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桜色の風、刹那かがやく
〜2017年、近畿地方の桜を訪ねる〜

 2017年4月15日、奈良県から和歌山県、大阪府の桜を訪ねました。春の穏やかな陽気の下、
それぞれの地域の風情に染まるように花弁を揺らす桜は、一瞬一瞬のうちに極上のかがやきをみせていました。


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ページ公開:2019年4月4日

暁光の又兵衛桜 〜山間の大地、桜色の光輝〜

 2017年4月15日、未明というよりは深夜に近い時間帯に地元を自家用車で出発し、一路西へ。東名阪道から名阪国道に入り、針インターチェンジから国道369号へと進み、宇陀市の中心市街地の一つである榛原を経て国道166号をさらに車を走らせました。宇陀市大宇陀地区の伝統的な市街地である宇陀松山の町並みに程近い山あいに穏やかな樹勢を広がる又兵衛桜のある本郷地区に到着したのは午前7時過ぎでした。早朝にもかかわらず古木のしだれ桜を見物するために、既に多くの人々がこの地を訪れていました。

又兵衛桜

朝日を浴びる又兵衛桜
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)
又兵衛桜

朝焼けに浮かび上がる
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)
又兵衛桜

又兵衛桜をアップで撮影
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)
又兵衛桜と花桃

又兵衛桜と花桃
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)

 又兵衛桜は、宇陀川の支流・本郷川が形成する小規模な低地に沿って広がる本郷地区に静かに根を下ろしています。そのしだれ桜は、下刻する本郷川を見下ろすやや高い位置に、見事な桜色を朝の風に吹かせていました。又兵衛桜をさらに俯瞰する一段高い場所にはたくさんの花桃が植えられていまして、濃い桃色と、艶やかな桜色とが淡い早朝の春空のしなやかな色彩と調和して、どこまでもうららかな情景を形づくっていました。又兵衛桜の名前の由来は、戦国武将として活躍した後藤又兵衛(基次)です。

 本郷地区には、定説では大坂夏の陣で討ち死にしたとされる又兵衛がこの地に落ち延び、僧侶として一生を終えたという伝説が残っています。又兵衛桜のある場所が後藤家の屋敷があった場所と伝えられていることから、その名で呼ばれるようになりました。川沿いには、やはり満開を迎えていたソメイヨシノが多く植えられて、又兵衛桜へと桜の波を伝えています。菜の花も鮮やかな黄色でもって、その美しいグラデーションにアクセントをつけています。樹齢300年というそのしだれ桜の古木は、この日も豊かな樹勢を広げて、東向きに展開する本郷地区の山里に差し込む朝日を穏やかに受け止めていました。

本郷地区の風景

本郷地区の風景
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)
又兵衛桜

又兵衛桜
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)
北向き地蔵桜

北向き地蔵桜
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)


北向き地蔵桜をアップで撮影
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)

 又兵衛桜は奈良県北東部を占める高原地帯(大和高原と呼ばれます)の只中に咲き誇ります。周辺の山々も徐々に芽吹きの季節を迎えていまして、枝の白褐色が黄緑色に染まりつつある風景はまさに山笑う風景そのものです。そうした木々の間にも満開の花を咲かせる桜の木が混じっていまして、山も野もいっぱいに春色に包まれていました。西側のやや急峻な産地を越えますと、桜井市の多武峰で、大化の改新を行ったことで知られる中臣鎌足と中大兄皇子が談合を行った場所であることに因み、談い山と呼んだ経緯を社名とする談山神社が鎮座しています。さらにそこから西へは飛鳥へと連なって、古代史における中心的なエリアへとつながっていくロケーションとなります。爾来、多くの歴史的な事績に直接的あるいは間接的に関わりながら、この地域は命脈をつないできたと言えます。春の穏やかな朝、日光をいっぱいに受けてはためくような又兵衛桜の枝は、そうした時代の流れを緩やかに受け止めながらも、柔和な表情を見せていまして、それは大和の地にあって力強く歴史と寄り添ってきた地域の姿と重なるようでもあります。

