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北九州プロムナード
〜北部九州の諸地域をめぐる〜

 2008年9月、九州北部の門司、小倉、柳川、秋月と回りました。性格の異なる地域をめぐりながら、九州に多彩に展開する、個性あふれる「地域」の姿に触れることができました。
門司俯瞰

和布刈公園から望む門司市街地
(門司区門司、2008.9.13撮影)
秋月

秋月・田園風景
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)
訪問者カウンタ
ページ設置:2010年11月27日

門司港レトロを歩く
九州島の最北、企救(きく)半島のさらに先端の高台に和布刈(めかり)公園があります。本州と九州とを隔てる関門海峡は早鞆の瀬戸を臨み、海を越える関門橋が間近に見下ろす公園からは、門司の市街地を一望のもとに見渡すことができます。周防灘と響灘を結ぶ有数の交通の要衝となっている関門海峡は今日でも多くの船舶が航行する重要なルートとなっています。本州と九州の接点として門司(及び対岸の赤間関=下関)は、自然と陸上交通の面でも潜在的に高い拠点性を有することとなりました。そのため、門司や下関には古来より関所が設置されるなど通商上の施設が集積してきました。時代の変遷で赤間ヶ関に隆盛を奪われ一時的に寒村然とした地域として過ごした時期を経て、門司は近代以降貿易港として急成長を遂げたことは周知のことと思います。門司港を中心とした門司区の中心市街地には往時の建物が多く残され、近代の洋風建築が独特な町並みを形成していることから、近年は「門司港レトロ」として観光地化し、多くの集客が認められるようになっています。和布刈公園を後にして、そんな「門司港レトロ地区」の玄関口となっているJR門司港駅へと移動しました。

関門橋

和布刈公園から関門橋・下関を望む
(門司区門司、2008.9.13撮影)
門司港駅

JR門司港駅
(門司区西海岸一丁目、2008.9.13撮影)
旧門司三井倶楽部

旧門司三井倶楽部
(門司区港町、2008.9.13撮影)
旧大阪商船

旧大阪商船
(門司区港町、2008.9.13撮影)

JR門司港駅は、「門司港レトロ地区」のまさに玄関にあたる建物です。周知のとおり、同駅舎は、駅舎としては初めて国の重要文化財に指定されています。1914(大正3)年に完成した木造駅舎は、ネオ・ルネサンス様式の瀟洒なファサードが印象的です。シンメトリの駅舎は、広場の噴水を前にしてより晴朗な表情を見せます。門司港駅は、1891(明治24)年、当時の九州鉄道の駅として開業しました。九州における陸上交通の玄関口としての位置づけであり、関門海峡をくぐる関門鉄道トンネル計画に伴い現在の駅名に改称されるまで(1942(昭和17)年)は「門司駅」を名乗っていました(現在の門司駅は「大里(だいり)駅」の名称でした)。交通の拠点としての役割は門司駅、そして山陽新幹線の開業により小倉駅へと推移するものの、九州における鉄道網の原点として、また門司区の中心市街地の最寄り駅として、変わらぬ風格を備えているように感じられます。

門司港駅前を東へ、門司港を中心とした多くの観光客が行き交うエリアを目指します。駅に相対して優美な姿を見せる洋風建築は、旧門司三井倶楽部の建物です。1921(大正10)年に、三井物産門司支店の社交場として山あいの門司区谷町に建築されました。戦後の国鉄所有の時代等を経て、1990(平成2)年に、現在の門司港レトロ地区に移築・復元されたものであるとのことです。旧門司三井倶楽部と道を挟んで反対側には、その三井物産の門司支店として建てられた建物が現存しています。周囲の意匠に富んだ建築物群とは対照的に、アメリカ合理主義に沿ったシンプルな表情をしていることが特徴であるため、あまり目立たない存在となっているようです。1937(昭和12)年に三井物産が大陸貿易の拠点として建設された建物は、事務所建築として完成当時は門司エリアで随一の高層建築であったのだそうです。同じ三井系の建物が隣り合って再建されたことは、この両建物を設計した松田昌平(旧門司三井倶楽部)と松田軍平(門司支店)とが兄弟であった(昌平が兄)ことともあいまって、時代を超えたロマンと奇跡とを感じさせるに余りある史実であるように思います。門司支店の建物は、戦後にやはり国鉄九州総局、JR九州本社などを経て、JR移転後は北九州市に譲渡され、ギャラリーや音楽ホール、門司港歴史資料室などを備えた門司港レトロ地区の観光拠点としてリニューアルされる計画であるようです。

