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関東の諸都市・地域を歩く


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#128 渡良瀬遊水地とその周辺 ~三県境と足尾鉱毒事件に関わる事物を巡る

 2017年4月23日、下野市から幸手市街地の散策を終え、この日の最後はさらに東武日光線を北上し、埼玉県加須市北川辺地区にある柳生駅へと進みました。柳生駅の駅舎は簡素な切り妻屋根の小屋で、田園地帯の中の小さな集落の中に佇んでいました。この駅のある北川辺地区は、加須市への合併前は一つの自治体(北川辺町)を構成していました。埼玉県内では唯一利根川の北側にその範域を持っていたこの町の存在は、利根川水系の河川の流路変更(利根川東遷事業)が行われてきた歴史を今に残していると言えます。北川辺地区の南を直線的に流れる利根川の本流部分は「新川通(しんかわどおり)」と呼ばれ、その流れは江戸時代に掘削されたものです。利根川東遷事業の目的は、江戸を洪水から守ることと、銚子から内陸を経て江戸へと至る物流ルートを確保することでした。

柳生駅

東武柳生駅
(加須市小野袋、2017.4.23撮影)
集落景観

三県境付近の集落景観
(加須市小野袋、2017.4.23撮影)
三県境

三県境(左が埼玉、奥が群馬、右が栃木、北方向に撮影)
(栃木・群馬・埼玉県境、2017.4.23撮影)
水田

三県境近くの水田
(板倉町海老瀬、2017.4.23撮影)

 そして、この加須市北川辺地区周辺で集合する、栃木、群馬、埼玉県の県境が複雑な形状をしていることも、その屈曲した境界線がかつての乱流した河道の名残であることを示しています。柳生駅のすぐ東には、渡良瀬遊水地の谷中湖の水面が大きく広がって、その東を流れる渡良瀬川の周辺と合わせ、広大な湿地帯が広がっています。かつての渡良瀬川はのたうち回るような栃木・群馬県境を流れていたのですが、渡良瀬遊水地の造成によって現在の流路をとるようになりました。その結果、かつては渡良瀬川と谷田川の合流点であった、栃木・群馬・埼玉の3県境が合流する地点も、現在では河川改修によって田畑のど真ん中に位置するようになって、急峻な山地や河川に位置する3県境にあって、唯一気軽に徒歩で訪問することのできる3県境として、近年注目される存在となっています。柳生駅から東へ、日光線の踏切を越えて水の張られ始めた水田や、菜の花が美しく咲く集落の中を歩くことおよそ10分で、その農地の只中にある3県境へと到着しました。

 水田や畑地の間を分ける畦の中央に側溝があり、その溝が3方向から結合する地点。それが栃木・群馬・埼玉の3県境です。数年前に3県による確定作業が行われて、3県境の中央には杭が設置されました。南側が埼玉県加須市小野袋、北西方面から群馬県板倉町海老瀬地区が入り込み、東側は栃木県栃木市藤岡町下宮地区が接します。栃木県側は谷中湖を介して三県境に接するため、この地区から栃木県の他の地域へ向かうには必ず他県を経由し大きく迂回する必要があるため、飛地のような形となっています。三県境は水田と畑地との只中の何の変哲も無い田園風景の中にあって、ここがかつては渡良瀬川の川底であったことはもはやまったく想像することができません。広大な関東平野のほぼ真ん中という地勢も、平地のど真ん中の三県境の迎合という奇跡を生む大きな要素となっています。



渡良瀬遊水地の景観
(栃木市藤岡町下宮、2017.4.23撮影)
谷中湖を囲む水路

谷中湖を囲む水路
(栃木市藤岡町下宮、2017.4.23撮影)
古河市街地遠望

谷中湖越しに古河市街地を望む
(栃木市藤岡町内野、2017.4.23撮影)
赤城山遠望

谷中湖から赤城山を望む
(栃木市藤岡町内野、2017.4.23撮影)

 3県境の訪問後は、その東から北に展開する渡良瀬遊水地へと歩を進めました。めまぐるしく県境を跨ぎ、全国で唯一4県(茨城・栃木・群馬・埼玉)を通過する県道9号は、渡良瀬遊水地を取り囲む堤防の上を進んでいきます。交通量の多い県道を渡りますと、目の前には渡良瀬遊水地とそのシンボル的な位置にある谷中湖が広がる風景が圧倒的な存在感を見せています。反対側を見ますと、水田と集落とが重なる田園景観が眺望できます。湿原と水面とが緑と水色のしなやかな色彩を醸し出すシーンの彼方には、関東平野を取り囲む山々の稜線がつながって、我が国最大の平地における原風景とも形容できうる、雄大なパノラマが続いていました。ラムサール条約登録湿地としての側面もあって、多くの生物たちの生活の舞台ともなっています。谷中湖を3つのパーツに分かつ道路を歩き、水面を渡る薫風に吹かれました。谷中湖の南東方向には古河市街地もはっきりと見通せます。

 谷中湖の北側一帯は、この湖の名の由来ともなっている、旧谷中村遺跡です。渡良瀬遊水地が明治期に整備された目的は、当時深刻な社会問題となっていた、足尾動産から排出される鉱毒を沈殿させることでした。そのために、この豊かな水郷地帯に存在していた谷中村の強制廃村が断行されました。草地とその中に繁茂する木々とが続く一帯には、役場跡や雷電神社跡、延命院跡などの史跡が残されて、中にはかつて存在した個人宅のあった場所を示すサインも設置されていまして、この場所がそう遠くない時期までは、多くの農民がくらす生活の場であったことを滲ませていました。国家的な公害への対策のために犠牲となった村の史跡は、我が国の近代化の歴史の影の部分を今に伝えています。



旧谷中村遺跡、延命院跡
(栃木市藤岡町内野、2017.4.23撮影)
旧谷中村遺跡

旧谷中村遺跡の風景
(栃木市藤岡町内野、2017.4.23撮影)
渡良瀬遊水地と筑波山

道の駅きたかわべから渡良瀬遊水地、筑波山を望む
(加須市小野袋、2017.4.23撮影)
田植えの終わった水田

三県境付近、田植えの終わった水田
(加須市小野袋付近、2017.4.23撮影)

 渡良瀬遊水地内をゆったりとウォーキングしながら、三県境に近い「道の駅きたかわべ」へと進み、そのテラスから渡良瀬遊水地や、その周辺の風景を改めて遠望しました。晩春から初夏へ向かう季節、草木はいっそうその緑を濃くして、田には少しずつ水が引き入れられ始めていまして、一部では田植えが終わっている場所も見受けられました。身近に水辺に触れることのできる現代の憩いの場ともなってる渡良瀬遊水地は、かつての河川の乱流の跡を今に残す三県境の存在とともに、自然の大切さと環境への思いとを何よりも強く印象づける、かけがえのない大地であるように思われました。


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