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関東の諸都市・地域を歩く


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#54 蕨と戸田を歩く 〜旧中山道の面影〜

 川口市街地の町歩きを終え(前回#53からの続き)、京浜東北線を大宮方面に2駅戻り蕨駅にて下車し日没までの時間を蕨駅周辺のフィールドワークに充てました。近世までは先に歩いた日光御成街道筋の旧鳩ケ谷宿と並びこのあたりでは規模の大きい町場を形成していた、中山道の旧蕨宿を中心としたエリアを歩いてきます。駅前は小規模ながらもバスターミナルやタクシープールが備わっており、近隣からのバス路線が収束し都心方面への足となっているようでした。直方体状のJR(旧国鉄)の駅ではよく見かける小ぢんまりとした駅舎を背に、歩道部分が緑色に区分けされ歩きやすくなっている商店街を歩きました。

 東方向(蕨駅へ向かう方向)への一方通行となっている商店街筋を北へ折れ、市民会館北の蕨城址公園へ。近世以降のいわゆる「城下町」を形成した城とは異なり、蕨城は中世戦国期の防衛上の拠点としての城跡です。荒川が形成した微高地(自然堤防)上に土塁や堀を建設して造られた「城」でした。現在この城跡はほとんど原形をとどめず、公園と城の守り神として室町期に奉斉された八幡社がはじまりであるといわれる和楽備神社の境内となっています。和楽備神社の社叢は「蕨市和楽備神社社叢ふるさとの森」として埼玉県の指定を受けており、市街地化が極度に進んだ地域にあって貴重な緑となっているようでした。

蕨駅

JR蕨駅
(蕨市中央一丁目、2008.12.13撮影)
中央商店街

蕨中央商店街の街並み
(蕨市中央四丁目付近、2008.12.13撮影)
長泉院

長泉院と鐘楼
(蕨市中央五丁目、2008.12.13撮影)
和楽備神社

和楽備神社
(蕨市中央四丁目、2008.12.13撮影)

 蕨市は、市としては全国でもっとも面積の狭い自治体で、人口密度は1万人を越えます。市域はほぼすべて住宅地や商業地となっており、前述のとおり伝統的な町場である蕨宿のほかは一面田園地帯であった往時の姿を想像することは難しい状況です。江戸時代には名鐘のひとつに数えられ、蕨宿の時の鐘としても親しまれたという長泉院の梵鐘(おしゃみの鐘)は一瞥しただけでは堂宇には見えない現代的な建物の屋上に設置されている風景も、こうした過密化を端的に示す事物の一つであるのかもしれません。現在「中山道」と通称される国道17号の東に並行する道路がかつての中山道筋にあたり、この旧中山道が国道より東側にある一帯に、旧蕨宿が展開しています。

 旧蕨宿は日本橋を出発して板橋宿を経て2番目に到達する宿場である一方、京方面から江戸を目指す場合、荒川の状況によっては渡し船による渡河がかなわず長期の逗留を余儀なくされることもあって、比較的規模の大きい町場を形成していました。低層のマンションやオフィスビルや戸建ての建物が連続する現代的な街並みが卓越する中にあっても、町屋造りの商店や宿場の出入口に設置された木戸の意匠など、宿場としての歴史を印象づける事物が点在していました。前述の鳩ケ谷と同様近代に入り鉄道の主要幹線から外れ、中山道筋を踏襲する国道17号の東に後退する位置へと変遷した蕨の街並みは今、地域の歴史を漂わせながら、現代の都市の景観の下、穏やかに散策できる雰囲気に包まれていました。

本陣跡

旧蕨宿本陣跡
(蕨市中央五丁目、2008.12.13撮影)
歴史民俗資料館分館

市立歴史民俗資料館分館
(蕨市中央五丁目、2008.12.13撮影)
旧蕨宿

旧蕨宿の景観
(蕨市中央五丁目付近、2008.12.13撮影)
蕨宿

旧蕨宿・南入口の木戸をかたどったモニュメント
(蕨市中央五丁目、2008.12.13撮影)

 明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用した、蕨市立歴史民俗資料館分館の木造平屋寄棟造の建物の前を過ぎ、木戸のモニュメントをくぐって国道に出て、現代の大幹線道路となった17号を南へ歩いて行きました。埼京線も至近の位置にある戸田市内の沿線は中層のマンションが林立するようになり、一気に都内が近づいていることを実感させます。本町交差点手前で東南に侵入し川口信金前の交差点に至るまでの部分を最後に、菖蒲川へ至るまでの旧中山道のルートは失われているようです。先述したとおり船によってしか渡ることができなかった荒川には「戸田の渡し」が設定され、交通の要衝としてまた河岸場が設けられた舟運の拠点として栄えました。戸田橋の程近い場所に渡船場跡の石碑がて建てられ、地蔵堂や水神社が佇み、往時の街道筋を感じさせました。

 この日は昼前の鳩ケ谷フィールドワークから始まり川口、蕨を歩いており渡船場跡にたどり着いたころには日がとっぷりと暮れてしまっていました。明治期に入り戸田橋が完成してから渡し船は廃止となり以降、中山道は首都圏と郊外とをつなぐ陸上交通の要となった戸田橋の上を多くの車両が行き過ぎていきます。

戸田橋親水公園

戸田橋親水公園(旧戸田橋の親柱)
(戸田市川岸三丁目、2008.12.20撮影)
戸田漕艇場

戸田公園大橋からの景観
(戸田市戸田公園、2008.12.20撮影)

 12月20日に改めて戸田公園駅から戸田駅まで、戸田の街並みを歩いた印象は、市街化が進行しながらも所々に野菜畑や寺院周辺の穏やかな緑などの景観も認められて、荒川に寄り添いながら過ごしてきた場所の記憶をふんだんに感じさせるものでありました。中山道の宿場と渡船場という歴史によって彩られたエッセンスは、両方の名前を冠したふたつの現代都市となった現在においてもしなやかに残されて、生きている姿に心を揺さぶられました。


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