門司港

門司港風景(左は旧門司税関)
(門司区港町、2008.9.13撮影)
門司港

門司港風景(海峡プラザを望む)
(門司区港町、2008.9.13撮影)
栄町銀天街

栄町銀天街
(門司区栄町、2008.9.13撮影)
三宜楼

奥に三宜楼を望む町並み
(門司区本町、2008.9.13撮影)

旧大阪商船(1917(大正6)年建築、国登録有形文化財)のアーチ状のファサードの上に建つ搭屋が印象的なレンガ建築や、煉瓦造りの上に瓦が葺かれ、平屋の建物が重厚な旧門司税関(1912(明治45)年建築、199195年に改築)の歴史的な表情を濃厚に残す建築物群と、現代的なビルディングの上に特徴的な展望室を戴いた高層マンションや複合商業施設に囲まれた門司港は、開放的な雰囲気も相まって、近代と現代とが巧妙にミックスされた門司の歴史的テーマパークのような印象を受けました。門司港レトロ地区の南には、現在でも政令指定都市・北九州市の一角を担う門司区の中心市街地が展開しています。桟橋通りから栄町銀天街を歩き、旧三宜楼を見上げる界隈は実に穏やかな印象で、ここが現在においても多くの人々にとっての生活の舞台であることを実感させました。近代の黎明期から九州の玄関口として栄えた門司は、味わいのある町並みをふんだんに散りばめながら、今に輝きを増しているようにさえ感じられました。

小倉駅周辺を散策する
 関門トンネルの開通により微妙な変化を生じてきた都市の営力は、いわゆる太平洋ベルト地帯への工業化の遷移や山陽新幹線の開業とともに小倉の交通結節点としての地位を高めました。今、小倉駅を降り立ちますと、駅ビルからまっすぐに南へ、宙空を行くモノレールの景観が目に突き刺さり、圧倒されます。南口の周辺は小倉の中心商業地であり、百貨店のコレットをはじめとした多くの商業系・事業系の建築物群によって充填されています。非県庁所在都市の中では、川崎市に次ぐ人口規模を持つ北九州市のまさに玄関口として、燦然とした都市空間が展開されています。川崎市は首都圏内における衛星都市的な一面もありますので、単独の都市圏を形成する県庁のない都市としては全国最大の規模の町であるといってもよいのかもしれません。多くの地域で県庁所在都市が最大の都市でありそれと同等の中心性を持つ都市は極めて少ない東日本の視点に立つと、北九州市(小倉)の町の大きさは非常に驚かされます。現実には行政や経済の中枢はほとんどが福岡市に集中し、北九州市の中枢管理機能は福岡県内における部分地域(北九州エリア)を統括するのみであるわけですが、それでも経済圏として福岡市に比肩する物量を維持するこの町の底力はただ者ではない印象を受けます。現在でもTOTOやゼンリンといった多くの有力企業の本社が立地しています。

小倉駅前

JR小倉駅前、モノレール
(小倉北区浅野一丁目、2008.9.14撮影)
魚町銀天街

魚町銀天街
(小倉北区魚町一丁目、2008.9.14撮影)
勝山通り

勝山通り(魚町銀天街交差点より西方向を望む)
(小倉北区京町一丁目、2008.9.14撮影)
紫川

鴎外橋と北九州市役所(小倉城がビルに映る)
(小倉北区船場町、2008.9.14撮影)

