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稲穂の色、潮騒の音
〜2007中国山地・山陰訪問記〜

2007年9月はじめ、中国山地から山陰の各地を彷徨しました。目に入るのは、たおやかな稲穂の大地、そして多くの情感に満ちた海の青でした。この地域が見せていた極上の輝きをストレートに感じながら、心の赴くままにYSKの見た地域を描写していこうと思います。

この地域文は、「中国山地のかがやき」  「山陰の鼓動」  「いま、そしてあしたへ」 の三部構成となっています。
             
山陰の鼓動

 さざなみの音は、海をたゆたう地球の営みをそのままに伝えているかのように、心地よく聞こえていました。石州瓦の朱色の屋根の家並みがしずかに佇む漁村風景。主要交通幹線から外れ、島根半島を形成する山地が日本海にそのまま裾をぬらしたような小規模な湾奥に、ひっそりと佇む漁村-島根県出雲市大社町鷺浦-での景色です。江戸期、日本海岸は北前船による交易がさかんで、流通の大動脈として機能していました。鷺浦は、北前船の寄港地として栄えた港の1つで、現在でも家々の軒先には廻船問屋としての屋号が掲げられています。

 小ぢんまりとした漁村となった鷺浦の家並みの中に商家が混在する景観は、北前船の時代とおそらく大きな相違点はないのだろうと思います。異なっているのは、港湾設備や漁船などが現代のものになっていることや、かつては集落と波止場が隣り合っていたであろうスペースに、アスファルトの自動車が通れる道路ができていることでしょうか。陸上交通、特に自動車交通が主要な交通手段となって久しい中、自動車を還流させる道路は津々浦々にその延長距離を伸ばしていきました。水上交通が当たり前に利用されていた時代、鷺浦への交通はもっぱら舟運が担っており、急峻な陸路を通ることはまさに非効率的な行為でした。自動車交通時代となり、道路が整備されてもなお、鷺浦を訪れる人の数はそう多くないようです。歴史的な景観を保ち続ける鷺浦の集落は、今でもなお海に向かいあっているのではないかと思い立ちました。人工的な音にさえぎられること無くかすかに響く潮騒は、この上ない貴重な存在であるように感じられました・・・。

鷺浦

鷺浦の景観
(出雲市大社町鷺浦、2007.9.3撮影)
鷺浦

鷺浦港
(出雲市大社町鷺浦、2007.9.3撮影)
鷺浦

鷺浦の景観
(出雲市大社町鷺浦、2007.9.3撮影)
鷺浦

鷺浦の景観
(出雲市大社町鷺浦、2007.9.3撮影)

 鷺浦への行程は、出雲市中心部のホテルから始まりました。旧JR大社駅舎の建物を見学後、観光客で溢れかえる出雲大社を経て、やはり観光目的での入り込みの多い日御崎へ。ここから島根半島の山中を進み、宇龍、鷺浦へ。宇龍もまた北前船の寄港地としての歴史を持つ集落です。東の十六島湾と、西の日御崎との間の小規模なリアス式海岸に守られた揺りかごのようなこれらの湾内は、日本海の波浪を避ける波止場として、また航行に適した風向を見定めるために一時的に停泊するいわゆる風待ち港としての重要な役割を担っていました。

 十六島湾岸の道幅の狭い道路を何とか進みながら、江戸期における海上交通の雰囲気を感じつつ進みました。道はやがて内陸側に進路をとり、平田市街地方面へ向かっていきます。島根半島の脊梁を超えますと、視界が一気に広がり、出雲平野の只中へと誘われました。斐伊川上流域の中国山地で盛んに行われていた「たたら製鉄」の副産物として大量に流出した土砂の影響等もあって、斐伊川は古来より流路が変遷し、現在のように宍道湖に流出するようになりました。ゆったりとした流れを見せる斐伊川は、川幅は広いものの河床は高いように見え、それは堆積の多いこの川の特質を反映したものであるのかもしれません。出雲平野の家々は「築地松(ついじまつ)」と呼ばれるこの地域独特の屋敷林を備えていまして、斐伊川の堤防からも築地松の見える散村の形態をはっきりと見て取ることができました。

宇龍

宇龍の家並み
(出雲市大社町宇龍、2007.9.3撮影)
宇龍

宇龍港
(出雲市大社町宇龍、2007.9.3撮影)
拝殿

出雲大社拝殿
(出雲市大社町杵築東、2007.9.3撮影)
旧大社駅

旧JR大社駅
(出雲市大社町北荒木、2007.9.3撮影)

