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関東の諸都市・地域を歩く


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#50 野田市街地散歩 〜醤油産業とともに歩んだまち〜

 2008年3月1日、野田市役所に自家用車を置いて、野田市街地散策をスタートさせました。穏やかな雑木林に接する市役所は、洪積台地を浅い谷が削り、斜面林が穏やかに緑を繁らせる当地の原風景を少しばかり想起させます。市役所は中心市街地からやや外れた位置にあることから、たまたま市役所に入ってきた野田市のコミュニティバス「まめバス」を利用しました。私以外にも数人の利用者があり、市役所に駐車して電車等で移動するなどの需要があるように思われました。小ぢんまりとしたローカル駅的な雰囲気の東武線愛宕駅前でバスを降ります。愛宕駅西側には、2003年6月までイトーヨーカドー野田店の店舗がありました。現在進められている野田線の高架化に付随した再開発事業により、同店の再出店が予定されているとのことです。駅前から市街地方面へは小規模な商店街が連続しておりまして、そうした再開発が進んだ時にこの街並みがどのように変化するか、興味のあるところです。

 本町通り(県道17号;流山街道)に面して鳥居を構える愛宕神社は、野田市街地の鎮守として崇敬を集めるお社です。豊かな社叢が現代の市街地に潤いを与えています。設置されていた説明板によりますと、創建は923(延長元)年で、この地の開墾ののち、山城国愛宕から勧請された防火を司る神様であるとのことです。また、「愛児(あたご)様」として安産や子供の健やかな成長の神様としても信仰されているようです。境内には醤油圧搾機の重石として使われた「力石」が残るほか、利根川の中・下流域に伝わる雨乞いの民俗芸能である「野田のつく舞(県指定無形民俗文化財)」が奉納される場所でもあります。14、5メートルほどの柱の上に醤油樽が付けられて、雨蛙の扮装をした演者がその柱でわ曲芸をしたり、破魔矢を打つ神事を行ったりするのだそうです。このように、随所に醤油にまつわる事物が認められる神社の存在は、まさに野田の街が醤油産業の興隆とともに存立してきたことを如実に示しているように感じられます。

愛宕神社

愛宕神社
(野田市野田、2008.3.1撮影)
醤油発祥地

野田の醤油発祥地の碑
(野田市野田、2008.3.1撮影)
小学校入口

中央小学校入口
(野田市野田、2008.3.1撮影)
野田市街地

野田市街地(中央小学校入口付近)
(野田市野田、2008.3.1撮影)

 さて、野田といえば醤油という関係は今日多くの人々が連想するところであると思います。野田は、大消費地である江戸へのアクセス性のよさを背景に銚子などの先行醸造地と肩を並べ、18世紀後期ころから醤油醸造地として急速に成長しました。しかしながら、醤油の一大生産地としての基盤がどのように生成されたかについては記録に乏しく、十分には分かっていない部分が多いようです。水上交通やそれと陸上交通の接点となった河岸などを背景に、城下が形成された関宿などの町場はいくつか形作られていたものの、野田そのものの町場としてのルーツははっきりとしていないため、野田は江戸近郊の産業都市としてまさに「勃興」したというイメージの町であるという以外にない状況です。本町通りを南へ、野田の町歩きを進めていきます。

 歩道のある片側一車線の中心街は、歩道のところどころに庇下状の屋根が取りつけられ、穏やかな商店街が整えられています。京葉銀行の店舗を過ぎ、県道を西側に少しそれて自転車店の裏手のほうに入りますと、市の史跡「野田の醤油発祥地」の碑があります。市のホームページにより、碑の由来をご紹介します。

野田で醤油作りが始まったのは、伝承によれば永禄年間(1558〜70)に飯田市郎兵衛の先祖が甲斐武田氏に溜(豆油)醤油を納め、川中島御用溜醤油と称したとされていることから、野田市において最も古い醤油醸造は飯田家と言われております。その旧飯田家の工場跡(亀屋蔵)に記念碑が残されています。しかし、近世の野田の醤油が商品化されはじめるのは、寛文元年(1661)に梨兵左衛門が醤油醸造を開始してからと考えられます。