 土筆が瑞々しく野に生えて、あたたかな空気をいっぱいに吸い込んでその熱量をそのまま艶やかな桜色へと昇華させたような桜たちは、この春の一時、山里を麗しく包み込んで、まだ水の引かれていない水田へとその季節のバトンをリレーしていくようにも思われました。程なくして田植えの季節となり、山々はますます新緑を濃くしていき、地域は初夏への階段をいっせいに上っていくこととなります。そんな生命の躍動感を存分に感じながら、本郷川沿いを歩き、目眩く桜絵巻に酔いしれました。又兵衛桜からやや離れた場所に、「北向き地蔵桜」と呼ばれる、古い桜の木があって、こちらも見頃を迎えていました。根元に地蔵尊が祀られていることからそう呼ばれているようです。地域のシンボルとして多くの人々を魅了する又兵衛桜とは対照的に、この桜は慎ましやかに路傍に佇んでいまして、地域を優しく見つめているような姿が印象的でした。

本郷川沿いのソメイヨシノ

本郷川沿いのソメイヨシノ
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)
本郷川の風景

本郷川の風景
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)
又兵衛桜

又兵衛桜と背後の花桃
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)
満開の又兵衛桜

満開の又兵衛桜
(宇陀市大宇陀本郷、2017.4.15撮影)

 又兵衛桜を一通り観賞した後は、自家用車で大和高原の山中へと分け入り、全山桜で埋め尽くされる屈指の名所として知られる吉野山へと向かいました。


吉野山、花の雲の彼方へ 〜ヤマザクラに包まれる霊場を訪ねる〜

 吉野山は古来より、大峰山を越えて遠く熊野へと続く山岳霊場の北端を占めてきました。今から遡ること約1300年前、この地に分け入った修験者はその苦行の果てに蔵王権現を感得し、その尊像を桜の木に刻むことで民衆の救いを求めたといいます。その由緒から桜はご神木とされ、この吉野山に献木として植えられるようになりました。幾星霜の歴史の中で信仰の対象として保護され、また大奥の文人墨客の愛でるところとなった吉野山の桜は、日本一の桜の名所、「一目千本桜」として今日でも多くの人々に極上の感傷と、悠久の時代への憧憬とを与えています。午前8時30分頃到着した近鉄吉野駅前は、徐々に観桜客が集まりだそうとしているところでした。眼前には「下千本」と呼ばれるヤマザクラが、やわらかな早緑に染まり始めた山肌をしなやかに彩っていました。

近鉄吉野駅前

近鉄吉野駅前
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
下千本付近の新緑

下千本付近の新緑
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
下千本の桜

下千本の桜
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
金峯山寺・黒門

金峯山寺・黒門
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
金峯山寺銅鳥居

金峯山寺銅鳥居
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
金峯山寺・仁王門

金峯山寺・仁王門
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)

 ロープウェイで下千本の桜を俯瞰した後、吉野山の参道を歩きます。参道沿いには旅館や土産物店などが軒を連ねていまして、それは金峯山寺の総門である黒門をくぐっても続いていきます。参道の只中、十数段ほどの石段の先には、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産で在り、重要文化財の金峯山寺銅鳥居(かねのとりい)がここが修行へと進む道であることを諭すかのように屹立していました。聖武天皇の東大寺大仏建立の際の余銅で造立されたという伝承のあるこの鳥居は、1706(宝永3)年に類焼、1711(正徳元)年に再建されたとする記録がある、銅製の鳥居としては現存最古のものであるとされています。ゆるやかに上る参道をゆるりと歩を進めていきますと、目の前に壮大な仁王門(国宝・世界遺産)が見えてきます。参道よりさらに高い位置にある仁王門は、門前通りの突き当たりにまさに「仁王立ち」しているようで、ここを訪れる者を厳かな気持ちにさせます。

 仁王門をくぐり、金峯山寺(きんぷせんじ)の境内へ。本堂(蔵王堂、国宝・政界遺産)は高さ34メートル、奥行き、幅ともに36メートルという、圧倒的な大きさを誇る建築物です。木造建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模を持つとも言われる、吉野山のシンボル、そして修験道の根本道場です。金峯山とは、吉野山から山上ヶ岳(大峰山)にいたる山々の総称で、金峯山寺は、山上ヶ岳にある大峰山寺への玄関口の役割を持ちます。境内の桜は見頃を迎えていまして、周囲の山々を埋める雅やかな桜色も美しく眺望することができます。土産物屋などが続く参道はさらに南へ延びて、金峯山寺から巽の方角(東南)にあって、一山の興隆祈願のために建立された東南院を参詣し、東南院とは参道を挟んで反対側を入った先にある吉水(よしみず)神社へ。元来は修験宗の僧坊・吉水院であったものが、明治の神仏分離により吉水神社と改められたものです。後醍醐天皇の南朝の皇居であったことでも知られる当社の祭神は後醍醐天皇で、忠臣であった楠木正成と吉水院宗信法印を合祀しています。期書院造りの傑作といわれる書院建築や名勝の庭園の美しさもさることながら、神域から望む、山を埋め尽くす中千本の桜の艶やかさは、筆舌に尽くしがたいものでした。

