Japan Regional Explorerトップ > 地域文・東北地方

2012年、福島・相馬の春

 2012年4月22日、震災から1年を経過した福島県相馬地方を訪れました。震災や原発事故の影響を受けながらも、ささやかな春の訪れに歩みを進める地域の姿を見つめました。

 訪問者カウンタ
ページ設置:2016年7月2日

相馬市街地を歩く ~浜通り北部の中心都市~

 福島県は南北に走る奥羽山脈と阿武隈高地を境として、伝統的に3つの地域に区分されます。西側の会津盆地を中心とした地域は「会津」、中央の東北自動車道や東北新幹線が縦貫する部分は「中通り」と呼びます。そして、太平洋岸の地方は「浜通り」と呼称し、今回のテーマとなる相馬地方はその浜通りの北部、宮城県に接する位置にあります。古来より、畿内から東北へ向かう要路に位置する当地方は、戦国期からは相馬氏の領するところとなり、藩政期は相馬氏を藩主とする中村藩領として過ごしました。当地を代表する神事である「相馬野馬追」は、相馬市の祖とされる平将門が行ったものが起源とされ、その後も祭礼として受け継がれてきたものとして知られます。

中村城址・大手一の門

中村城址・大手一の門
(相馬市中村字北町、2012.4.22撮影)
相馬中村神社参道

相馬中村神社参道
(相馬市中村字北町、2012.4.22撮影)


相馬中村神社
(相馬市中村字北町、2012.4.22撮影)
馬

中村城址・飼育されていた馬
(相馬市中村字北町、2012.4.22撮影)
相馬神社

相馬神社
(相馬市中村字北町、2012.4.22撮影)
中村城址・堀端

中村城跡・堀端の桜並木
(相馬市中村字北町、2012.4.22撮影)

 相馬市の中心部は中村という地名です。上述の藩名もそれに由来します。現在の相馬市は1954(昭和29)年に、旧中村町ほか7か村が対等合併し、郡名(地域名)でもあった相馬を市名に採ったものです。市街地の西側には藩庁の置かれた中村城址があります。東側に突き出した丘陵部の末端に位置するこの城は、平地側には濠をめぐらし、西側は空堀を掘削して守りとしています。城柵としての歴史は古いようで、平安時代に蝦夷討伐における拠点の一つとなった史実もあるようです。城跡の入口には藩政期の唯一の遺構である大手一の門(1648(慶安元)年建築)が建ちます。現在城跡は馬陵公園として整備され、市民の憩いの場となっています。堀端をはじめ、城内に鎮座する相馬中村神社への参道には多くの桜が植えられていまして、この日はまさに見ごろを迎えていました。

 相馬中村神社は、藩主である相馬家と深いかかわりのある神社です。先祖である平将門が下総国に妙見宮を祀ったことに倣い、下総から現在の相馬地方に移ってからも、代々の居城に妙見宮を祀り、ここ中村の地にも当社が建立されました。現在の社殿(1643(寛永20)年完成)は2代藩主相馬義胤(相馬氏第18代当主)の手によるもので、国の重要文化財の指定を受けています。本丸跡には明治になり藩祖を祭神とした相馬神社も造営されています。この相馬中村神社をはじめ、南相馬市内の相馬太田神社、相馬小高神社は野馬追の際はそれぞれの郷単位で騎馬隊が編成され、それぞれで出陣式が行われています。



中村・クランク上に曲がる国道115号
(相馬市中村字大町、2012.4.22撮影)


中村の景観
(相馬市中村字大町、2012.4.22撮影)
中村の景観

中村の景観(国道115号沿い)
(相馬市中村字大町、2012.4.22撮影)
JR相馬駅

JR相馬駅
(相馬市中村字曲田、2012.4.22撮影)
JR相馬駅前

JR相馬駅前の景観
(相馬市中村一丁目、2012.4.22撮影)


中村城・北町堀
(相馬市中村字桜ケ丘、2012.4.22撮影)

