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関東の諸都市・地域を歩く


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#11 潮来・佐原の町並み 〜水運と共に生きたまち〜

潮来は、薄曇の中で刹那降り出した雨の中、梅雨のしっとりとした情景の中にありました。赤紫色や青紫色、白色の交じり合ったゆたかなグラデイションの揺れる風景は、梅雨の織り成す水のつややかなヴェールに包まれていました。鈍色の空、ゆったりとした前川の流れ、ハナショウブの花片を支える鮮やかな葉柄の緑の色彩もあいまって、実にのびやかで、穏やかな印象です。観光客で溢れる前川あやめ園は、水郷・潮来のエッセンスをぎゅっと詰め込んだ、輝かしいスペースでした。程なくして雨は止み、日の射しはじめた空の下、思案橋をわたり、潮来の町を散策します。思案橋の西詰付近は、「大門河岸」と呼ばれているようでした。付近には、大門河岸公園もあり、町並みを案内するボランティアの拠点としても機能しているようです。正確にはそこは「大門河岸跡」であり、水運で栄えた潮来の町に数ある河岸の名残を留める一角です。ここから北東へ、南東方向に「前川十二橋」と呼ばれる小橋の連続する景勝地が続いており、ろ舟上から水郷の雰囲気を楽しむことができるようになっています。地元で頂いた「水郷潮来ガイドマップ」には、大門河岸のほか、天王河岸、津軽河岸、仙台河岸、上米河岸などの文字が記載されています。江戸期、従来の日本海岸を経由する航路(西廻り航路)に加えて、太平洋岸を通過する航路(東廻り航路)が開発されるにつれて、利根川の流路を東へ付替えて現在の流れに近いルートが開削されました。この潮来をはじめ、銚子や佐原などは、東廻りの廻船が海の悪路であった房総沖を避けて利根川の内陸航路を利用したため、それらの水運で大いに栄えた歴史があります。これらの河岸跡は、そうした時代背景の中に生まれたものでしょうか。

前川あやめ園

前川あやめ園・ハナショウブ
(潮来市あやめ一丁目、2005.6.18撮影)


前川の景観

前川の景観
(潮来市あやめ一丁目、2005.6.18撮影)

長勝寺・鐘楼

長勝寺・鐘楼
(潮来市潮来、2005.6.18撮影)
潮来下町通り

潮来下町通りの景観
(潮来市潮来、2005.6.18撮影)

大門河岸公園西の穏やかな路地を抜け、潮来本町通りを横断しますと、古刹・長勝寺の参道となります。稲荷山のたおやかな木立を借景とした境内は緑が豊富で、梅雨の時期、梅の木はたくさんの実をつけていました。銅鐘は、1330(元徳2)年、北条高時の寄進によるもので、国の重要文化財の指定を受けています。緑が豊富に配された境内に、質実な佇まいを見せる山門や本堂が静かに並ぶ景観は、禅寺たる凛とした空気に包まれているように感じられました。雲間から日差しが徐々に覗くようになり、しっとりとした境内の木々の緑たちはさらに鮮やかさをまして、盛夏に向いつつある季節感を演出していきます。夏の日の光に溢れる潮来本町通りから、その一筋南の銀座通り、下町通りと、ざっと町を散策しました。町は往時の繁栄を今に伝える重厚さを彷彿とさせる色を随所に放っていました。和泉屋本店付近で緩やかにカーブする付近は、メインとなるバス停も設置されていまして、在郷の中心商店街としての機能が濃厚であった時代には、町の交通結節点的な要素を多分に擁したエリアではなかったかと想像されました。金融機関の支店のような建物を転用したと思われる「水郷まちかどギャラリー」では、潮来名物として知られている「嫁入舟」などの、婚礼に関する文化を伝える展示が行われていました。銀座通りへと至る途上、「黒門跡」と地図上に記された場所には、黒木の木戸がアーチ状に再現されていました(この周辺が、潮来の遊郭として知られる「旧潮来遊里街」であるようです)。水運により発達した町並みは、時代を経て、たおやかな「まるみ」を帯びながら、現代の観光客を穏やかな眼差しで見つめている。潮来の町はそんな町であるように思いますね。