蔵王堂

金峯山寺本堂(蔵王堂)
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
東南院

東南院の桜
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
吉水神社から中千本の桜を望む

吉水神社から中千本の桜を望む
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
吉水神社

吉水神社
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
竹林院の桜

竹林院の桜
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
上千本の桜

上千本の桜
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
 
 吉野山の桜を唯一無二の領域へと昇華させているのは、このたおやかな山並みを覆っているのがヤマザクラであることであるように思います。ソメイヨシノは圧倒的な質感で桜色に染める一方で、ヤマザクラは淡い花弁と赤茶色の葉とが一緒に開くことから、より繊細で味わいのある色合いになります。それが山の斜面をモザイク状に包み込むことによっていっそうその流麗さが際だって、吉野山を極上の桜絵巻へと描き出します。参道に開かれた勝手神社、桜本坊(さくらもとぼう)、竹林院などを訪ねながら、修験道場として発展した地域の歴史と、その歴史の中で信仰の象徴として育まれた桜の鮮やかな姿を探勝しました。桜本坊は、天武天皇が桜の吉夢を見て建てたとされる古刹、竹林院は聖徳太子創建と伝わる寺院で、庭園の群芳園は池泉式の借景庭園で、ヤマザクラやシダレザクラが秀麗な風合いを醸し出していました。

 竹林院前を過ぎてさらに坂道を進みますと、ヤマザクラが多く育つ上千本の桜の只中へと踏み入ります。つづら折りに上る山道は、斜面にいっぱいに枝を伸ばす桜の下を続いていまして、満開の桜の間から覗く山並みに息づく花の波の色合いも相まって、桜の海の中を漂うように散策することができます。後醍醐天皇が御幸された折、傍らの観音堂に入って休息したところこれまでの雨が止み空が明るくなったという逸話の残る雨師観音跡の台地は御幸の芝と呼ばれていまして、人々は桜木の下で思い思いの時間を過ごしていました。上千本の美しい桜の木々の下を上って、心ゆくまで桜色の小波に酔いしれました。上千本の桜のエリアには、蔵造りの建物も所々に残されていまして、地域の歴史を感じさせました。

上千本の桜

上千本の桜
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
参詣道沿いの古い家並み

参詣道沿いの古い家並み
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
花矢倉展望台

花矢倉展望台から望む風景
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
吉野水分神社

吉野水分神社
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
温泉谷・中千本の桜

温泉谷・中千本の桜
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)
如意輪寺

如意輪寺境内の桜
(奈良県吉野町吉野山、2017.4.15撮影)

 吉野山を辿る参詣道はヘアピンカーブを描きながら勾配をあげていき、全山が桜一色の山肌を踏みしめて進む行者の心の奥底のような高ぶりを感じさせます。これまで歩いてきた中千本あたりへの眺望も一気に開けて、金峯山寺蔵王堂の大きな堂宇がその中心にどっしりと腰を据える様子も眺めることができます。吉野山は大峰山の北側に広がる馬の背状の尾根筋にあたり、その東西は泉湯谷(せんとうだに)と左曽谷(さそだに)と呼ばれる深い渓谷によって画されています。上千本・花矢倉展望台から見下ろす中千本の桜や僧坊や土産物店、旅館などが集積する参詣道沿いがその尾根の上を進んでいる様子も確認することができました。また、その彼方には吉野川(紀ノ川の上流部における名勝)がつくる河谷越しに、二上山をはじめとした、奈良盆地へと連なる山岳の風景もたおやかに見通すことができました。

