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関東の諸都市・地域を歩く


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#16 上福岡・市街地散策 〜田園地帯から衛星都市へ〜

 東武伊勢崎線沿線を生活圏とする私にとって、東武のもう1つの主要幹線である東上線沿線は十分な理解のない地域です。池袋をターミナルとする東上線は、埼玉県南部の拠点都市である川越を経て坂戸や東松山、小川、寄居といった武蔵野の小都市を連絡していきます。副都心・池袋を介して都心方面へのアクセスに優れる都市近郊列車としての東上線は、沿線の地域を高度成長期を通じて急速に住宅都市化していきました。城下町として一定の都市基盤を備えた川越市でさえ、都市構造的には通勤や通学の多くを東京に依存する層が大半を占めるに至っております。川越以南の諸都市における東京の影響力は川越以上に明瞭であり、コンパクトながら人口密度の高い小都市群の形成をみています。今回はそれらの都市のうち、江戸期から明治期中ごろにかけて新河岸川の舟運で栄えた歴史を持ち、戦後の大規模な宅地開発で一気に人口が増加した上福岡の町を歩いてみたいと思います。なお、かつての上福岡市は、2005年10月1日に隣接する旧大井町と合併し、「ふじみ野市」としての新たな一歩を踏み出しています。

 上福岡市時代より市役所として利用されていたふじみ野市役所に自家用車を置き、散策をスタートさせます。市役所に南接して、最近近代的な高層マンション群としてリニューアルされた「コンフォール上野台」が真新しい姿を見せています。上野台団地は1959(昭和34)年に完成した当時におけるマンモス団地で、同時期に開発された霞ヶ丘団地とともに、東洋一の団地として上福岡市の住宅都市化に大きく寄与しました。現在両団地とも老朽化により建替が進められているようですね。2階建てのテラスハウスが用地いっぱいに効率的に押し込まれた構成の団地は、現在のように住環境を重視したものではなく、とにかく都心に通勤する標準的な核家族が居住するに足る最低限の施設を大量生産したといった風景です。多くの世帯が密接しての暮らしは強固な地域コミュニティを形成し、建替えの際には名残を惜しむ声が多く聞かれたのではないかなとも推察してしまいます。都市は絶え間なくその姿を変えて、ただ前へ進むものである、そしてその変化が時として急激に進むことがある、私が都市について抱いているこの一般的な観念は、この地域においても体現し、人々の暮らしや思い出などに少なくない影響を与えたということなのでしょうか・・・。

新河岸川

新河岸川の景観
(ふじみ野市福岡三丁目、2006.7.23撮影)

河岸記念館

市立福岡河岸記念館
(ふじみ野市福岡三丁目、2006.7.23撮影)

上野台団地

コンフォール上野台の景観
(ふじみ野市上野台一丁目、2006.7.23撮影)
上福岡駅東口

上福岡駅東口付近
(ふじみ野市上福岡一丁目、2006.7.23撮影)

 県道さいたま上福岡所沢線(一部の表示には旧称である「大宮上福岡所沢線」の文字も見受けられました)を北へ向かい、かつて福岡河岸のあった場所へと進みました。もとの市名は「上福岡」なのに地名は「福岡」という現象は、市名として既存であった福岡市との同名の回避であると説明されることが多いようです。ただ、上福岡市が市になる前、福岡町(あるいはそのさらに前の「福岡村」の頃から)と呼ばれていた当時から、東上線の駅は「上福岡駅」として設置されていたことから、市名はこの駅名をその端緒とする見解もあるようです。上福岡駅は九州の福岡と同じ名前となることを避けるために命名されました。ただし、なぜ違う名前にするために「上」の字を採ったかははっきりしていないようです。いずれにいたしましても、この地域のオリジナルな地名は「福岡」でありました。福岡は新河岸川に接して河岸(船着場を擁し、舟運により商品の売買を行った商家の集まったエリア)が発達して、川越と江戸(東京)とを結ぶ舟運の中継的な機能を持ちました。後背地域で生産される農産物の集出荷およびそれら農業地域への雑貨・肥料等の搬出により、対岸の古市場河岸(川越市)とともに繁栄していたのだそうです。近代化に伴い船に代わる輸送手段として鉄道が開通するとともに舟運は衰微し、昭和初期までにはすべて廃止されたようです。養老橋の下流一帯がかつての河岸です。現在では新河岸川の流れは狭く、川の様子には高瀬船が行き交ったという往時を偲ばせるものはほとんどありません。しかしながら、福岡河岸のあった場所には、回漕問屋吉野屋の土蔵や、ふじみ野市立福岡河岸記念館として利用されている回漕問屋福田屋などの建物が点在し、河岸の町並みの一部が穏やかに残されています。明治期にはこの2つに江戸屋を加えた3つの問屋が河岸を取り仕切っていたのだそうです。

