Japan Regional Explorerトップ > 地域文・関東甲信越地方 > 関東の諸都市地域を歩く・目次

関東の諸都市・地域を歩く


#54(蕨・戸田編)のページ

#56(平塚・茅ヶ崎編)のページへ→

#55 湘南遥歩(前) 二宮と平塚を行く 〜早い春の風景の中で〜

 湘南といいますと、どこか爽快でエネルギッシュでありながら、のびやかであたたかな、やわらかな空気に包まれた場所であるような気がします。「湘南」という言葉は、湘南地域の自治体のホームページの記述などを総合しますと、江戸時代の初期に、「相模の国の南の海岸地帯」という意味で用いられた記録が残っており「相南」となるところを、明治期に入って中国を旅行した文人たちが、湖南省洞庭湖の南岸にある、風光明媚な「簫湘湖南」の地にあやかって「湘」の字を充てて名づけたものであるようです。近代から現代にかけて、保養地として、カジュアルな若者文化の発信地として、そして首都圏の巨大な人口や産業の受け皿の一つとして、湘南エリアは多様な変化を遂げてきました。

 2009年1月24日、まだ冬の冷たい空気の残る午前10時過ぎ、JR二宮駅に到着しました。駅構内にあるプランターに植えられた菜の花に誘われるように、駅北口から吾妻山を目指しました。小学校と役場の間の坂道を西進しますと、間もなく公園の入口に至ります。いち早い春を感じようと、多くの人々が山頂を目指していました。葉をすっかり落とした山の木々は黒々とした枝を寒々しい灰色の雲が浮かぶ空に広げる一方、菜の花と同じく見頃を迎えた水仙の花の色彩と芳香に心揺さぶられながら、やがて目の前に現れた黄色の絨毯はまさに遠き春のあたたかさを凝縮しているかのような鮮烈さを持っていました。穏やかな晴天の下であれば、その輝かしさはさらに増していたに違いありませんでした。大山から丹沢、そして箱根方面へと至るたおやかな山並みは、鏡面のようなきらめきに満ちた相模湾の海原へとしなやかに遷移して、めまぐるしく光量の変わる冬空の影をたくみに受け止めていました。沖に大島や初島を望む絶景は、今まさに盛りを迎えている菜の花の黄色によって完成の高みへと至っているように感じられました。

吾妻山公園から二宮町市街地を望む

吾妻山公園から二宮の街並みを望む
(二宮町二宮、2009.1.24撮影)
吾妻山公園

吾妻山公園・菜の花と相模湾
(二宮町二宮、2009.1.24撮影)
吾妻山公園

吾妻山公園から相模湾(大島方面)を望む
(二宮町二宮、2009.1.24撮影)
吾妻山公園

吾妻山公園から大山・丹沢方面を望む
(二宮町二宮、2009.1.24撮影)

 二宮駅に戻り、東海道線で平塚へ。平塚駅前は鈍色の空の印象もあいまって、規模は大きいながらも、どこか首都圏の都市にあっては比較的穏やかな印象を受けました。平塚が市になったのは1932(昭和7)年のことで、神奈川県湘南エリアにおいては最も早い市制施行でした。人口規模そのものを比較しますと、約26万人の平塚市はお隣の茅ヶ崎市(約23.5万人)とはほぼ同規模で、さらに東の藤沢市は約41万人でやや見劣りする状況ではあるものの、湘南地域の商業中心としての伝統は、平塚市街地を歩いていて濃厚に感じることができました。

 JR平塚駅のの北口を出て、駅ビル「ラスカ」の前に、一本の柳の木が植えられているのが目を引きました。この柳の木は、1887(明治20)年に東海道本線が国府津まで延伸された際に開駅した平塚停車場の正面入り口西側に植樹された柳の木に由来するのだそうです。関東大震災による被災や市制施行、第二次世界対大戦中の空襲という多くの苦難を経て駅を見守ってきたこの木は1956(昭和31)年に枯死したものの、別の場所に挿し木された株が同年に移植され、現在に至っているとのことです。東海道に沿った宿場町の南、松林の砂丘上に建設された平塚駅は今、近代的な都市景観へと大きく変貌しました。

平塚駅

JR平塚駅北口・柳の木
(平塚市宝町、2009.1.24撮影)
平塚駅

JR平塚駅北口の景観
(平塚市紅谷町、2009.1.24撮影)
紅谷パールロード

紅谷パールロードの景観
(平塚市紅谷町、2009.1.24撮影)
フェスタロードと平塚駅

フェスタロードと平塚駅
(平塚市宮の前、2009.1.24撮影)

 北口から西へ伸びるアーケード商店街(紅谷パールロード)を進み、長崎屋の跡地を北へ折れ、旧東海道へ進みます。国道1号がさらに北を貫通していますが、平塚駅前交差点を東西に通過するルートがかつての東海道にあたります。旧東海道の歩道の上にもアーケードが取り付けられ、現代的な商店街として整備されています。中高層のマンションや商業ビルなどが沿道の多くを占める一方で、古くからの商店も多く存在していて、ここが近世以降続く宿場町をその基盤としていることが見て取れます。なお、旧平塚宿の主要エリアは平塚駅前よりも西側、平塚一丁目・同二丁目付近にあたり(平塚本宿郵便局の存在などにそれを窺うことができる)、平塚駅周辺は「平塚新宿」と呼ばれる町場であったようです。明治期の地図を確認しますと、平塚新宿は現在も市街地に鎮座する平塚八幡宮の門前町としての機能と、相模川河口の右岸にあって相模湾と相模川の水運の要として発達した須賀村と東海道との結節点としての役割があったように考えられます。

 東海道から平塚八幡宮へ至る表参道は「八幡大門通り」と呼ばれるようです。平塚駅の開業とともに商店街が形成されるようになった通りは、海岸方向へ南進する浜大門通りや東海道筋とともに、次第に平塚市の中心市街地へと成長していきました。東海道のバイパス的な位置づけで市街地北を横断する国道1号沿線や、駅前から北へ伸びる大通り「フェスタロード」沿線は、広幅員の車道とゆったりとした歩道が整備され、道路の両側には多くの中高層の建築物群が建てられており、平塚市の顔としての景観を余すところなく体現していました。

旧東海道

平塚市街地・旧東海道
(平塚市明石町、2009.1.24撮影)
旧東海道

平塚市街地・旧東海道、八幡大門通り交差点
(平塚市明石町、2009.1.24撮影)
平塚八幡宮

平塚八幡宮
(平塚市浅間町、2009.1.24撮影)
平塚八幡宮

平塚八幡宮の鳥居越しに大門通りを望む
(平塚市浅間町、2009.1.24撮影)

 市役所東にあるダイエーの西、フェスタロードに沿って南進する「宮松町」商店街を辿ってその穏やかな佇まいを一瞥しながら旧東海道に戻り、東へ、かつての須賀村の町場が展開した平塚漁港方面へと歩を進めました。途中、「蔵屋敷」バス停や、かつて東海道筋にあったという神明社について解説する表示板などの歴史を感じさせる事物に遭遇しながら、区画整理により現代の街並みに整えられた町並みの中を歩きます。国道129号を南へ折れ、アンダーパスで東海道本線をくぐりますと、右手にOSC湘南シティが立地しています。周辺には中層のマンションも多くて、良好な住環境を指向する大都市圏近郊の典型的な姿を目にしているように感じられました。


#54(蕨・戸田編)のページ

#56(平塚・茅ヶ崎編)のページへ→

関東を歩く・目次へ    このページのトップへ    ホームページのトップへ

Copyright(C) YSK(Y.Takada) 2012 Ryomo Region,JAPAN