Japan Regional Explorerトップ > 地域文・関東甲信越地方 > 関東の諸都市地域を歩く・目次
関東の諸都市・地域を歩く
←#112(寄居編)のページへ |
#114(沼田編)のページへ→ |
|||||||||||||||
#113 東松山の町並み 〜旧城下町を礎とした地域の中心都市〜 2016年11月5日、寄居、坂戸とめぐったこの日の地域巡りは、地元へバスで帰る帰路の乗り継ぎ点である東松山の町並みを概観してみることとしました。東武東上線で坂戸から北へおよそ10分。坂戸とともに池袋へのアクセスのよい東松山は、東京への通勤圏に包摂される郊外の住宅都市のひとつとなっています。同時に、周辺地域から日常的な住民流動を集める中心都市としても機能していまして、駅前の商業集積の密度がそのことを物語っていました。
東松山は歴史を遡りますと、現在の市街地の東、市野川を挟んだ対岸の丘陵上(行政上は吉見町域となります)に築かれた松山城の城下町として町場が形成されたことをその端緒としています。藩政期は一時期立藩されて藩庁の所在するところとなりましたが、わずかな期間で廃城となり、その後の多くの期間を地域のローカルな中心集落、いわゆる在郷町として過ごしました。幕末に松山陣屋がおかれましたが、それも5年ほどで廃藩置県を迎えることとなりました。なお、現在の市名は1954(昭和27)年に松山町から市制施行する際に、愛媛県松山市との重複を避けるために定められたものです。外壁がレンガで装飾された東松山駅の東口を出て、駅前の通りを歩きます。店舗や中層の集合住宅が建ち並ぶ町並みを進みますと、程なくして下沼公園へと行き着きます。小さな沼の周辺は穏やかな緑が整えられてまして、地域の人々の憩いの場となっているようでした。池のほとりには弁天堂が祀られていまして、ここが古くから信仰の対象であったことを窺わせました。 東松山駅入口交差点を北へ折れて、本町通りと呼ばれる県道66号を進みます。この道筋は藩政期から東松山のメインとなる通りを構成していまして、規模の大きい市街地が形成されてきました。通りを歩いていますと、現代の建物に混じって土蔵造や町屋造の建物が多く残されていることが見て取れます。このことは、この町が上述したとおり、江戸時代から一貫して地域の中心的な都市として存立してきたことを示していることに他なりません。建物はその多くが通りに対して斜めに建てられていまして。坂戸で見たものと同じ構造であることが印象に残りました。本町一丁目交差点は藩政期には南北と東西の幹線道路が交差する町のまさに中心でした。交差点近くには大正期に法律で地域の中心に道路整備の起点に設置することが定められた道路元標が保存されていまして、往時の中心地を示していました。
さらに古い建物が残る本町通りを北へ進み、上沼公園ののびやかな姿を一瞥した後、松山神社を訪問しながら、東松山の町並みを巡りました。不動横丁交差点を過ぎて、町の中心であった本町一丁目交差点から西へ進んだ道路へと進みました。この道路には鉤の手になっていまして、これは江戸時代の頃から変わらない構造です。その鉤の手の周辺にも古い町屋造の商店が残っていまして、松山の町並みの歴史を今に伝えていました。穏やかな市街地を彷徨しながら東松山駅前へと戻り、西口の先にある箭弓稲荷神社を参詣し、この日の訪問を終えました。東京都中心として日常的な生活圏が再編成された後にあっても、それ以前の長い時間をかけて形づくられた町の構成そのものはしっかりと残されて今の時代を生きていることがとても貴重なことであるように感じられました。 |
←#112(坂戸編)のページへ |
#114(沼田編)のページへ→ |
||||
関東を歩く・目次へ このページのトップへ ホームページのトップへ |
|||||
Copyright(C) YSK(Y.Takada) 2018 Ryomo Region,JAPAN |