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平泉、極楽浄土への方途を歩く

 2015年5月6日、この年の大型連休最終日に岩手県・平泉を訪れました。奥州藤原氏の栄華を刻む地域を歩きながら、この地域に花開いた唯一無二の文化へと思いを巡らせました。

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ページ設置:2018年2月15日

毛越寺から中尊寺へ ~栄華を極めた「夢の跡」を辿る~

 空はどこまでも青く、風はどこまでも爽やかに、北の大地を包んでいました。まばゆいばかりの春の日差しは一木一草をすみずみまで照らし出していまして、若葉はそのきらめきを一斉にその早緑色に宿して、雲ひとつ無い大空へと迸らせていました。晩春から初夏へ、大地がその装いを急速に変えていくなか訪れた平泉は、かつてここで花開いた壮麗な文化のごとき春光に満ちていました。そこは奥州藤原三代(清衡、基衡、秀衡)が理想を描き、実現させた極楽浄土を写す、まさに「夢の跡」です。

毛越寺境内のカエデ

毛越寺境内のカエデ
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
毛越寺本堂

毛越寺本堂
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
毛越寺浄土式庭園

毛越寺・南大門跡から望む浄土式庭園
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
浄土式庭園内の築山

毛越寺・浄土式庭園内の築山
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
毛越寺浄土式庭園

毛越寺浄土式庭園
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
毛越寺開山堂

毛越寺開山堂
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)

 境内に南接する駐車場に車を止め、毛越寺(もうつうじ)へと進みます。毛越寺をはじめ、中尊寺などの5件の史跡は、2011(平成23)年6月に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。毛越寺は、その境内に平安時代の様式をそのまま残す唯一の遺構である浄土式庭園を擁することから、国の特別史跡の指定を受けるとともに、庭園も特別名勝となっています。中世初頭において京都に比肩する文化的景観を作り上げた歴史と、往時の痕跡が十分に残されていることは世界文化遺産の認定を受ける上でも評価を受けています。JR平泉駅の西、現代の平泉町の中心市街地の西に接して、毛越寺の境内は美しい佇まいを見せていました。

 庭園のメインゲートであった南大門は1573(天正元)年に戦乱で消失していますが、礎石は12個が現存し、浄土式庭園の中心たる池(大泉が池)に臨みます。この門から池の中央にある中島には橋が架けられ、対岸に建立されていた金堂円隆寺(えんりゅうじ)までさらに橋が設けられていました。金堂円隆寺は毛越寺の中心的な伽藍で、東西の両翼には回廊が渡されて、それぞれの先端部には大泉が池に面して経楼(きょうろう)と鐘楼(しゅろう)が建てられていたといいます。南大門跡から時計回りに大泉が池のほとりを進み、泉に突き出して造形された築山や、毛越寺を開いた慈覚大師円仁を祀る開山堂を拝観しながら、往時に存在した金堂円隆寺跡の周辺へと歩を進めました。嘉祥寺(かしょうじ)跡や前述の金堂円隆寺跡やその回廊、講堂跡などは建物の基礎となった土壇や礎石がしっかりと保存されていまして、平安時代のものとしてはただひとつの遣水とともに、遙か昔に壮大な規模を誇った一大寺院の姿を存分に想起されました。遣水では毎年初夏に平安絵巻さながらの「 曲水(ごくすい)の宴」が催されています。毛越寺境内の東側には、観自在王院(かんじざいおういん)跡。それは毛越寺を再興した基衡の妻が建立した大小二つの阿弥陀堂で、毛越寺と同様に、中心に池(舞鶴が池)を擁する浄土式庭園の様式を持ち、世界文化遺産の構成資産の一つであるとともに、国の特別史跡・名勝となっています。

嘉祥寺跡

毛越寺嘉祥寺跡
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
毛越寺金堂円隆寺跡

毛越寺金堂円隆寺跡(基壇)
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
毛越寺金堂円隆寺跡

毛越寺金堂円隆寺跡
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
遣水

毛越寺遣水
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
遣水と大泉が池

遣水と大泉が池
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
毛越寺常行堂

毛越寺常行堂
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)

 毛越寺と観自在王院跡を見学した後は、東側の町道を北へ進み、平泉を代表するもうひとつの史跡であり、世界文化遺産の構成資産のひとつでもある中尊寺へと向かいました。道すがらでは藤やつつじの花などが見頃を迎えて、また水田には水が引き入れ始めて稲の苗が田に準備されている様子も確認できて、初夏の雰囲気がいっぱいに感じられる風景が連続していきました。西には世界文化遺産の構成資産の一つで、平泉における都市計画のランドマークとなった金鶏山(きんけいざん)の小丘も存在しています。山頂に立ちますと、山肌を覆う木々の合間から、残雪を頂いた奥羽山系の山並みや、北上盆地のゆるやかな風景などを一瞥することができました。