 古来より、神話の空気が息づく出雲の大地は、斐伊川のすべてを包み込むような穏やかな水流とともに、ゆるやかに、中国山地と島根半島の丘陵のあわいに展開していました。大地には豊かに稲が風に揺れて、ここが遥か昔から豊穣の土地であったことを髣髴とさせました。そうした水田の鮮やかな色彩の中に点在する築地松のある集落の風景もたいへんに美しいパッチワークのように展開して、目の前の風景が、この地域をつないできた多くの場面や時間の累積によって形づくられているものであることに深い感慨を抱かずにはいられませんでした。それと同時に、斐伊川のゆったりとした表情は人間が自然を大規模に改変してきた史実をも示すものであることもまた、胸に刻まれなければならないのかもしれません。


日御崎

日御崎
(出雲市大社町日御崎、2007.9.3撮影)
斐伊川

斐伊川
(斐川町原鹿/西代橋、2007.9.3撮影)
出雲平野

出雲平野の散村景観
(斐川町原鹿、2007.9.3撮影)
築地松

築地松の見える景観
(斐川町原鹿、2007.9.3撮影)

 石見銀山のお膝元、大森の町並みを散策した後、温泉津を訪れる頃には、既に時刻は午後4時30分を回っていました。出雲平野を縦断後、中国山地の諸地域をドライブしながら三瓶山麓を軽やかに辿り、石見銀山でのフィールドワークを終えての訪問となったためでした。温泉津は、歴史のある温泉町。観光協会のサイトの表現をお借りしますと、

旅の僧が、湯に浸かって傷を治している狸を見つけたとか、縁結びの神様大国主命が病気のウサギをお湯に入れて救ったことから始まったともいわれています。
発見されてから約1300年の歴史を持ち、湯治場として評判の由緒ある温泉です。


とのことで、おとぎ話のような端緒をもつことからも、非常に古い温泉場であることが窺えます。温泉津を奥ゆかしいエリアにしている毛ひとつの重要なファクターが、「港」です。温泉津(ゆのつ)という地名が端的に示しているとおり、ここは温泉場のある港町で、北前船も寄港した、この地域の拠点的な港湾として機能した歴史を持ちます。石見銀山から産出された銀の積み出し港として中世より重要視されていた温泉津は、藩政期には天領である石見銀山領となり、天領の年貢の積み出しの役割の担っていました。温泉津湾の入口には、北前船などか停泊した時にもやい綱を結んだ「鼻ぐり岩」が残されています。残暑の空気が含む水分が俄雨となってアスファルトを濡らす温泉津の町並みを、夕闇の迫る中、散策しました。元湯と薬師湯の2つの外湯の特色溢れる温泉街の景観の中に、温泉津の庄屋・内藤家の建物や、北前船の守り神として信仰を集めた龍御前神社などの港町の雰囲気を感じさせる事物が重なって、穏やかな温泉津湾に向かうしっとりとした町並みが印象的でした。


温泉津

温泉津温泉街
(大田市温泉津町温泉津、2007.9.3撮影)
龍御前神社

温泉津・龍御前神社
(大田市温泉津町温泉津、2007.9.3撮影)
温泉津

温泉津・内藤家周辺の町並み
(大田市温泉津町温泉津、2007.9.3撮影)
温泉津

温泉津港
(大田市温泉津町温泉津、2007.9.3撮影)

 温泉津を後にしてからは、レンタカーを借りた三原へとひたすらに戻る行程となりました。江津、浜田を経由し、中国山地のあわいを進む高速道路を走らせます。温泉津をやわらかに潤していた雨は、引き続き強弱を繰り返しながらフロントグラスを濡らしています。ゆるやかにカーブを繰り返し、時に大きくアップダウンを繰り返す高速道路は、緑濃き山間を縫うように続いていきます。猫の額の平坦地さえ十分でない急傾斜地に集落を見つけますと、こうした集落の形成過程や現在までの存立過程がどのようなものであったかに想いが向かいます。現代のような土木技術も無い時代、この集落を切り開いた人々は、どのような地の利を求めてこの斜面に踏み入ったのか、そして今日までどのように集落として生き続けてきたのだろうか・・・。中国道に入り、広島道へ差し掛かる頃には、雨はついに時折激しく路面にたたきつけるほどになっていました。このあたりからは、こぢんまりとした集落に変わって、広島都市圏からあふれ出してきた現代的な住宅団地が山上に認められるようになります。山地の只中の小集落と、ベッドダウンの大規模な宅地開発の趨勢とを目に焼き付けながら、高速道路を三原へと走らせ続けました。雨は激しさを増しながら、依然として降り続いていました。

 「いま、そしてあしたへ」へ続きます。


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