 吉野山彷徨の最後は、吉野水分(みくまり)神社を訪れました。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産であるこの神社は、1604(慶長9)年に豊臣秀頼により再建されたものです。豊かな社叢の下に佇む檜皮葺の社殿は三棟一棟造(一間社春日造の左右に三間社流造を一棟としたもの)の流麗な結構が印象的で、境内の中心にあるシダレザクラがしなやかな美を集約させて、信仰の地である吉野山の根底を総括しているように感じられました。吉野山の桜はさらに山奥へと進んだ奥千本へと展開していきますが、この日はこの後の予定もあって、上千本から下山することとしていました。帰路は泉湯谷(パンフレットには「温泉谷」の記述も見られる)を下るルートを進みました。後醍醐天皇ゆかりの如意輪寺を訪ねながら歩く山道は、新緑や杉木立、そしてこの上のない質量で迫るヤマザクラやシダレザクラの織りなす風景に心躍らされる行程となりました。


紀ノ川流域から大阪造幣局桜の通り抜けへ 〜桜に溢れる風景をめぐる〜

 吉野山からは一路西へ、中央構造線に沿って雄大な河谷を刻む紀ノ川流域を車を走らせました。奈良県内では吉野川と呼ばれる紀ノ川は、畿内への境界をなす和泉山脈の南麓を洗うように進んでいきます。紀ノ川の川筋を望む右岸側の高台を貫通する京奈和自動車道からは、紀州における母なる大河としての存在感を存分に感じさせました。川の左岸側の山並みは、日本仏教の聖地のひとつである高野山へと連なります。

旧南丘家住宅

旧南丘家住宅
(紀の川市粉河、2017.4.15撮影)
大神宮のクスノキ

大神宮のクスノキ
(紀の川市粉河、2017.4.15撮影)
粉河寺・大門

粉河寺・大門
(紀の川市粉河、2017.4.15撮影)
粉河寺・中門

粉河寺・中門
(紀の川市粉河、2017.4.15撮影)
粉河寺

粉河寺
(紀の川市粉河、2017.4.15撮影)
粉河寺境内

粉河寺境内
(紀の川市粉河、2017.4.15撮影)

 紀ノ川へ向かって傾斜する台地を下り、和泉山脈を背にして堂宇が並ぶ粉河寺(こかわでら)を訪れました。台地を緩やかに削る小川に沿って参道が延び、その先に朱塗りの楼門が目に入りました。重要文化財の大門は、1707(宝永4)年建立。近傍には旧南丘家住宅が残されています。この場所には紀州藩における職制のひとつである「粉河住餌差」が配置され、この一帯が、藩主が鷹狩りを行う際の拠点であったことを今に伝えています。大門の前には大神宮の小さなお社が在り、その傍らにはクスノキがあって、大きな樹冠をいっぱいに広げていました。大門をくぐってからは、南北方向から東西へと流路を変える小川に沿って参道も右へと曲がります。参道沿いのソメイヨシノは満開をやや過ぎているものが多くて、若葉が生えそろった先にわずかに花を残すシダレザクラも、春風に揺らめいていました。

 童男堂(県重文)などの建造物が厳かに建ち並ぶ参道は多くの桜が植栽されていまして、新緑が徐々に進む周りの森の緑との間で、軽やかな春の風景を創出していました。境内を流れる川も石積みで護岸がなされていまして、参道の石畳と、境内の諸堂の甍との絶妙な対照を見せていたことが印象的でした。そんな春の穏やかな寺院の風景を体いっぱいに感じながら、中門を経て石段を上り、一段高い位置に建立されている本堂へと歩を進めました。桜色のヴェールに包まれるようにしてある本堂は、二段の入母屋造の建物が前後に配置された複雑な外観が特徴です。下側の屋根正面には千鳥破風が、そしてその上側の屋根には唐破風が設けられていまして、その建立は770(宝亀元)年に遡ります。現在の本堂(重文)は1720(享保5)年の再建で、西国札所の中では最大の規模を誇るともいわれています。花が少なく葉が生えつつあるソメイヨシノの木々の向こうには、竹林を伴った穏やかな里山が重なって、春から初夏へと移り変わろうとする景色と、仏教寺院の清浄とがとてもよく呼応しているように目に映りました。新緑と桜、伽藍配置が渾然一体となって豊かな晩春の造形を構成する様は、日本の春のしなやかさそのままでした。