 福岡河岸を後にし、来た県道を上福岡駅の方向へ戻りました。鉄道が完成し、上福岡駅が開業した頃(1914年;大正3年)、駅と河岸との間の空間−現在多くの住宅や商業施設等によって充填されている一帯−には一面の畑や桑畑が展開していました。1927(昭和2)年に日本無線電信株式会社が進出し、1937(昭和12)年に陸軍火工廠(弾丸や砲弾を製造する工場)が移転、農業地域は一変します。戦後旧軍用地は大規模な住宅団地となり、高度経済成長期を経て急速に都市化が進みました。道路を歩いていますと行き交う人々も多くて、活気に満ちた衛星都市としての趨勢が健在であることを実感します。県道沿い、駅に近いあたりに立ち並ぶ商店街(本通り商店街)は多くの都市の例と同様に、モータリゼーションの影響を多く受けているような印象を持ちました。上福岡駅の東側へと一直線に伸びる道路が分岐する駅入口の交差点はスクランブル交差点となっていて、交差点付近がやや拡幅されているようでした。付近に設置された表示は、この県道の歩道を広げる計画があることを告げていました。「サンロード商店街」を進み、上福岡駅へ進みます。駅周辺は、駅のすぐ目の前まで建築物が迫り来ていて、申し訳程度の車止めが設置されているだけの、少々せせこましい印象です。改札は橋上駅舎にあるため、入口はそこへ向かうエスカレータがあるのみというシンプルさです。その簡素な駅舎の屋根の上に、西口の再開発事業によって新たに誕生した、超高層のマンションが大きくせり出していました。

上福岡駅西口

上福岡駅西口
(ふじみ野市霞ヶ丘一丁目、2006.7.23撮影)

ココネ上福岡

ココネ上福岡
(ふじみ野市霞ヶ丘一丁目、2006.7.23撮影)

霞ヶ丘団地方向

霞ヶ丘団地を望む
(ふじみ野市霞ヶ丘一丁目、2006.7.23撮影)
本通り

本通り商店街
(ふじみ野市上福岡三丁目、2006.7.23撮影)

 西口のエリアは、UR都市機構によって再開発された複合施設「ココネ上福岡」の完成によって、大きく変貌しました。北に接し、高層住宅群としてやはり更新が進む霞ヶ丘団地の敷地の一部と低層の住商混在地域とをクリアランスし、地上25階建ての超高層マンションにショッピングモールやクリニックモール、市サービスセンターと公共駐車場とが合体した施設となっており、上福岡駅周辺エリアにおける新たなランドマークとしての威容を十分に示していました。同機構が開発した前述の上野台・霞ヶ丘の両団地とともに、ふじみ野市において約半世紀ぶりに訪れた一大転換期であるといえるのかもしれません。途方も無く巨大な東京大都市圏というスケールで見れば、諸地域において一般に見られる“ありふれた”現象であるのかもしれませんが・・・。

 西口の再開発エリアから鉄路に添う形で昔ながらの住商混在地域を過ぎ、三度県道に戻って、踏切を渡り、本通り商店街を経由して市役所へと戻りました。再開発エリアがたいへんにゆったりとした空間でとても歩きやすかったのに対して、自動車がとどまることなく通過していく本通りは、歩行者のためというよりは車のためにある放水路
のような道路になってしまっているのではないかとの思いを捨て去ることがとうとうできませんでした。河岸の繁栄に始まり、東京大都市圏と直結した鉄路によって巨大団地の完成を見て人口が集積し、道路が車に溢れて、ゆとりの空間を求めた住宅団地の再開発が始まる。上福岡市街地は狭いながらもわが国における20世紀初頭から現在までに至る地域発達史の縮図がまさに展開している場所の1つなのではないかと思われました。


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