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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#40 東京リレーウォーク(25) 〜三軒茶屋から碑文谷へ、台地上の住宅地域〜 (世田谷区・目黒区)

 2011年2月19日、世田谷区北東部を歩きながら三軒茶屋で終了した前回の訪問に引き続き、三軒茶屋から目黒区方面へ向かうフィールドワークを行いました。三軒茶屋については、前稿において、かつて新旧大山道の分岐点として茶屋がありそれが地名の由来であること、また交通上の結節性から町場としての礎を築いたこと、そして都心や渋谷への近接性から急成長し今日の繁華性が醸成されたことを指摘しました。首都高速が頭上を貫通する現代的な景観の三軒茶屋交差点には、世田谷通(旧大山道、登戸道)と玉川通り(大山道)との分岐点近くに道標が保存されています。三茶パティオを抜けて世田谷線の三軒茶屋駅を通って西へ進むと、最勝寺教学院。江戸五色不動のひとつ目青不動としても知られる古刹です。現代的な町並みの近傍に歴史を感じさせる事物が少なくないことも、地域が多くの歴史の積み重ねにより存立していることを実感させます。

道標

三軒茶屋・道標
(世田谷区三軒茶屋二丁目、2011.2.19撮影)
三軒茶屋交差点

三軒茶屋交差点
(世田谷区三軒茶屋二丁目、2011.2.19撮影)
キャロットタワー

三軒茶屋・キャロットタワー
(世田谷区太子堂四丁目、2011.2.19撮影)
目青不動

目青不動
(世田谷区太子堂四丁目、2011.2.19撮影)
教学院

最勝寺教学院
(世田谷区太子堂四丁目、2011.2.19撮影)
蛇崩川緑道

蛇崩川緑道
(世田谷区三軒茶屋一丁目、2011.2.19撮影)

 玉川通りを南に進み、通りを東西に通過する蛇崩(じゃくずれ)川緑道を辿ります。蛇崩川もこの地域にある小河川と同様にほぼ全河道が暗渠化されており、多くの部分で緑道として住宅街を貫いています。この川はこの地域では規模の大きい谷底平野をつくる目黒川の支流で、武蔵野台地の東南端に位置する台地(位置によって荏原台や淀橋台、目黒台などと呼ばれる)を緩やかに浸食して小規模な樹枝状の低地を形成しています。玉川通りからは階段で下って緑道に降り立つ格好です。明治期の地勢図を概観しますと、蛇崩川の流域は台地の間の細い低地で、、主に水田として利用されていたようです。現在では一面閑静な住宅街でそうした低い土地としての属性は一見して感じることはできません。しかしながら、緑道を横切る道路は緑道の両側で傾斜となっていて、やはりここが谷の底であることを実感させます。そのなめらかな高低差を北へ、下馬二丁目の西澄寺の山門は、江戸末期建築と推定される阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を大正末頃に移築したものと伝えられています。切妻造の山門は両袖にやはり切妻の出番所が配されていて、家格に応じて造られた大名屋敷の様式や規模を今に伝えています

 
 戦前1940(昭和15)年に開催予定で中止された東京オリンピックのメイン会場へのアクセス道路として建設された来歴を持つ野沢通りを越え、子の神と呼ばれ、源義家や頼朝が参拝し、頼朝が愛馬を境内の松の木に繋いだことから駒繋神社と称するようになった神社など、台地と小川とが和やかにたなびくような農村であった時代の痕跡を辿り、現在の住宅街となった地域を緑道にどって歩きました。東急祐天寺駅近くまで来て緑道を離れ、区境を跨いで目黒区へと入ります。小規模ながら商店街の集積がある祐天寺駅を経て、駒沢通り沿いの祐天寺へ。周囲の地名や駅名の由来となっている当寺は、芝増上寺第36世法主の祐天上人を開山として、その高弟祐海上人が師の遺志を継ぎ、この地にあった寺院を購入、1720(享保5)年に完成させたものです。


野沢通り

野沢通り、蛇崩川緑道に向かって緩やかに下る
(世田谷区下馬二丁目、2011.2.19撮影)
西澄寺

西澄寺・武家屋敷門
(世田谷区下馬二丁目、2011.2.19撮影)
駒繋神社

駒繋神社
(世田谷区下馬四丁目、2011.2.19撮影)
蛇崩川緑道

団地の中を進む蛇崩川緑道
(世田谷区下馬一丁目、2011.2.19撮影)
祐天寺駅前

東急祐天寺駅前
(目黒区祐天寺二丁目、2011.2.19撮影)
祐天寺

祐天寺
(目黒区中目黒五丁目、2011.2.19撮影)

 祐天寺駅前に戻り、東横線沿いに南下、守屋図書館の裏手に「五本木庚申塔群」が残されています。碑が面する小道は鎌倉へ通ずる古道である「鎌倉道」の一つであったと想定されていると、現地の説明板には記されていました。今はほとんど都市化された近隣に埋もれるようなかつての農村地帯を示す事物が、そうした急激な変化をもたらす原動力となった東横線の近くに残されていることに、歴史の機微のようなものを感じました。なお、現在周辺の住居表示になっている五本木は、かつての村名である上目黒村の字のようなもの一つで、住居表示設定の際に採用されたもののようです。鷹番も同様に字名が由来で、江戸期に将軍が盛んに行った鷹狩りの適地であったことが反映されたもののようです。こちらは、その後到達した学芸大学駅の開設当時の駅名にもなっている碑文谷村の小字でした。

 狭い街路に商店や飲食店などがひしめくようにある学芸大学駅の南へ、地域の憩いの場ともなっている碑文谷公園へと至りました。園内には碑文谷池があり、たおやかな水面を湛えています。立会川の水源であるこの池は、下流の谷底平野に造られた水田に水を供給する「溜め池」として、地域により共同管理されてきた由緒を持ちます。池には厳島神社(弁財天)が祀られ、地域の存立に重要であったこの池が大切にされて来たことを物語っています。東にある清水池も同様に立会川の水源で、この2つの池から流出した流れは東方で合流し、池を両端としたY字状の低地が形成されて主に水田として利用されてきましたが、いったいが宅地となり、整然とした区画となった現在はその痕跡を一見して見出すことも難しくなっているように思われました


学芸大学駅前

東急学芸大学駅前
(目黒区鷹番三丁目、2011.2.19撮影)
碑文谷池

碑文谷池
(目黒区碑文谷六丁目、2011.2.19撮影)

 世田谷区東部から目黒区を経て品川区、大田区にかけての一帯は、東京市(現在の東京都区部の前身)に組み入れられる前は荏原郡に属しました。現在の品川区西部にあった旧荏原区も郡名を採ったものであったのでしょう。そのため、当該地域に発達している台地は荏原台とも呼ばれます。江戸、後の東京に接してそれらの影響を緩やかに受けながらもこうした台地と台地を削る緩やかな小河川とに象徴された穏やかな農村地帯は、都心に隣接した環境の良い住宅地へとその姿を一変させてきました。今ではそうした時代からこの地域に住み続ける人々よりも、高度経済成長期以降に外部から移住してきた層のほうが圧倒的に多い中にあって、残された自然や歴史文化的な事物に学び、地域を理解することは防災面やまちづくりなどの面において大切なことであるのかもしれません。引き続き住宅地が大きく展開する現在の地域を、都立大学駅方面へと歩を進めました。

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