 現在の平泉は、地域を貫流する母なる北上川の流域にあって、束稲山(たばしねやま)をはじめとする東の北上高地と、西の奥羽山脈とに抱かれた、この上のないたおやかさを持つ田園風景の只中にあります。傍らを流れる用水路には「疎水百選 照井堰用水」と記された説明板が掲げられていました。その記述によりますと、この用水路は約850年前に藤原秀衡の家臣である照井太郎高春が開削したものが起源であるという由緒を持つのだそうで、藤原氏が権勢をほしいままにした時代より、この地が豊饒の大地であったことを彷彿とさせました。中尊寺は奥州街道に向かって南東方向に細長く伸びる丘陵の尾根筋をなぞる参道(月見坂と呼ばれます)の上に伽藍が点在しています。月見坂の入口ほど近い場所には伝武蔵坊弁慶の墓がひっそりと佇んでいます。この平泉で非望の死を遂げた源義経と弁慶のエピソードも、平泉の歴史を情感のあるものにしています。

観自在王院跡

観自在王院跡
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
金鶏山山頂

金鶏山山頂から奥羽山脈を望む
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
金鶏山山頂

金鶏山山頂から北上盆地を望む
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
平泉町内の水田風景

平泉町内の水田風景
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
照井堰用水

照井堰用水
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
伝武蔵坊弁慶墓

伝武蔵坊弁慶墓
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)



中尊寺から北上川のほとりの史跡群へ ~平泉の壮大な歴史に触れる~

 美しい新緑と、深閑とする杉木立に包まれた、初夏の月見坂を踏みしめながら、中尊寺境内へと歩みます。国宝に指定される金色堂はあまりに著名です。藤原三代の栄華を今に伝える遺構として古来より多くの人々が参詣し、往時に思いを馳せています。松尾芭蕉も「おくのほそ道」の行程で平泉を訪れ、「夏草や 兵どもが 夢のあと」、「五月雨の 降り残してや 光堂」の句を残していることでも知られます。このうち「光堂」が中尊寺金色堂を指しています。江戸時代に平泉を領内に含めていた伊達藩が植樹したという樹齢300年とも目される杉木立を抜け、八幡堂や弁慶堂などの諸堂を拝観しながら、数多の参詣者が往来したであろう道筋を跡づけました。木々が疎となり展望が開ける東物見からは、北上川と数々の歴史の舞台となったその支流の衣川、そして北上高地の山並みを美しく眺めることができます。

 本堂を詣でた後は再び参道を進んで、不動堂や峯薬師堂、1343(康永2)年鋳造と伝えられる梵鐘のある鐘楼などを確認していきますと、若葉が萌えるような木々の下に凛とした佇まいを見せる金色堂へといよいよ足を踏み入れました。金色堂は藤原三代の初代清衡により、1124(元治元)年に建立された阿弥陀堂です。ふんだんに金箔が使用され、夜光貝が用いられた螺鈿細工などによって装飾された内陣は、中心に安置された阿弥陀如来像をはじめとした仏像群の表情も相まって、煌びやかというよりは、極楽浄土の安らかさを表現した厳かな雰囲気が支配しているといった印象です。金色堂には藤原三代と四代泰衡の遺骸が安置されていまして、その遺志が金色堂の結構全体を護持しているようにも感じられます。。金色堂は1965(昭和40)年に建造された鉄筋コンクリート造の覆堂の中にあります。室町期建設と推定されるかつての覆堂は金色堂に近接して移築されています。金色堂の北側には中尊寺鎮守の白山神社が鎮座します。白山神社能舞台(国重文)は1853(嘉永6)年に仙台藩13代藩主慶邦が奉納したものです。

中尊寺・月見坂入口

中尊寺・月見坂入口
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
中尊寺・月見坂

中尊寺月見坂(参道)の景観
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
中尊寺・八幡堂

中尊寺・八幡堂
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
中尊寺・弁慶堂

中尊寺・弁慶堂
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
中尊寺・東物見

中尊寺・東物見
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
東物見からの眺望

東物見からの眺望(衣川を望む)
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)

