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関東の諸都市・地域を歩く


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#65 藤岡市街地を歩く 〜交通結節点の町場の典型を見る〜

 2010年1月3日、この年フィールドワーク初めは、地元群馬県内の藤岡市街地を巡りました。寒気が入り雲の多い寒々しい陽気となった町は、新年を迎えた厳かな空気に包まれているような佇まいでした。

 話は少しそれますが、日本の都市の場合、その成立の多くが藩政期における城下町を基礎とするもので、中央集権的な行政機構や経済システムの影響もあり、県庁所在都市の多くがこの類型に当てはまり、県域規模かそれ以上の経済圏を形成しています。門前町(長野など)や開拓都市(札幌)などの例外を除けば、次に多いグループは港湾や鉄道などの交通結節点に発達した都市群です(青森、さいたま、横浜、神戸、長崎等)。とりわけ、ここで注目したいのは、主要交通路の交差点に成立した町場です。河川が山間部から平地に出る場所にできる集落(谷口集落)も含め、多くの人々が行き交う道路の交わる場所は自然と交易の中心となり、市が立ったり宿場となったりして、町場となることが少なくありません。こうした「交通の要衝」こそ、都市成長の原点であるといえるでしょう。今回は藤岡の町に、こうした都市の雰囲気を感じながら歩きたいと思います。

群馬藤岡駅

JR群馬藤岡駅
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)
群馬藤岡駅前

JR群馬藤岡駅前の景観
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)
赤城山

群馬藤岡駅の自由通路上から赤城山を望む
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)
旧多野会館

旧多野会館
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)
里程標

里程標(四丁目交差点南西隅)
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)
四丁目

四丁目交差点から西方向の街並み
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)

 中心市街地北端にある市役所に駐車し、散策を始めます。市役所南にある交差点名「中栗須藤岡境」のが示すとおり、かつての藤岡の町の範域と郊外との境界に位置する界隈から、南側の中心市街地へと入ります。市街地東からJR八高線を渡って侵入する県道40号沿いにはイトーヨーカドーの店舗があり、市街地を代表する各店舗の役割を占めています。県道沿いにはやや古い建物も見受けられるものの、現代の街並みが続いており、そのままJR群馬藤岡駅の手前まで導かれました。切妻屋根の平入り側に三角屋根のファサードを作った簡素なつくりの駅舎には、正面に当地名産の鬼瓦が飾られています。市の中心駅ではあるものの、モータリゼーションが進んだ地域のローカル駅という位置づけもあって、駅前は駅に続く通りの広さが逆に目立つ程度の集積性です。鉄路を跨ぐ歩道橋からは、穏やかな住宅地となっている家並の向こう、赤城山や榛名山をはじめとした上州の山々がたおやかに眺められました。

 駅前の通りを元に戻り、県道40号を南に折れますと、西側にレンガ造りの近代歴史建築が壮麗な姿を見せていました。現在は農協の建物となっているようですが、かつては「多野会館」と呼ばれた公共施設であったようです。1938(昭和13)年建築の建物は西洋風の意匠に和風の屋根を載せたいわゆる「帝冠様式」を採用する建築物です。市制前の藤岡町も属していた多野郡の名称を採っていることから、自治体の枠を越えた広域的な団体が事務所として使用する建物であったようです(医師会が入居していた過去も現にあったようです)。藤岡が今も昔も神流川流域を主な範域とする多野郡の主邑であることを雄弁に物語っているようでした。

四丁目

四丁目交差点から南方向の街並み
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)
大戸町

大戸町の街並み
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)
田園風景

土師神社付近の田園風景
(藤岡市本郷付近、2010.1.3撮影)
土師神社

土師神社・土師の辻
(藤岡市本郷、2010.1.3撮影)
藤岡市街地

藤岡市街地、土蔵の見える家並み
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)
七丁目

七丁目の街並み
(藤岡市藤岡、2010.1.3撮影)

 四丁目の交差点に近づきますと建物が増えて、町場としての密度が大きくなっていきます。中には土蔵のある店もあって、ここが古くからの市街地であることを感じさせます。交差点には金融機関の支店も立地しています。そしてここがまさに「町のど真ん中」であることを如実に示していたものが、交差点南西隅のポケットパークに今も建つ「里程標」と刻まれた石碑です。1915(大正4)年に御大典(大正天皇即位の礼)記念として当時まだ行政機構として存在していた多野郡が建立したようです。碑には郡下の町村への道のりが記載されており、ここが藤岡の町の中心であったことが理解できます。交差点を挟んで北東端には道路元標も確認できました。

 埼玉県方面から連接する県道23号が丁字路で突き当たり北へ折れる地点が「一丁目交差点」、新町方面からの県道40号と合流し町場のメインストリートが西へ続く町の中心が「四丁目交差点」、そして高崎方面から続く県道23号と同30号が収束する「七丁目交差点」と、主要道路に沿って丁目が割り振られていることが分かります。藤岡の町は中山道新町宿(現・高崎市新町)から神流川の河谷を進み十石峠で信州へ向ける「十石街道」と、やはり中山道本庄宿下仁田を通り和美峠を抜ける信州(上州)姫街道(下仁田道、中山道の脇往還)が交差する要衝に成長した町場というわけです。上述した主要な道路網は一部クランク状につながっていた道路を十字路に改変した部分もあるものの、基本的な近世以降その骨格は維持されているようです。藤岡はこうした交通路のノードに自然発達した町であり、冒頭にお話しした市街地類型の典型であると言えます。

 今もまとまった市街地を維持する旧下仁田道を商店街の様子を概観し、かつての十石街道筋にあった埴輪窯址や土師神社境内の相撲辻などを見ながら、穏やかな田園風景の中地域の中心都市として存立した藤岡の町を歩きました。信州方面へ続く上信越道の分岐点でもある藤岡は、群馬県内における一大交通結節点である高崎の陰に隠れながらも、元来の性質として要衝性を備えた場所であったと言えるのかもしれません。

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