 桜が見事な色彩を見せる馬陵公園を後にして、相馬(中村)の市街地も散策しました。旧城下町らしく、主要道路がクランク状に構成される、昔ながらの都市構造が垣間見られます。現代的な街並みに交じり、土蔵造りの建物も垣間見られまして、この中村の市街地が歴史的にこの地域の中心地として存立してきたことを窺わせました。市街地の東に立地するJR相馬駅は、1961(昭和36)年に改称されるまでは町の名前と同じ中村駅を名乗っていました。震災による津波被害の影響で、列車の運行は仙台方面は内陸への移設も含めた運休が続き、相馬駅と原ノ町駅との間の運転にとどまっていたこともあり、駅前は閑散としていました。黒瓦の切妻造の建物の平側の中央に、入母屋屋根のファサードが突き出た構造になった駅舎は武家屋敷をモチーフにしているようで、野馬追に象徴される武家文化が濃厚な当地を大いに印象付けていました。

 相馬市街地の散策の後、海側の地域にも足を延ばしました。相馬市の沿岸部に美しい姿を見せている潟湖「松川浦」は、周囲の港湾施設などに甚大な津波被害を受け、開口部に架かる松川浦大橋は2016年6月現在でも通行止めとなっています。2012年4月訪問時においても、下層部がめちゃくちゃになった建物や傾いた施設などがあって、被災のすさまじさを物語っていました。この日は終始曇天で比較的気温が低く、どんよりと沈む空には一抹のもの悲しさが漂っているようでした。



松川浦の景観
(相馬市尾浜字追川付近、2012.4.22撮影)
松川浦の景観

松川浦の景観
(相馬市尾浜字追川付近、2012.4.22撮影)



原町市街地をめぐる ~野馬追祭場地に接するまち~

 相馬市での活動を終え、相馬地方におけるもう一つの中心地、原町へと向かいました。旧原町市は北と南で接する旧鹿島町と旧小高町と2006(平成18)年に合併し、南相馬市となっています。南相馬市は相馬市より福島第一原子力発電所に近いため、南部を中心に帰還困難区域や居住制限区域、避難指示解除準備地域といった避難指示地域の指定を受ける地域があり、具体的に原発事故の影響が表れている自治体です。中心市街地のある原町は陸前浜街道の宿場町として町の基盤を形成し、現在では相馬地域の伝統的な中心地中村を擁する相馬市よりも多い人口を抱えるまちとなっています。

 市役所近くの三嶋神社は満開の桜に埋もれるようでした。市街地を南北に貫通する陸前浜街道(県道120号)は地元では野馬追通りとして親しまれているようで、毎年7月23日から開催される野馬追では、このルートを約3キロメートル南へ、野馬追の祭場地まで行列が行われます。四ツ葉交差点には、野馬追が行われていた野間原への入口の木戸が設けられていたことが、表示板により説明されていました。原町はその名のとおり原っぱの中にあった町であったようで、宿場町は四つ葉交差点の木戸から北へ、水無川までの比較的短い区間に街村的に発達していました。そして、雲雀ヶ原の野馬追祭場地で実施されている野馬追も、原町の南の原野一帯を土手で囲んだ、かなり広大な範囲で行われていたようです。明治維新で一度途絶えた野馬追は、その後の地域の努力により祭礼として復活し、今日地域を代表する勇壮な祭りとして連綿と歴史をつないでいます。

本町二丁目/市役所

陸前浜街道・本町二丁目/市役所交差点
(南相馬市原町区本町二丁目、2012.4.22撮影)
三嶋神社参道の桜

三嶋神社参道の桜
(南相馬市原町区本町二丁目、2012.4.22撮影)


陸前浜街道沿いの景観
(南相馬市原町区本町一丁目、2012.4.22撮影)
四ツ葉交差点

四ツ葉交差点
(南相馬市原町区本町一丁目、2012.4.22撮影)

 四つ葉交差点からJR原ノ町駅前までは、駅ができてから徐々に成長していったと思われる駅前通りの商店街が続きます。中心市街地から東に位置することからの命名と目される旭公園は、満開のソメイヨシノが輝きを放っていました。駅前にはホテルなどの宿泊施設や情報交流センター・図書館が立地して、対外的な玄関口である駅前という特性を志向した施設が点在しているのが目を引きました。桜が見ごろを迎えた週末でしたが、少し肌寒い曇天であったことを差し引いても町中の人影はほとんどなく、原発事故の影響を感じずにはいられませんでした。

