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関東の諸都市・地域を歩く


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#13 シリーズ埼玉県北の都市群(3) 〜行田・忍の町並み〜

 行田は、私の居住する群馬県東部から見ますと利根川を挟んで対岸に位置する、もっとも身近な地域の1つです。利根川を堰き止めて荒川などに通水するために設けられた「利根大堰」の上を渡る「武蔵大橋」を越えますと、そこは行田市の範域となります。利根川の両側は広大な、本当に広大な低地が展開しておりまして、茫漠とした水田地域の中に集落が点在する景観が続きます。東京大都市圏の一翼を担う埼玉県域にあって、利根川の近傍のエリアは実にのびやかな平野の景観が印象的で、また本シリーズでもたびたび申し上げていますとおり、どこか両毛地域のそれとのシンパシーを感じる場所でもあるように思います。利根大堰からは見沼代用水路、武蔵水路(この用水路が荒川に連絡します)、埼玉用水路の3つの水路が分水し、埼玉県から東京都にかけての農業用水、工業用水、そして生活用水へと利用されていきます。近世より灌漑のために利根川から多くの水路が掘削されていたものの、それぞれが河床の変化や土砂の堆積により効率的な取水が困難となっていたことから、それらの水の取入れ口を1つにまとめて管理を行いやすくするために設けられたものが、利根大堰でありました。東京大都市圏の水の需給に重要な役割を担っている利根大堰は、水を求めて試行錯誤を繰り返してきた先人たちの軌跡の結晶とみることもできるのかもしれません。

 利根大堰より県道をそのまま南下し、武蔵水路に沿って進んでいきます。素朴な雰囲気の秩父鉄道踏切を越え、市街地東郊の工業団地・住宅地域を抜けて、国指定史跡・埼玉古墳群へと向かいます。埼玉は「さきたま」と読みまして、付近の大字となっています。県名である「埼玉」はこの地名がもととなっており、このことから行田市は「埼玉県名発祥の地」としてアピールを行っています。埼玉古墳群はわが国で最大の円墳である丸墓山古墳(直径103メートル)をはじめ、「100年に一度の考古学的発見」といわれた「金錯銘鉄剣」が出土した稲荷山古墳(全長120メートル)、武蔵国最大の前方後円墳である二子山古墳(全長135メートル)など9基の古墳によって構成されています。付近は「さきたま古墳公園(さきたま風土記の丘)」として整備されています。古墳が連続する空間を現代的な公園として親しみやすくさせるためかどうかは分かりませんが、およそ古墳時代とは無縁なメタセコイアやアメリカハナミズキなどの現代的な植栽が多くなされていることは少し気になりますが、晩春の快い晴天の休日、公園には多くの市民が訪れていまして、憩いの場となっているようでした。なお、公園の南には伝統的なかたちをよく残している農村民家(旧遠藤家住宅及び旧山崎家住宅)が行田市内と幸手市よりそれぞれ移されていまして、国宝の鉄剣を展示する「埼玉県立さきたま史跡の博物館」での展示とあいまって地域の歴史を感じることができるスポットともなっていることも指摘しておきます。丸墓山や稲荷山は墳丘に登ることができました。周囲の古墳群を軽やかに眺めながら、緑豊かな公園の広がり、さらに360度展開する関東平野の広漠たる大地、そしてはるか彼方にたなびくような山々とを穏やかに望むことができました。

丸墓山古墳

丸墓山古墳
(行田市埼玉、2005.4.29撮影)

将軍山古墳

将軍山古墳を望む
(行田市埼玉、2005.4.29撮影)

古墳上より北方向の景観

古墳より北方向の景観
(行田市埼玉、2005.4.29撮影)
旧遠藤家住宅

旧遠藤家住宅
(行田市埼玉、2005.4.29撮影)

