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関東の諸都市・地域を歩く


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#53 川口の市街地を行く 〜“キューポラの町”の今〜

 川口といいますと「キューポラの町」というキーワードを連想する人も少なくないのではないでしょうか。今日の川口は名作映画によって描かれたキューポラ(鋳物を製作するために金属を溶融させる炉)の煙突が立ち並ぶ風景は多くの人々に川口の原風景として脳裏に刻まれたことと思います。現代の川口市は東京の北に接するベッドタウンとして姿を変えていると聞きます。2008年12月13日、鳩ケ谷の街並みを歩いた後、新芝川を越えて当時の市境を越えて川口の中心市街地方面へと歩を進めました。

 鳩ケ谷駅の入口から西方、新芝川に架かる歩行者用の橋の欄干には、「昭和60(1985))年頃の里地区周辺」と題された航空写真が掲げられていました。写真には旧鳩ケ谷市里地区が映っており、中央に背の高い華奢な容貌の塔が広大な空き地の真ん中に屹立している様子が分かります。この施設はNHKラジオ第二の旧送信所であり、芝川を挟んだ川口市青木地区にあったNHKラジオ第一送信所とともに、NHKのラジオ送信の中核施設として、また周辺地域のランドマークとして長らく親しまれていたもののようです。1982年から83年にかけて送信所は久喜市に移転し、跡地には県立鳩ケ谷高校やSKIPシティ等の再開発用地となりました。映像関連や産業技術関連などの施設が建設されたSKIPシティは北側に残された再開発用地を利用したロケ地としても使用されるようで、この日はドラマ「坂の上の雲」で使われているという巨大軍艦の野外セットが威容を見せていました。

SKIPシティ

SKIPシティの景観
(川口市上青木三丁目、2008.12.13撮影)
ふじの市商店街(南端)

ふじの市商店街の街並み
(川口市栄町三丁目、2008.12.13撮影)
川口銀座

川口銀座商店街「樹モール」
(川口市栄町三丁目付近、2008.12.13撮影)
川口駅

JR川口駅前(東口)
(川口市栄町三丁目、2008.12.13撮影)

 青木地域は都市近郊の穏やかな住宅地という印象でした。竪川を越え、川口オートレース場あたりまで南下しますと次第に中層のマンションが混じり始めて建物の密度が上昇していきます。市役所通りあたりまで来ますと超高層マンションも認められるようになり、商店街も発達していて大都市近郊の都市地域としての姿がより明瞭になっていきます。ふじの市商店街のアーチをくぐりますと川口銀座商店街(樹モール)を経てR川口駅までは繁華な商店街が続いていきます。イトーヨーカドーがキーテナントとして入居している複合商業施設「アリオ川口」は、2003年に閉鎖されたサッポロビール埼玉工場の跡地に2005年に開業していまして、アリオ川口から東へ続く道路は現在でも「サッポロ通り」と通称されているようです。人口56万人を擁する首都圏近傍のベッドタウンとして、川口市街地は一貫して大きく変貌を遂げて、そしてその歩みは現在進行形であるようすが、町を行く人々の喧騒からも十分にうかがい知ることができました。

 駅の両側は現代的なペデストリアンデッキが駅と町とを連接していまして、「そごう」や「かわぐちキャスティ」、「キュポ・ラ」、「リリア」などの商業施設や複合施設、文化施設が集積して、巨大ベッドタウンの一大ターミナルとしての威容を備えています。駅東口から南東へ町を貫く「川口本町大通り」を進みますと、高層マンションが多く屹立する様子が一層実感されます。道路の彼方には、埼玉高速鉄道線川口元郷駅周辺の超高層マンション「エルザタワー」も遠望されます。道行く人々や自転車も多く、ここがまさに東京にほど近い至便な住宅都市であることが否が応にも実感として認識されます。

駅標

JR川口駅・鋳物の駅標
(川口市栄町三丁目、2011.11.13撮影)
川口駅

川口駅前と高層マンション群遠景
(川口市栄町三丁目付近、2011.11.3撮影)
川口西公園

川口西公園(リリアパーク)内の鋳物のオブジェ
(川口市川口三丁目、2011.11.13撮影)
川口神社

川口神社
(川口市金山町、2011.11.3撮影)