 南口のペデストリアンデッキを降りて南へ進みますと、アーケード街「小倉中央商店街」の入口が見えます。周辺は南北・東西の商店街にはアーケードの屋根が付けられていまして、飲食店やカラオケ店、多様な商店などが軒を連ねていました。一筋西を南北に貫通する「魚町銀天街」は、1951(昭和26)年に日本ではじめて公道上にアーケードを設置した商店街として知られていまして、現在ではアーケード街を指す言葉として普及している「銀天街」という名称の発祥の地でもあるのだそうです。アーケード商店街は西日本では町の大小を問わず設置されていることが多くて、その庶民的なたたずまいから西に来たと感じる事物の一つであるように思います。西日本は東日本に比して概して山がちであり、平地の割合が少なく市街地の稠密度が相対的に高い傾向があるように感じられます。このことも、西日本エリアにアーケード街が発達する要因であるのではないか、そして西日本の非県庁所在都市に人口規模の大きい都市が少なくない理由にもなっているのではないかと考えています。南北に東西に縦横に展開しているアーケード街をめぐりながら、地元では「勝山通り」や「旧電車通り(廃止された西鉄北九州線の軌道敷であったため)」と呼ばれる国道199号に出て、オリエントキャピタルタワーレジデンスの超高層ビルや井筒屋を望む西へと進みました。なお、魚町銀天街はさらに南へ進んでいまして、北九州の台所と呼ばれる旦過市場へと至ります。訪問時は国道で分断されていたアーケードは、現在通りをまたいで屋根が連接されているようです。

 井筒屋まで進みますと、小倉の町を流下する紫川のほとりに到達します。「紫川マイタウン・マイリバー整備事業」による治水・沿岸再整備により個性的な橋が誕生し、穏やかな水辺空間として再生された川辺を進みますと、水鳥(かもめ)をイメージしたという鴎外橋の向こうに、窓ガラスに小倉城のシルエットを映す北九州市役所の建物が都市景観の粋なアクセントとなって屹立しています。小倉城(勝山城)は1602(慶長7)年細川氏が豊前・豊後39万石の領主として入り、細川氏が1632(寛永9)年に熊本藩へ移封後は譜代大名の小笠原氏が入城し、以後小倉藩15万石の城下町の中枢として栄えてきました。幕末の第二次長州征討(1866(慶応2)年)の際に長州藩に敗れた小倉藩は城に自ら火を放ったことにより焼失した天守は、1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で再建されたものです。天守閣の周囲に張り出した外回り縁を壁や戸板で覆った「唐造り」と呼ばれる特徴的な意匠も再現されています。城内には7月第3土曜日を挟んだ3日間に町をあげて開催される例大祭(小倉祇園祭)が著名な八坂神社や、緑豊かな小倉城庭園などが立地し、紫川のウォーターフロントの開放的な雰囲気もあいまってたいへんのびやかな印象です。城に北接して複合商業施設・リバーウォーク北九州の斬新な建物群があって、小倉城周辺の景観と際立った対照を見せていました。

小倉城

小倉城
(小倉北区城内、2008.9.14撮影)
芸術劇場

小倉城内より北九州芸術劇場の建物群を望む
(小倉北区城内、2008.9.14撮影)
木の橋

常盤橋(木の橋)を望む
(小倉北区京町一丁目、2008.9.14撮影)
祇園太鼓

小倉駅前・祇園太鼓のモニュメント
(小倉北区浅野一丁目、2008.9.14撮影)

 勝山通りを渡って、旧長崎街道の起点であった常盤橋(通称:木の橋)を一瞥しながら小倉駅に戻りました。長崎へ向かう電車を待つ間の短い時間での小倉町歩きは、この町が持っているダイナミックかつ人情味あふれる姿ばかりが目に焼きつく行程であったように思います。駅の上にどんと建って威風を漂わせる巨大な駅ビルを前に、デッキ上に設置された小倉祇園太鼓のモニュメントが、そんな小倉の今を象徴しているように感じられました。


筑後柳川を行く
 水郷の町柳川は、掘割が縦横に張り巡らされた近世以降の地勢がそのまま現代に受け継がれたような町であったように思います。レンタカーで佐賀市を出発し、筑後川を越え、家具の生産で有名な大川市を経て、柳川の町へと至りました。辻町交差点から西鉄柳川駅方面へと続く京町通り沿いは古くからの中心市街地のようで、車中からは商店街の家並が穏やかに眺められました。市役所前を経て、城跡である柳川高校や柳城中学校の前を通過し、御花間近の駐車場で車を降り、町歩きをスタートさせます。佐賀を出たころからずっと降り続いてきた雨は柳川に到着したころからようやく小康状態となり、御花に着いてほぼ上がりました。

御花

御花・正門の景観
(柳川市新外町、2008.9.15撮影)
御花

御花・西洋館
(柳川市新外町、2008.9.15撮影)
御花

御花・松濤園
(柳川市新外町、2008.9.15撮影)
御花

御花・大広間・料亭として使用される和風建築
(柳川市新外町、2008.9.15撮影)

