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関東の諸都市・地域を歩く


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#82 菊名から新横浜へ 〜駅とともに成長したまちと副都心〜 

 2013年12月21日、横浜市街地の北に位置する菊名駅から新横浜駅までを歩きました。年末の穏やかな冬晴れの一日で、最高気温10度ほどの冬らしい寒さの中に、やわらかな陽射しからぬくもりを感じるような気候であったように記憶しています。東急東横線とJR横浜線との接続駅である菊名駅は、両線で合わせて1日平均約19万人が利用するという、東京・横浜間における主要な郊外駅として機能しています。

綱島街道沿い

菊名・綱島街道沿いの景観
(横浜市港北区菊名六丁目、2013.12.21撮影)
菊名地区センター交差点

菊名地区センター交差点
(横浜市港北区菊名六丁目、2013.12.21撮影)
大豆戸町

大豆戸町の住宅地景観
(横浜市港北区大豆戸町、2013.12.21撮影)
新横浜遠景

新横浜遠景
(横浜市港北区大豆戸町、2013.12.21撮影)

 菊名駅周辺はその利用者数の多さとは反比例するように、バスターミナルやタクシープールといった駅前の設備を欠いています。これには、もともと駅が立地している場所が丘陵地に狭い谷津が食い込む位置にあたることから大規模な平坦地を確保しにくいという事情が多分に影響しているものと思われます。こうした潜在的要因に加え、高度経済成長期以降の急速な都市化により駅前の空間確保がままならないまま駅の利用者増えて、今日に至っているのでしょうか。訪れたこの日も、駅前に密集するように存在する焦点に多くの人波が押し寄せている様子が観察されまして、元来丘陵性の土地が多い横浜市郊外の典型を観たような思いでした。綱島街道沿いは駅前に比べますとやや開放的な都市空間となっているのが印象的です。

 大型スーパーのある交差点を西に入り、東横線の下をくぐって新横浜方面へと進みます。菊名駅の西側から丘陵の裾を回り込むように北西から西へと進む道路は明治初期の地勢図にもほぼそれを踏襲していると思われる道筋が描かれていることから、この地域における古い道路であることが見て取れます。この山裾の道路に沿って集落があるほかは、北西の鶴見川がつくる沖積地一帯はかつては水田として利用されていました。現在は周辺一帯は丘陵の上下問わず住宅地として開発されている状況で、斜面に近い一部に斜面林が残されていることだけが、かつてのこの地域の景観を今に伝えています。新横浜と菊名という、利用者の多い駅に挟まれた場所ながらも、戸建て住宅や中層のマンションが中心の閑静な環境下にある住宅地にあって、背後にある木々の緑はそうした静かな雰囲気にささやかなうるおいを与えているように感じられました。

環状2号

新横浜・環状2号の景観
(横浜市港北区新横浜三丁目、2013.12.21撮影)
新横浜駅前の景観

新横浜駅前の景観
(横浜市港北区新横浜二丁目、2013.12.21撮影)
新横浜駅

新横浜駅
(横浜市港北区新横浜二丁目、2013.12.21撮影)
横浜アリーナ

横浜アリーナ前
(横浜市港北区新横浜三丁目、2013.12.21撮影)

 穏やかな住宅地をさらに西へ歩いてきますと、やがてJR新横浜駅周辺の建物が眼前に迫ってきました。新幹線の下をくぐり、横浜アリーナの東側辺りに出ますと、これまでの住宅地域からは一変して、高層建築物が集まる都市的な景観へと移り変わります。新幹線に並行するように進む広幅員の環状2号がゆったりとした空間をより印象付けさせて、現代的な街並みが一層目に焼き付きます。ホテルや商業施設、横浜アリーナや日産スタジアムなどの文化・競技施設、大きなバスプール、それらを連絡するペデストリアンデッキ、整然と区画された市街地が、大都市横浜の新幹線における玄関口としての存在感を際立たせています。前述のように、新横浜駅のある場所は南東に丘陵性の大地が迫り、そこから北側は鶴見川が形成する広大な沖積地となっていまして、その低地の大部分は水田として利用されていました。1964(昭和39)年10月1日、東海道進化線の開業とともに設置された新横浜駅は、新幹線の利便性向上とともに駅周辺地域の都市化を加速させ、その都市規模は横浜における新都心(「新横浜」は地名としても定着し正式な行政地名にもなっています)の一角を担うまでになりました。

 新横浜は大都市における郊外中心というよりは、業務機能が集積するまさに副都心としての色彩が強い市街地です。このようにその町の中心駅から離れた場所に新幹線駅がつくられた例は、他に新大阪駅や新青森駅などがありますが、農村的な土地利用が卓越していた地域が新幹線駅設置により大都市圏の副都心並みの拠点性を持つまでに短期間に成長したことは、他に類例を見ないのではないかとも思われます。そしてそれは、高度経済成長期における東京大都市圏の拡大がいかに凄まじい営力を持つものであったかを示しているといえるのかもしれません。

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