 本町大通りを南に折れて路地を進んできますと、川口の町の総鎮守である川口神社の杜に行き当たりました。現代的な建物に溢れた市街地にあって、空が見えないほどの木々に包まれる空間は本当にほっとできる場所であるように感じます。平安時代の天慶(てんぎょう)年間に武蔵一宮である氷川神社から分祀勧請したと伝えられるこのお社は、明治期に鋳物師の神として祀られていた金山権現社が合祀され、現在の川口神社になったのだそうです。金山権現は戦後鋳物関係者等の熱望により、川口神社の旧社殿を別宮とし、金山神社として境内に佇んでいます。

 神社南の環状線通りを東へ進み、国道122号に突き当たる「本町ロータリー」の少し手前、国道に並行して西側を通る路地がかつての日光御成街道筋で、川口宿の町場のあった、まさに川口の町のオリジンとなるエリアです。明治期の地形図を確認しますと、いまや高層マンションや商業施設、中小の商店や住宅などに充填された川口駅前を中心としたこの一帯は、この川口宿のあたりがややまとまった都市的集落となっているほかは一面の農地や湿地帯であったことが分かります。現代の旧川口宿のエリアは所々に趣のある町屋や石積みの蔵が点在するのみで、かつてここが広大な農村地帯の中に発達した中心地であったことを積極的に示すには物足りない風景に映りました。しかしながら、この町場はまた鋳物の町としての川口の原点ともなっている場所のひとつであり、江戸時代の記録には、この宿場町筋の裏通りに鋳物業を営む釜屋が数十軒あったという記述が認められるのだそうです。川口鋳物は室町時代末期にはこの地域で既に行われていたようで、鋳物に適した川砂や粘土が採取できたこと、そして何より大消費地である江戸に近接していたことから次第に盛んになっていったと考えられているようです。



旧日光御成街道川口宿付近の町屋
(川口市本町一丁目付近、2011.11.3撮影)


旧日光御成街道川口宿眺望(荒川堤防上から俯瞰)
(川口市本町一丁目、2011.11.3撮影)
川口遠景

川口駅方面の遠景と荒川(新荒川大橋上より)
(川口市舟戸町、2011.11.3撮影)
キューポラ

キューポラのある鋳物工場
(川口市川口一丁目付近、2011.11.13撮影)

 広大な荒川の河川敷を眺めながら、堤防上より現代の川口の町を観察します。京浜東北線の鉄橋はひっきりなしに列車が行き過ぎ、高層マンションが林立してベッドタウンとして急成長した市街地が燦然とした姿を見せています。かつてこの町を象徴してきた「キューポラ」の煙突群はまったくと言っていいほど見つけることができません。そんな中で、川口駅の南にある鋳物工場に、現役で使用されていると思われるキューポラを発見しました。その敷地の北側には高層マンションがあり、その北側が公園スペースとなっていて、このマンションが建つ前にこの場所に立地していた鋳物工場から寄贈された“甑(こしき=小型の溶融炉)”や鋳物製品がオブジェとして設置され鋳物の町川口をシンボライズする構成となっていました。高密度の市街地が広がる川口駅周辺でも操業を続けている鋳物工場は少なくありません。川口駅周辺エリアは都市計画上、駅前や通りに面した地域が商業地域として画されているほかは、工業地域や準工業地域に指定されている場所が広く、都市的な土地利用が卓越した景観とのギャップが際立っているように感じられます。人口50万人超の都市の中心駅前一帯の一等地がリアルに“住工混在地域”となっていることは、あるいは日本においても希有な部類に入るものなのかもしれません。その公園からは先ほどの工場の“キューポラ”を見通すこともできまして、川口は現在でもキューポラ(鋳物工場)と暮らす街であることが実感されました。

 街道筋の小さな町場として存立したこの町は、江戸=東京への近接性から鋳物工業を発達させるとともに戦後は巨大都市圏からの人口の受け皿として飛躍的な変貌を遂げました。工業地域としての伝統と現代都市としての喧騒とが混然一体となったこの街が模索する道程は、鋳物のように滾る可能性に溢れている、そう強く感じました。


※この文章は冒頭に記載した2008年12月13日のフィールドワークをもとに、2011年11月3日・13日に追加取材を行った結果も加えて構成しています。

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