 柳川の地図を見ますと、一見してその掘割の多さが理解されます。そして同時にそれらの掘割が城のあった一角を中心として二重に三重に城を取り巻いている様子も見て取れます。
柳川の町の中心にある柳河(柳川)城が築かれたのは(近年まで柳川は「柳河」と表記されていました)、文亀年間(150103)、下筑後地方の領主であった蒲地氏本拠(蒲池城)の支城として開かれたといわれています。江戸期を迎え、城主の交代を経て徐々に近世の城郭としての体裁を整え、1620(元和6)年に立花宗茂が11万石で再封されてからは、江戸時代を通じて立花氏の治世が続き、筑後地域の中心的な都市として繁栄しました。

 城跡(本丸;本丸自体も堀で囲まれていたようです)を中心に複数の掘割で囲まれた柳川町は、大きく分けて3つのエリアから成り立っていました。西鉄柳川駅西方の前述した古い中心市街地である「柳河町」、城を中心とし武家地を前身とする「城内」、そして城内エリアの西に接し、柳川藩領外への門戸としての機能を備えた漁師町「沖端町」の3地域です。現在の市街地の区画でもその3地域は明瞭に読み取れます。特に、柳河町と城内は約1キロメートル四方の正方形の土地が堀によって取り囲まれ、互いの南西隅と北西隅とが重なり合いながら、対角線を共有する構造が採られていることが分かります。城も対角線上に配置されている念の入れようです。これらの町々が、沖端川を天然の要害として北から西を守られ、平城ながら堅牢な城下町が形成されていました。柳河町には久留米から南下し柳川に通じる「柳河道」も通じており、水運の中心であった沖端町とともに町場として大いに栄えたようです。現在でも柳河町と沖端町の地域は密度の高い市街地となっており、武家地を反映し比較的開放的な土地利用が多い城内地域と好対照を見せています。

北原白秋生家

北原白秋生家
(柳川市沖端町、2008.9.15撮影)
柳川

柳川・掘割の景観
(柳川市沖端町、2008.9.15撮影)
柳川

柳川・水天宮
(柳川市沖端町、2008.9.15撮影)
柳川

柳川・掘割の景観
(柳川市沖端町、2008.9.15撮影)

 御花は、柳河藩三代藩主立花鑑虎(たちばなあきとら)が1783(元文3)年に、「御茶屋」と呼ばれた別荘と池庭を開いたことに始まるといわれています。当時この一角が御花畠と呼ばれていたことから、「御花」の通称で親しまれてきたものであるようです。明治期になって整えられた白亜の洋館は、周囲の穏やかな雰囲気にたいへんよく調和していて、建築当時は城下町から地方都市へと移行していく柳川の町にあって近代化がどのようなものであるかをシンプルに象徴する事物であったのではないかと想像されます。洋館の南には入母屋の屋根が重厚な雰囲気を醸し出す日本家屋があり、国の名勝ともなっている日本庭園「松濤園」があり、みずみずしい緑を池の水面に落としています。280本もの松が掘割から水が引かれた池の周りに配されている庭は、面する日本家屋の風情も相まって、洋館の姿とはまた違った、伝統的な和の美しさを感じさせました。

 柳川はまた、詩人北原白秋のゆかりの地としても知られます。御花からほど近い沖端町にはその生家の一部が保存され、県指定史跡となっています。ゆるやかな水面の掘割に柳が揺れる情景はまさに水郷・柳川のイメージそのもので、多くの人々をひきつける情趣を存分に味わうことのできる景観でした。城下町を縦横に潤す掘割は、防衛的な役割から次第に物流・生活用水の主体として町に欠かせない存在となり、定期的に浚渫された泥は後背地における良質な肥料としての需要もあったようです。高度経済成長期を経た現在はそれらの機能はほぼ失われ、生活環境の悪化の要因として掘割の多くが埋め立てられる計画が持ち上ったといいます。しかしながら、地域の歴史を物語る唯一無二の遺産として存続させ、今日多くの観光客を呼び寄せる財産として再生させた柳川の取り組みは、他の多くの地域に影響を与えました。柳川は、時代の移り変わりに柔軟に対応しつつ、緑と水に満ちた筑後平野の代表的な都邑として、のびやかな表情をみせていました。