 中尊寺の輝かしい伽藍と、境内の初夏のきらめき、そして鮮烈な北上盆地の眺望とを堪能した後は、陸羽街道を平泉町の中心市街地方面へと戻り、世界文化遺産「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」を構成する資産の一つである無量光院跡へと向かいました。無量光院跡へと進む途上、北上川右岸の高台に建つ高舘(たかだち)義経堂に立ち寄りました。ここは、源義経が兄頼朝に追われ藤原秀衡に匿われるも、後に頼朝の圧力に屈した四代泰衡に襲われ、自刃した地として語り継がれてきました。義経堂は仙台藩3代藩主伊達綱村により1683(天和3)年に建立されました。この場所からも、北上川の雄大な流れと、たなびくような束稲山の山容をしなやかに見通すことができます。北上川の止めどない流水は、幾星霜の時を超えて、この場所で起きた史実の悲哀を溶け込ませているようにも見えました。先に紹介した芭蕉の句「夏草や・・・」は、ここ高舘で詠まれたものです。
 世界遺産・無量光院跡は、のどかな建物が連なる町並みの中にやさしく収まるようにしてありました。ここも奥州藤原三代秀衡が建てた、浄土庭園を擁する寺院の跡です。その中心には梵字が池と呼ばれる池の跡があり、本堂があった西島跡と、東中島の跡も残されています。四月中旬頃と八月末頃には、東中島にあった建物跡と本堂跡を延長した先に位置する金鶏山の山頂に夕日が沈む風景を見ることができることでも知られます。再現された池の水面には、初夏の青空から下りる光が瞬いて、彼方の緑が眩しい金鶏山のシルエットへとそのあたたかさを伝えていました。

中尊寺本堂

中尊寺本堂
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
中尊寺・鐘楼

中尊寺・鐘楼
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
中尊寺金色堂覆堂

中尊寺金色堂覆堂 ※注
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
中尊寺金色堂旧覆堂

中尊寺金色堂旧覆堂
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
白山神社能舞台

中尊寺・白山神社能舞台
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
北上高地眺望

中尊寺から北上高地を望む
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)

※注 金色堂は撮影が禁止されています。 

 無量光院跡までの散策で、平泉における世界遺産の5つの構成資産の訪問を終えることができましたが、世界遺産の推薦の初期段階においてはその中に含まれていた、奥州藤原氏の政庁跡である柳之御所遺跡は無量光院跡のほど近い場所にあります。継続的な発掘調査により、政治の中心地として機能した建造物の存在を示すさまざまな遺構が確認されました。現在はそうした痕跡を見学することのできる史跡公園として整備されています。平泉は奥州の入口である白河関から本州最北の津軽半島へ向かう場合、距離的にちょうど中程に位置しており、当時この付近で対峙してきた北方の蝦夷との交流においても利便性の高い、いわば交通の要衝としての地の利がありました。北上川の水運も活用できたことでしょう。そうした大河に接して、強固な権力基盤を築き、有数の都市を建設した奥州藤原三代の歴史を、改めて実感しました。

 柳之御所遺跡を一通り回遊した後は、JR平泉駅方向に歩き、駅前の中心市街地を通過して、最初に自家用車を止めていた毛越寺の門前へと戻り、平泉のフィールドワークを終えました。平泉の町並みは、中世の一時期に鮮烈な活況を誇った歴史を今に伝える史跡を多く残しながらも、町の表情自体は東北地方の他の地域における一般的な小中心地とまったく変わることのない、鄙びた風情を醸していました。華麗な史実に裏打ちされた、唯一無二の世界遺産が、今日まで良好に保存されていて、それが多くの人々に旅情と郷愁を想起させる、みちのくの田園風景と都邑の交錯する風景の中に息づいていること、それが平泉という地域の何物にも代えがたいストロングポイントであるということを実感させる行程でした。

高舘義経堂

高舘義経堂
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
北上川

高舘義経堂から眺める北上川
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
中尊寺通りの町並み

平泉・中尊寺通りの町並み
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
無量光院跡

無量光院跡・金鶏山を望む
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
柳之御所遺跡

柳之御所遺跡
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)
平泉駅

JR平泉駅
(平泉町平泉、2015.5.6撮影)

 遙か昔、戦乱の続く世を憂い、混乱のない平和な世界を願って、奥州藤原氏はその実現のための方途を浄土思想に求めました。毛越寺の浄土式庭園に吹き渡るさわやかな風、中尊寺金色堂を包み込むどこまでも荘厳な空気は、動乱に明け暮れた時代を払拭し、穏やかな日常を渇望した先人たちの気概そのもののように尊く、現代の平泉の大地を照らしているように感じられました。



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