得る最低限の施設のみによって構成される、極めて簡素な駅でした。

鴨川堤から見た夕日
鴨川堤から見た夕日(2002.11.10撮影)

私が歩いた桜区予定区域は、「台地に抱かれた“低地”」、あるいは「都市化と武蔵野のはざま」に展開した、大都市近郊の住宅地であると思われます。住宅、高層建築物、緑地、畑、水田、工場が複雑に地域を構成するという等質性に象徴される土地といえましょうか。なかでも、西側に広がる広大な空間、秩父方面の山地(条件が良ければ、富士山も?)も望める、広い空を感じることのできるあの空間は、この地域のなかでも一際異彩を放つ地域であると言えると思われました。



        

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