潮来の町を後にして、国道51号線を南下、千葉県佐原市へ。両市間には利根川の大河が横たわります。しかし、潮来の町中には佐原信用金庫の支店が立地するなど、日常的な交流は比較的多いように感じられます。巨大さに圧倒される佐原市役所前の駐車場に車を置いて、利根水郷ラインの大幹線道路を横断、JR佐原駅東の踏切を越えて、駅前の商店街へと至ります。クスノキが一本真ん中に植えられたロータリーに、シンプルな切妻造りの駅舎は、穏やかな町並みを今に伝える佐原の街を象徴しているようで、たいへん穏やかな景観です。佐原の大祭では中心となる諏訪神社への参道に連なる商店街は、しっとりとした雰囲気ながらも、多くの地方都市において垣間見られる衰退感とも言うべきもの悲しさはなくて、古くからの商業地としての心意気を表現しているように感じられました。駅前の鳥居をくぐり、諏訪神社への参道の上り口にある大鳥居の手間に達しますと、傍らには伊能忠敬の銅像が立つ佐原公園が広がります。隠居後から全国を測量し、わが国初の本格的な地図を作りあげた地域の偉人の足許では、明日の地域を支えるこどもたちが元気にキャッチボールにいそしんでいました。諏訪神社の鳥居前を東へ、香取街道と呼ばれる道路を歩みます。

利根水郷ライン

佐原市・利根水郷ラインの景観
(佐原市佐原ロ、2005.6.18撮影)

佐原駅前の商店街

JR佐原駅前の商店街
(佐原市佐原イ、2005.6.18撮影)

伊能忠敬

佐原公園・伊能忠敬像
(佐原市佐原イ、2005.6.18撮影)
正文堂書店

正文堂書店
(佐原市佐原イ、2005.6.18撮影)

忠敬橋(ちゅうけいばし、と読みます)周辺の重厚な町並みは、佐原の重要伝統的建造物群保存地区にあって、中心的な位置を占めるエリアであり、そのたおやかさは、ここで改めて申し上げるまでもないことでしょう。正文堂書店や小堀屋本店、中村屋商店などの商家が、小野川沿いにどっしりと展開する様子は、筆舌に尽くし難い美しさです。ある種の“華やかさ”さえ、感じてしまいます。小野川に架かる樋橋(とよばし)は、その名のとおり小野川を跨いで通水するために設けられたものが後に人が通行できるように改造された橋で、橋の中央から川へ放水することもでき、「ジャージャー橋」の通称でも親しまれています。付近には旧宅や記念館など、伊能忠敬に関連した事物もあり、三菱館や向いの家具店などのモダンを感じさせる建物や、「小江戸」を感じさせる町屋の景観とあいまって、佐原の市街地の美観を盛り上げています。高度経済成長期以降の近代的な都市の持つ、シャープで効率的である一方で、軽薄さの漂う様に比して、江戸期から明治・大正期を経て、昭和初期の町並み景観を重層的に維持し、調和を見せる佐原の町並みはどこまでも奥が深く、町に生きた人々の息づかいまでもが聞こえてくるような温かみを感じさせます。

香取街道沿いの古い町並みは、酒蔵の並ぶ上町から南へ至るエリアや、小野川に沿って忠敬橋から北へ向うエリアにも連続していまして、それらの庶民的な飾らない佇まいや、ヤナギやアジサイのしなやかな色彩なども町並みに重なって、たいへんに落ち着きのある、懐かしい印象を訪れる人々に与えています。また、佐原は先に言及しましたように、江戸期に水運により発達した商業町です。小野川には、利根川を上り、江戸へ物資を運搬する舟からの荷揚げに利用された、階段状の船着場(「だし」と呼ぶようです)も作られていまして、佐原の往時をも彷彿とさせます。

伊能忠敬旧宅とだし

伊能忠敬旧宅と“だし”
(佐原市佐原イ、2005.6.18撮影)

樋橋

樋橋(放水中)
(佐原市佐原イ、2005.6.18撮影)

モダンな町並み

三菱館と家具店、モダンな建物の見える風景
(佐原市佐原イ、2005.6.18撮影)
小野川の景観

小野川の景観(忠敬橋北側)
(佐原市佐原イ、2005.6.18撮影)

正上醤油店や旧油惣商店などの穏やかな町屋が連続する小野川沿いを北へ、流麗に整えられた小江戸の町並みをそぞろ歩きます。このエリアは、道路を行き交う車両や観光客も少なくて、ヤナギ並木も軽やかに水面に影を映し、隠れた散策スポットであるように思いました。JR成田線を横断し、しばらく小野川の景観に沿って進んだ後、市役所東の県道に戻り、そのまま佐原市役所へと向って、この日のフィールドワークを終えました。

利根川の悠然とした流れを介して、水郷の町潮来、そして小江戸・佐原の町が並んでいます。水運で栄えて町の基礎を確立させ、穏やかな町並みを作り上げてきたまちは今日、「水郷」という美称のイメージを胸に、水との関わりの中で現代を生き続けているように感じられます。その情景は、多くの人々を魅了し、心を和ませ、日本が、この地域が歩んだ鮮やかな歴史に対して、この上ない憧憬を抱かせているのではないかと思います。みずみずしいひかりをほころばせながら、可憐な花びらを開くハナショウブの気高さそのままに。


追記  
佐原市は2006年3月27日に周辺の3つの町と対等合併し、現在は「
香取市(かとりし)」となっています。

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