筑前の小京都・秋月を歩いて
 水郷の町柳川を後にして、福岡へ向けて進む途上、「筑前の小京都」と呼ばれる秋月に立ち寄りました。穏やかな山並みに抱かれるようにしてある山里は盆地状の容貌を呈する大地に広がって、鈍色の空の下、しっとりとした緑の中に佇んでいました。国道322号沿いの街並みも土蔵や土壁が残っており、昔ながらの風情が漂います。秋月という、どこか懐かしいような雰囲気を感じさせる地名から、多くの人々をひきつけるこの場所は、ノスタルジックな語感の地名さながらの風景がひろがっていました。

 国道とはいえ自動車がやっとすれ違えるほどの小道に面した観光用駐車場に自動車を止め、秋月の町歩きをスタートさせます。秋月を潤す野鳥川(のとりがわ)の小川を越えて、「杉の馬場」と呼ばれる小路を進みます。秋月古来より「秋月荘」と呼ばれていたと推定されるこの地が歴史的に胎動を始めるのは、鎌倉時代初めの1203年、種雄(たねかつ)が将軍源頼家からこの秋月荘を拝領したことに始まります。秋月氏の治世は約400年間続き、江戸時代には黒田長興(ながおき)が秋月5万石の領主となり、秋月に城を築き城下町をつくりました。以降明治を迎えるまで、秋月は城下町として過ごすこととなりました。秋月城跡である秋月中学校を南東端とする約1キロメートル四方の空間に整えられた区画は、この秋月城下町が開かれた際に形成されたものです。

秋月・杉の馬場

秋月・杉の馬場
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)
長屋門

秋月城跡・長屋門
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)
秋月

秋月・田園風景
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)
秋月

秋月・武家屋敷地区
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)

 杉の馬場は城跡に通じており、かつては道路に面して杉の大木があって、馬術の稽古も行われたのでその名があるのだそうです。現在は桜並木の美しい散策路となっており、今も昔も秋月におけるメインルートとなっています。石垣や濠に囲まれた城址は先述のとおり中学校の敷地によって大半が占められています。石段の上に佇む長屋門は秋月城の裏手門として使用されていました。1987(昭和62)年から3年間にわたって修復工事行われ、発掘調査の結果を踏まえ原形に近い北六間、南七間でに復元がなされたのだそうです。秋月城の構成物では唯一現地に残る建築物であるそうで、秋月城の面影を今に伝えています。南には秋月城の表門である黒門があります。黒門は秋月氏古処山城の裏門だったものを移築したものであるようです。

 稲穂が穏やかに首を垂れる水田に彼岸花の赤が重なる田園風景を歩きながら、武家屋敷の集まるエリアを進んできます。久野邸の周辺では土壁や板塀が整然と連なる街並みが実に美しく、庭木や背後の山々の緑のさわやかさもあいまって、のびやかな景観が構成されていました。国道沿いも、土蔵や格子壁の平入りの街並みが穏やかに展開されていまして、古き良き慎ましやかな町並みが続きます。石田家住宅は福岡県指定有形文化財で、建立年代は西の建物は1762(宝暦12)年、東の建物が1793(寛政5)年と掲げられていました。中にはコンクリート製の洋風建築もあって、近代も一定の中心性を擁してきたことがうかがわれました。秋月は1998(平成10)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。


秋月

秋月・モダンな建築
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)
秋月

秋月の街並み
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)
石田家住宅

秋月・石田家住宅
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)
眼鏡橋

秋月眼鏡橋
(朝倉市秋月、2008.9.15撮影)

 秋月訪問の帰路、町の入口の位置に、野鳥川に架かる古い石橋に目が留まりました。秋月眼鏡橋と呼ばれる石橋は1810(文化7)年に架けられたもので、花崗岩で造られたものとしては国内でも珍しいとのことで、こちらも福岡県指定有形文化財の指定を受けています。橋が建設された時代、秋月藩は長崎警備の代番を命じられており、長崎に赴いた藩士の多くが長崎の中島川に架かる石橋を目にし、秋月にも石橋をと思う者が多かったことが架橋につながったとのことです。九州各地に点在するアーチ状の石橋はどの橋も地域の景観に見事に順応して、かけがえのない文化遺産となっていましたが、秋月の眼鏡橋もまた例外ではない風格と、たおやかさとを兼ね備えているように感じられました。




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