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会津若松、早春光明

 2007年3月、早春の会津若松を歩きました。例年より早いあたたかさのために市街地にはまったく雪が残っていませんでした。歴史的な雰囲気が濃厚にただよう城下町の風情に浸る行程となりました。

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ページ設置:2008年2月11日

会津若松駅から市街地へ

 2007年3月4日、JR会津若松駅を降り立ちました。例年であればまだ多くの積雪がある時期、市街地にはまったく雪がありませんでした(ただし、この訪問の後、会津地方は何度か降雪があり、この日の陽気が会津における例外的なものであったことは間違いなさそうです)。入口の部分に飾り屋根が突き出した町屋風の駅舎の前には、広大なタクシープールやバスターミナルの空間が広がり、さらにその周囲にも際立って高い建築物がないために、駅前はかなりゆったりとした印象です。この茫漠としたイメージが、城下町若松のキーワードといえるのかもしれません。

大町通り

大町通りの景観
(会津若松市大町二丁目、2007.3.4撮影)
大町四つ角

大町四つ角の景観(奥右方向が七日町通り)
(会津若松市大町一丁目、2007.3.4撮影)

 駅前を南北に走る「大町通り」は、昔ながらの商店が穏やかに軒を連ねる通りです。木造の建築物やコンクリートやタイルなど現代の素材を用いた建物が立ち並ぶ中にあって、時折豪奢な観音開きの窓を擁する土蔵造りの建物が見られるなど、伝統のある城下町の雰囲気を濃厚に感じさせました。大町通りには「野口英世青春通り」なる愛称が付けられています。野口英世博士が青春時代を過ごしたことからの命名とのことです。道路の中央線に沿って融雪パイプが埋設されているのが雪の多い土地柄を象徴しています。通りを南に進むにつれて町並みは徐々に厚みを増して、藩政時代から城下町の中心として栄えた大町四つ角へと至りました。

 大町四つ角は、藩政期にはお触書などが掲示される高札が立っていたことから「札の辻」とも呼ばれ、会津五街道と呼ばれる主要な街道の起点でもありました。若松における道路元票もここにあります。会津五街道とは、北東へ白河に向かう白河街道、南下して日光・今市に通じる下野街道(南山通り)、西へ新潟県新発田まで到る越後街道、北東へ二本松と結ぶ二本松街道、北の米沢とつながる米沢街道のことで、これらの道筋はその一部が現在でも主要道路として存続しています。四つ角周辺は「四つ角大正館」などのモダンな建物や中層のマンションや雑居ビルが集積していまして、現在においても会津若松市街地の主軸としての象徴性は健在であることを窺わせました。



四ツ角大正館
(会津若松市大町一丁目、2007.3.4撮影)
野口英世青春通り

野口英世青春通りの景観
(会津若松市中町、2007.3.4撮影)
中央通り

中央通りの景観
(会津若松市大町一丁目、2007.3.4撮影)
神明通り

神明通りの景観
(会津若松市大町一丁目、2007.3.4撮影)

 藩政期、城下町防衛上の理由などから、大町四つ角は十字路ではなく鉤の手状に交差しています。四つ角から西へ進む七日町通りは、五街道のうち越後、南山、米沢の三街道が重複します。西して間もなく南山通りが南へ折れ、市街地西郊で米沢街道が北へ分岐します。越後街道筋に直結する七日町通りは越後と会津とを結ぶ重要な交易の道で、藩政期より多くの問屋や旅籠が集積する町場が形成されていました。現在でも明治から大正期にかけてのモダンな建物が残されています。札の辻から東へ進むと、現代の会津若松市街地のメインストリートである中央通り・神明通りへ。中央通りは近代以降開かれたであろう新興の通りで、南に続くアーケードを擁する神明通りは城下町時代から続く街区です。百貨店や各種のビルなどが集積する現代の会津若松市街地を象徴する目抜き通りです。
 
 札の辻を中心に新旧の町並みが穏やかに交錯する市街地を散策しながら、造り酒屋や土蔵のある町並み、歴史的な雰囲気を生かしながら路面を煉瓦調に統一した商店街などを一瞥しました。傍らにあった「あいづっこ宣言」の表示板に目が留まりました。いじめ問題が紙面をにぎわせた際に注目された「ならぬものはならぬものです」で知られる教えですね。藩政期に本五ノ丁と呼ばれた通り(現在の市役所通り)に面する市役所は1937(昭和12年)建築。一見して重厚な建物も、柱の装飾などには趣向が凝らされておりまして、時代の要請に沿いながらも微細な部分にこだわりが垣間見えるようにも思われました。


鶴ヶ城から飯盛山へ

市役所前を過ぎ、若松城(鶴ヶ城)へと続く甲賀町通りへと進みます。通りを北へ進んだ先には、「甲賀町口門跡」の石垣が残されていまして、藩政期の城郭を偲ぶことができる数少ない事物となっています。大手門として16箇所あった他の門よりも厳重な構えをとっていたとされているのだそうです。この門を境に郭内(武家地)と郭外(町人地つまり城下町)とに分かれ、北へ向かって緩やかに下る地形は、近代以降に撤去された外濠があったことを示すものなのかもしれません。再び甲賀町通りを南へ戻り、重臣の邸宅地を受け継いだ文教地域や官公署立地区域を経て、場内へと進みました。1965(昭和40)年に復元された天守も眼前に迫ってきます。白虎隊に象徴される幕末のドラマティックな歴史の中で語らえることの多い鶴ヶ城については、多くの著述によって語られているところですね。甲賀町通りは1868(明治元)年9月22日に会津降伏式が行われた場所で、「会津戊辰戦争集結の地」と題された説明表示が設置されていました。多くの歴史ファンをひきつける会津幕末史に係る史跡もまた、歴史ある城下町には多く残されています。