 周囲は中層のマンションを含めた現代的な要素が空間地を挟んで穏やかな商店街の街並みと重なって、野田の街の歩みを示しているかのように感じられます。本町通りに戻り、中央小学校の入口あたりは、古い商店街の街並みが集約的に集まる野田の市街地のまさに中心と目されるエリアで、古い町屋造りの消化も少なからず存在して、近世以降発展した野田のエッセンスが凝縮された地域として印象に残りました。周囲には郷土博物館や市民会館(現キッコーマンの創業家の一つである茂木家の邸宅跡)、旧野田商誘銀行の洋風建築を承継する千秋社など、見ごたえのある建築物群が存在して町並みをいっそう奥深いものにしています。現代的なファサードを見せるキッコーマンの本社社屋の傍らには、興風館の近代建築が佇みます。1929(昭和4)年当時は千葉県内で県庁舎に次ぐ大型建築であったといわれるこの建物は、地元醤油業界が地域への利益還元のために設立した財団法人の拠点として、地域の文化活動の礎として機能しているもののようです。

大門

野田市郷土博物館・大門
(野田市野田、2008.3.1撮影)
庭園

野田市郷土博物館・庭園
(野田市野田、2008.3.1撮影)
市民会館

市民会館
(野田市野田、2008.3.1撮影)
興風会館

興風会館(右側、左はキッコーマン本社の一部)
(野田市野田、2008.3.1撮影)

 中心街の穏やかな商店街や町並みを一瞥しながら、下町交差点より西へ進み、上花輪地区へ。香取神社の手前を南へ入りますと、高梨氏庭園(上花輪歴史館)へと至ります。高梨家は1661(寛文元)年に醤油の醸造を始めた現在のキッコーマンの創業家の一つです。この日は残念ながら改装中のため、旧家の庭園や醤油に関する事物などを観ることはできなかったものの、1766(明和3)年に建築されたという長屋門が、質実ながらも隆盛を極めた一大実業家の姿を十二分に見せてくれているように感じました。歴史館前のケヤキ並木に沿って散策します。レンガ蔵に醤油樽が置かれた公園、現代的な醤油プラントなどが並びます。そして、醤油産地としての野田を物流面から支えた江戸川に行き当たりました。下河岸と呼ばれたこの一帯は、醤油の積み出しなどで大変なにぎわいであったのでしょうか。現在は2007年に経済産業省の近代化産業遺産として選ばれた下河岸桝田家住宅がひっそりと往時を物語るのみで、周囲は抜けるような青空の広がる、のびやかな河川敷そのままの風景でした。

上花輪歴史館

上花輪歴史館
(野田市上花輪、2008.3.1撮影)
江戸川

江戸川堤防(右隅は下河岸枡田家住宅)
(野田市今上、2008.3.1撮影)
工場・倉庫群

東武野田市駅付近、醤油工場・倉庫群の景観
(野田市野田、2008.3.1撮影)
野田市駅

東武野田市駅
(野田市野田、2008.3.1撮影)

 再び野田下町交差点に戻り、流山街道を横断して東へ進んで、東武野田市駅方面へ歩きます。野田市駅までの道のりは、醤油関連の工場や倉庫が立ち並び、改めてここが醤油の本場であることを実感させます。野田を訪れた訪問者の多くが感じる醤油の香りも、やわらかに嗅覚を刺激します。切妻屋根の中央に別の切妻状の構造を接続してファサードとした駅舎は、正面のレンガ状のデザインも相まって、シンプルながらもシックなデザインが印象的です。周囲の醤油工場群からの貨物輸送の名残という広い構内に到着した市営バス「まめバス」に再び乗車、市役所への帰路につき、この日のフィールドワークを終えました。食の基礎となる醤油醸造の繁栄から街並みを形成した野田の町は、その来歴に裏打ちされた輝きを随所に見せていました。

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