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関東の諸都市・地域を歩く


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#6 足尾の山に想う 〜時代を超える慟哭は胸に〜

日本の近代化の残像は、多くの地域の中でそれぞれに耀かしさを放ち、現代の私たちを見つめてくれているように思います。それは明治大正期のモダンな建築物であったり、多くの自動車や人々が疾走、闊歩する道路や橋であったり、その近代化を支えた多くの人々の足跡であったりするのかもしれません。私たちは、近代化の過程の中で多くの回り道や時に過ちを犯しながらも、今日のこの国をつくりあげてきました。その辿った道筋に散りばめられた数々の宝石たちは、欠くことのできない財産であるのでしょう。

私の住む両毛地域を潤す渡良瀬川の上流に、栃木県足尾町があります。合併により現在は日光市の一部となっているこの町は、かつて最盛期には日本の採銅量の40%を生産した足尾銅山とともに歩んだ町です。「旧足尾の歴史は、足尾銅山の歴史そのものです」と紹介する日光市ホームページの足尾の歴史に関する記述により、足尾における銅山開発とその光芒を跡付けて見ます。

1610(慶長15)年に銅山が発見されて以来、銅山は幕府の管轄下におかれ、多くの労働者が採掘と製錬を行い、江戸の中期には足尾千軒と呼ばれるほどの繁栄を示しました。
   その後一時の衰退をみますが、1877(明治10)年、古河市兵衛の経営となり、先進的な技術と設備の導入により、生産が急速に伸び、1890(明治20)年代には日本産銅の40%を産出する日本一の銅山となります。その後も次々と鉱脈が発見され、大正以降も発展は続き、1916(大正5)年の人口は、栃木県内では宇都宮市に次ぐ38,428人と、県下第2位の規模を占めました。
 しかし長い繁栄を続けた足尾銅山も産銅量の減少と時代の流れの中で1973年(昭和48)年2月28日、その長い歴史に終止符をうちました。


現在、足尾の人口は3,400人あまりとなり、最も人口が多かった時期の約10分の1となっています。銅山が閉山して30年以上が過ぎ、地域は銅山の歴史を濃厚に地域に刻みながら、豊かな自然に囲まれている地域特性を活かしたまちづくりを標榜しています。

渡良瀬川と備前楯山

渡良瀬川と備前楯山を望む
(栃木県足尾町、2003.10.11撮影)

銅親水公園

銅(あかがね)親水公園を望む
(栃木県足尾町、2003.10.11撮影)

旧足尾精錬所

旧足尾精錬所
(栃木県足尾町、2003.10.11撮影)
旧足尾精錬所と渡良瀬川

旧足尾精錬所と渡良瀬川
(栃木県足尾町、2003.10.11撮影)


足尾にとって、そしてわが国近代史にとって、足尾銅山鉱毒事件は大きく、そして重い記憶として刻まれます。足尾の市街地を過ぎ、国道122号線を北上します。日光方面へ国道が分岐する田元交差点を直進、わたらせ渓谷鉄道間藤駅の前を通過しますと、旧足尾精錬所の殺伐とした景観が見えてきます。足尾で初めて銅鉱が発見された備前楯山(びぜんたてやま)をバックに、未だ白い山肌の目立つ山々と、赤く錆び朽ちかけた精錬所の施設が渡良瀬川を臨み建つ景観は、足尾銅山の隆盛と、日本史上最初の公害ともいえる足尾銅山鉱毒がどのようなものであったかをまざまざと見せつけるものと映ります。鉱毒に加え、精錬所から排出された亜硫酸ガスは周辺の山々から豊かな森林を奪い、渡良瀬川上流・松木渓谷に展開した地味溢れる山村・松木村を廃村に追いやりました。旧精錬所の上流、3つの河川が合流する場所に作られた砂防ダム周辺は「銅(あかがね)親水公園」として整備されています。これより上流、松木渓谷周辺は現在でも岩肌が剥き出しの痛々しい景観が広がり、「日本のグランドキャニオン」の異名もあるようです。森を失った山は土壌を失い、ごつごつとした岩肌をあらわにした姿になりました。戦後より、育ちやすい草木を移植させるなどの緑を取り戻す取り組みが進められ、足尾の山には少しずつあるべき姿に戻りつつあるようです。日光市との境界、半月峠付近からは、中禅寺湖と男体山が美しく眺望できるほか、松木渓谷上流の豊かな自然もまた気持ちよく眺めることができました。

男体山と中禅寺湖

半月峠より男体山・中禅寺湖を望む
(栃木県足尾町、2003.10.11撮影)


松木渓谷上流

半月峠より松木渓谷上流の山々を望む
(栃木県足尾町、2003.10.11撮影)

足尾上空

旧足尾精錬所・松木渓谷周辺上空
(2001年撮影)



旧谷中村遺跡
(栃木県藤岡町、2002.4.28撮影)

旧谷中村史跡ゾーンの景観

旧谷中村史跡ゾーンの景観
(栃木県藤岡町、2002.4.28撮影)
渡良瀬遊水地

渡良瀬遊水地
(栃木県藤岡町、2002.4.28撮影)

※栃木県足尾町は2006年3月20日に日光市ほか4市町村と合併し、現在は新しい日光市となっています。

足尾銅山鉱毒事件については、この事件解決のために人生をかけて取り組んだ栃木県選出の代議士・田中正造とともに、多くの著作や資料がありますので、ここでは詳述はしません。明治期、足尾銅山から排出された、有害な金属を含む廃液が渡良瀬川に流れ込み、流域の農村に深刻な被害を与えた事件です。足尾から渡良瀬川を下った、茨城、栃木、群馬、埼玉の各県にまたがった湿地帯・渡良瀬遊水地は、銅山の利益を優先した当時の政府が鉱害問題を治水問題にすり替え、1つの村(谷中村)を強引に廃村させたという場所にあたります。旧谷中村の役場跡など、かつての村の中心部があった一帯は、現在史跡保存ゾーンとして整備されています。渡良瀬遊水地は現在、多くの種類の鳥や魚、昆虫などが生息する、日本国内では有数の豊かな自然環境がある場所として貴重な存在となっています。このような自然環境が成立するきっかけは、多くの農地や人々や自然環境を蹂躙した鉱害事件であったわけです。

足尾は、わが国が近代化の階段を上る過程にあって辿った負の遺産を今に伝える場所であるように思います。鉱害・煙害に打ちひしがれた足尾の山々には、たゆまぬ努力により、緑が少しずつ甦りつつあります。足尾の姿に直面しますと、その景観のインパクトの大きさに圧倒されそうな気持ちになるかもしれません。それをネガティブにとらえるのではなくて、復活しつつある銅山周辺の自然、そして遥かなる昔から輝くばかりのみずみずしい自然が伝えられた足尾の山々を、穏やかに見つめていければと思います。歴史の重みを直視しながら、地域が蓄える美しい緑や豊かな山々は、大切に、穏やかに、見守られていくことでしょう。


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