 再び陸前浜街道方面へ戻り、野馬追の祭場地方面へ歩を進めました。旭公園の西側の道を南へ歩きますと、東に接する丘陵地内へ、ミズバショウの群生地へ誘う看板が目に留まりました。市街地の南東を占めるこの丘陵地は、藩政期に相馬藩主が野馬追の時に本陣を置いていたことから「御本陣山」と呼ばれているのだそうです。御本陣山からは野馬追祭場地をはじめ、原町の市街地を緩やかに望むことができます。また、北東の斜面には2つの堤が形成されていまして、その上流の湿地には果たしてミズバショウが可憐な花を咲かせていました。ほかにもソメイヨシノや梅、そして桃の花が一面に咲いている場所もあって、市民にとって身近に自然に触れ合える場所であるようでした。

駅前通りの景観

駅前通りの景観
(南相馬市原町区栄町三丁目、2012.4.22撮影)
旭公園

旭公園
(南相馬市原町区栄町三丁目、2012.4.22撮影)
原ノ町駅周辺の景観

JR原ノ町駅周辺の景観
南相馬市原町区旭町二丁目、2012.4.22撮影)
市街地俯瞰

御本陣山から見た市街地
(南相馬市原町区二見町四丁目付近、2012.4.22撮影)
野馬追祭場地俯瞰

御本陣山から見た野馬追祭場地
(南相馬市原町区二見町四丁目付近、2012.4.22撮影)
御本陣山・ミズバショウ群落

御本陣山・ミズバショウ群落
(南相馬市原町区二見町四丁目付近、2012.4.22撮影)

 御本陣山散策を終えて、その南西に隣接する野馬追祭場地へ向かいました。祭場地は、野馬追祭事を行う前述の相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社三社の飛地境内です。祭事地に接して東側には祭場地を見下ろせる観覧スペースも設けられています。祭場地の周囲も、ソメイヨシノがやさしい桜色で埋めていました。その美しさとは裏腹にあまりに広い祭場地の空間と、人影の無さとが実に感傷的に目に入りました。それと同時に、野馬追の当日には、ここで500余騎の騎馬武者が集い、神旗を争奪する勇壮な祭りの場となることも想像されて、胸が高鳴るようにも感じられました。野馬追祭場地は、地域の歴史とアイデンティティを具現化する、何にも代えられない崇高な場所であるように思われました。

 陸前浜街道筋を北へ、中心市街地へ戻るころにはすっかり日が暮れていました。市街地の桜の名所、夜の森公園も、街灯が淡く周囲を照らす中、夜桜が幻想的な色合いを闇夜に溶け込ませていました。あまりにも見事な桜と、まったく人のいない公園の静かさとのコントラストが、本当に悲しげに目に耳に迫りました。

御本陣山

御本陣山の景観
(南相馬市原町区二見町四丁目付近、2012.4.22撮影)
野馬追祭場地

相馬野馬追・雲雀ヶ原祭場地
(南相馬市原町区牛来字出口、2012.4.22撮影)


夜の森公園の夜桜
(南相馬市原町区三島町一丁目、2012.4.22撮影)
三嶋神社参道の夜桜

三嶋神社参道の夜桜
(南相馬市新町区本町二丁目、2012.4.22撮影)

 2012年春、桜が満開の相馬地方での彷徨は、春本番を迎えた山野の華やぎとは対照的に、どこか時間が止まったような沈黙に支配されているような虚無感を随所に抱かせるものでした。その中にあっても、地域を動かす血潮のような、野馬追が育んだ文化は、そうした空虚を照らす一筋の燈明であるようにも感じました。1年、また1年と、未来へ向けて歩む地域を希望したいと心から願います。



このページの最初に戻る

地域文・東北地方の目次のページにもどる     
トップページに戻る

Copyright(C) YSK(Y.Takada)2016 Ryomo Region,JAPAN