大川

川崎橋から大川下流を望む
(都島区網島町、2017.4.15撮影)
大川沿いの桜並木

大川沿いの桜並木(右は藤田邸跡公園)
(都島区網島町、2017.4.15撮影)
大阪城を望む

大阪城を望む
(都島区網島町、2017.4.15撮影)
造幣局桜の通り抜け

造幣局桜の通り抜けの風景
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)
大手鞠

大手鞠
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)
御衣黄

御衣黄
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)
 
 粉河寺訪問後は、若葉が眩しい和泉山脈を越えて大阪府に入り、岸和田駅前で自家用車を止め、南海電車を利用し大阪市内へと向かいました。JR大阪城北詰駅を出て藤田邸跡公園を右に見ながら歩いて、大川に架かる人道橋の川崎橋へ。大川沿いのソメイヨシノの並木は既に盛りを過ぎて、桜色と黄緑色が穏やかに混じりあう色合いとなっていまして、夕日を受けて滴るような公園の緑との間に美しいグラデーションをつくっていました。大川の水面もとても凪いでいて、西に目を向けますと、徐々に傾き始めた夕日が川面に反射して、周囲の都市景観をより輝かしいものへと装飾していました。大川を渡りきったあたりからもと来た方向を振り向きますと、建物の間から大阪城の天守が公園の木々の上にその姿を見せていました。

 大阪における春の風物詩である、造幣局の桜の通り抜けは、造幣局の敷地内に植えられたヤエザクラが見頃を迎える4月中旬に、敷地を一般開放するものです。大川の右岸に沿った造幣局の川岸の通りには、134品種338本のヤエザクラが植栽されていまして、多くの品種の桜を楽しむことができます。「通り抜け」の名のとおり、観賞は南から北への一方通行となっており、川崎橋近くの出入口から入場し、全長560メートルの桜並木の下を進んで、国道1号の桜宮橋近くの北門から退出します。この日は通り抜け期間最後の週末であったことも手伝って、大阪における春の恒例行事を体感しようと多くの人々が造幣局を訪れていました。造幣局の桜は、明治の初めに旧藤堂藩の蔵屋敷から移植されたもので、多くの品種と希少な里桜が集められていたことが特徴とされています。1883(明治16)年に当時の造幣局長の発案で一般開放され、以来大阪内外の市民に親しまれる行事として定着しています。

桜の通り抜け

桜の通り抜けの風景
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)
シダレザクラ

艶やかなシダレザクラ
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)
紅華

紅華
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)
桜並木と造幣局の風景

桜並木と造幣局の風景
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)
シダレザクラと造幣局

シダレザクラと造幣局
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)
大阪ビジネスパーク

桜宮橋から大阪BPのビル群を望む
(北区天満一丁目、2017.4.15撮影)

 造幣局の川岸の通りは、ボリュームのある花弁がすずなりに花を付けたヤエザクラが篝火のように咲き乱れる、まさに春の楽園と呼ぶにふさわしい花園となって、目の前に展開する場となっていました。ヤエザクラの品種は、関山(かんざん)や普賢象(ふげんぞう)、松月(しょうげつ)、楊貴妃(ようきひ)などの品種が中心で、中には「大手鞠」、「小手毬」などの、造幣局外ではめったに見ることができない桜も観覧することができます。花の色も、桜色が濃いものや白色が優勢なもの、紅色が美しいものから黄色や黄緑がかった色彩を呈するものまで実に多種多彩で、一緒に生える葉の色合いとのコンビネーションも相まって、命萌え出ずる春が醸し出す、この上のない力強さや艶やかさ、そしてみずみずしさがいっせいに開化したような感触でした。

 時刻はだんだんと夕暮れの時間を迎えて、光量の落ちた空色の下の桜は、さらに晩春ののびやかな空気の中でさらなるきらめきを放つように昇華していきます。一つひとつの桜には、優雅で気品に満ちた、実に個性的な名前が付されていることも、桜を訪ねる魅力の一つであるように思います。俳句では、単に「花」といえば桜を指すほど、桜は日本を代表する風物として、日本文化に深く根付いています。そうした日本人の桜に対する溢れる愛情と慈愛とが、そうした桜のきれいな名前に込められているといえるのかもしれません。およそ600メートルの通り抜けですが、目に映る桜のどれもが本当に目を奪われるような優美に包まれていまして、この場を後にすることがしばしためらわれるようでした。造幣局の建物も味わいのあるファサードが目を引きまして、歴史ある桜の通り抜けの今を見つめていました。



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