 南北朝時代、若松城は当時この地に割拠していた葦名氏によって築かれました。1592(文禄元)年に会津に入った蒲生氏郷によって七層の天守閣を擁する城郭として再整備され、黒川と呼ばれた名を若松に改め、城の名前を鶴ヶ城と命名したのだといいます。1639(嘉永16)年に天守閣を五層にするなどの改築が行われ、現在の形が完成しました。現在鶴ヶ城跡は天守閣を中心とした緑豊かな公園となっていて、お壕や石垣、移築復元された茶室などの事物によって、歴史的な空気のも触れることができるエリアとなっていました。

七日町

七日町通りの景観
(会津若松市大町一丁目、2007.3.4撮影)
町並み

土蔵の見える町並み
(会津若松市日新町付近、2007.3.4撮影)
市役所

会津若松市役所
(会津若松市東栄町、2007.3.4撮影)
甲賀町口門跡

甲賀町口門跡
(会津若松市栄町、2007.3.4撮影)

 鶴ヶ城天守閣から会津若松の市街地を俯瞰します。わずかに残雪を纏う穏やかな山並みに抱かれた若松の町は、城跡を囲む木々の向こうにゆったりと展開していました。早春のやわらかな空の下に佇む町並みは藩政期以降この町が蓄積してきた古きよき姿を今に伝えているかのように目に映ります。近代都市は上空に、地下にそのテリトリーをがむしゃらに拡大してきました。しかしながら、そのような都市の膨張はごく最近の事象で、歴史の中で多くの都市は平面状の広がりの中で時代を生きてきました。若松の町は地に足を付けた姿を実に生き生きとした姿として見せてくれているように思います。都市という生活形態の持つ豊かさや多様性が模索される中にあって、こうした自然な広がりとのびやかさとを併せ持ち、また十分な中心性を持つ都市のあり方は、見直されたほうがよいのかもしれないなと思いました。そんな町並みの北東方向に見える飯盛山方面へと向かいました。

 天守閣を降り、二の丸方面へ進み、県立博物館や県立会津病院の前を通って、町並みを歩きます。先に紹介した甲賀町口門跡などとともに「史跡若松城跡」の一部として国の史跡となっている「天寧寺町土塁」を確認し、中央に心字の池を配した回遊式の借景園と、各種薬草を栽培する薬草園からなる名勝「御薬園」を垣間見ながら、早春の若松を歩んできます。冒頭にお話ししたとおりこの日はまったく積雪は無かったものの、御薬園前を通過する市の路線バスは冬季運行停止中でした。例年であればバスの安全な運行に支障をきたすほどの雪があることを示しているようでした。そのため、バスが通年通過する大通りまで出た上で、飯盛山方面へ向かう系統のバスに乗り込みました。

お濠

若松城跡・お濠
(会津若松市追手町、2007.3.4撮影)
鶴ヶ城

若松城(鶴ヶ城)天守
(会津若松市追手町、2007.3.4撮影)
市街地俯瞰

鶴ヶ城天守から見た会津若松市街地(北西方向)
(会津若松市追手町、2007.3.4撮影)
御薬園

御薬園(外観)
(会津若松市花春町、2007.3.4撮影)

 白虎隊の悲劇の舞台として知られる飯盛山が会津若松における最後の訪問先となりました。歴史ファンを惹きつける名所として観光客も多いエリアです。城下町での火災の煙を鶴ヶ城落城と誤認して白虎隊の一部隊士が自刃した地からは、その鶴ヶ城を中心に展開する若松の町並みが一望されます。この日は穏やかな陽気ながらも空は時折灰色の雲に覆われて、冬の雰囲気も感じさせる気候でした。そんな鈍色の空の下に静かに広がる若松の町並みと、会津戦争最中にここから眺望された町並みの姿が重なって見えるようで、筆舌に尽くしがたい感慨が胸に迫ってくるようでした。

 刹那、雲の合間から天使の梯子のごとき陽射しが鶴ヶ城を中心とした若松の町を照らしました。まさに奇蹟のような、この上ないやさしさにつつまれたような春の陽光が、ぱあっと、若松の町を照らし出しました。早春の一時現出した、あたたかな光明。その目映いばかりの春の光に微笑むように輝く町並み。今なお多くの人々の心を惹きつける会津の大地が、早春という季節のさざなみに洗われながら見せた、極上のきらめきが、まさに紡ぎだされた瞬間でした・・・。

飯盛山

飯盛山から鶴ヶ城方向を俯瞰
(会津若松市一箕町八幡、2007.3.4撮影)


飯盛山から会津若松駅方向を俯瞰
(会津若松市一箕町八幡、2007.3.4撮影)



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