 古墳公園を東西に横切る県道を西へ進みますと、行田の市街地へと行き着きます。市役所の西にはやや小ぢんまりとした雰囲気が愛らしい三層の櫓が見えていました。かつて一帯に存在した「忍(おし)城跡」の一角に再建された三層櫓です。郷土資料館の敷地より入ることができるこの櫓は、1873(明治6)年に新政府の指示で取り壊されたものを、1987(昭和62)年に再建したものです。「忍」は現在の行田市が最初に行田市として市制施行する(1949年)まではこの市街地の町の名前でした。忍は埼玉県内でも数少ない城下を備えた町として在郷の中心都市でした。忍城は中世より難攻不落の名城として知られておりまして、行田市ホームページより一部引用いたしますと、文明年間(1469〜86年)の初め頃に築城されたこの城は上杉、北条氏との戦いにも落城せず、石田三成の水攻めにも耐えた城であるとのことです。とりわけ石田光成の水攻めの際は、いつまでも城が落ちないのは城がその上に浮くからだとさえいわれたほどであるのだそうで、忍城の異称「浮き城」とはこの故事に由来するものであるのでしょう。江戸期の地誌にも、「水郷なり、館のめぐり沼水幾重ともなく」と描写された忍城周辺は、多くの水辺を含んだ要害でありました。市民の憩いの場となっている水城公園や、郷土博物館周辺の壕などに、その名残を見ることができるということなのでしょうか。しなやかに春風に揺れる柳の枝の向こう、壕に突き出すように鐘楼が建てられているのが印象的でした。この鐘楼に吊るされた鐘は、殿様(松平家)が伊勢桑名より忍へ移封となった際に桑名より持ってきた鐘を写したもので、本物の鐘は郷土博物館に展示されているとのことです。なお、石田光成が水攻めをするときに築かせたという堤が市内堤根地区に残っており、「石田堤」と呼ばれているほか、先にご紹介した埼玉古墳群・丸墓山古墳付近にもその一部が残っています。

 国道125号線となっているメインストリートには、53基の櫓が並んでいます。これは市役所前から東へ860メートルのメートルの区間に電柱地中化工事が施工された際、地上に設置されるトランスボックスが町の美観を損ねてしまうことから、櫓上のオブジェでそれらを目立たなくして景観を保とうとした試みによるものであるようです。さらにその景観を温かみのあるものにしているのが、それらの櫓の上に乗せられた39体の銅人形です。「童(わらべ)の記憶」をテーマとして製作された銅人形は、銅板造形作家の赤川政由さんの手になるものです。櫓の上で戯れる童たちはたいへん愛嬌のある表情を見せており、それぞれに思い思いの遊びに興じています。銅人形には「里親制度」があり、名付け親となった方が定期的に人形の手入れや清掃を行う取り組みが進められているようでした。城下町を起源とした町並みは日本の多くの中小都市の例に漏れず、モータリゼーション等による地盤沈下の影響が少なくないように見受けられました。そのような中にあって、町の穏やかな佇まいと歴史的な情景とをやさしく包み込むような童たちの姿は、古代より栄えてきた地域の道筋をゆるやかにぬくもりを与えながら、勇気付けているように思いました。まさに行田のまちの心強いサポーターであるかのよう。

忍城跡

忍城跡・櫓を望む
(行田市本丸、2005.4.29撮影)

鐘楼

忍城跡・鐘楼
(行田市本丸、2005.4.29撮影)

国道125号

国道125号線の景観
(行田市本丸、2005.4.29撮影)
銅人形

銅人形「童の記憶」
(行田市忍一丁目、2005.4.29撮影)

 町の玄関口である秩父鉄道行田市駅前広場の時計台と、ハナミズキの美しい街路樹とを概観しながら、高札場があったという武蔵野銀行行田支店前の交差点付近の町並みを歩きながら、自動車を置いていた市役所へ戻るべく市街地を進みました。新町一丁目のバス停から西へ、アーケードの商店街の中に蔵造りの古めかしい建物の見える通りから入った住宅地域内に「升形城門跡」と刻まれた石碑が道端にひっそりと建てられていました。付近をよく観察してみますとクランク上の街路も見えまして、ここが間違いなくかつての城下町の一部であることを窺い知ることができました。何気ない風景の中にかつての町の情景が重なるような気がして、どこか温かい気持ちになりました。



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