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福岡、北九州、そして筑豊へ
〜“合従連衡”のノスタルジア〜

宗像から旧八幡製鉄所へ 〜地域の風光と産業を訪ねる〜

 2017年11月4日も、前日に引き続き快晴に恵まれました。博多駅前のホテルを早朝に出発して地下鉄で天神へ。午前8時前に日銀前バス停を出発する特急バスにて宗像を目指しました。この日は宗像から八幡製鐵所周辺へ向かった後は筑豊地域へと進み、筑豊三都とも呼ばれる直方、飯塚、田川を訪ねるという行程を予定していました。福岡都市圏では中距離バスだけでなく、多くの路線バスが都市高速を通過することで知られます。乗り込んだこのバスも例外ではなく、発車後程なくして高速へ入り、車窓から博多湾岸の箱崎ふ頭の風景を望むことができました。

箱崎ふ頭の風景

箱崎ふ頭の風景
(福岡市東区箱崎ふ頭、2017.11.4撮影)
宗像大社

宗像大社(辺津宮)参道
(宗像市田島、2017.11.4撮影)
宗像大社

宗像大社(辺津宮)・拝殿
(宗像市田島、2017.11.4撮影)
宗像大社・第二宮、第三宮

宗像大社・第二宮と第三宮
(宗像市田島、2017.11.4撮影)
宗像大社

宗像大社境内の杜
(宗像市田島、2017.11.4撮影)
釣川流域の田園風景

釣川流域の田園風景
(宗像市内、2017.11.4撮影)

 宗像大社は、九州本土にある辺津宮、玄界灘と響灘の海域を分ける大島に位置する中津宮、そして神の島と呼ばれる沖ノ島に鎮座する沖津宮の総称です。宗像大社境内地と関連史跡はこの年、ユネスコの世界文化遺産・「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群に登録を受けました。狭義では辺津宮を指して「宗像大社」と呼ばれます。バスはJR鹿児島線の東郷駅を経て釣川沿いの低地を進み、辺津宮前へと到達しました。大陸、そして朝鮮半島へとつながる交易路に沿って境内地が点在する宗像大社は、古来から続く大陸との文化的な交流を象徴するとともに、海上交通・交通安全の神として今日でも深い信仰を集めています。
 
 神門をくぐり境内に入り、重文指定を受ける本殿と拝殿を参詣、背後に祀られる第二宮、第三宮を詣でてから、古来より祭祀が執り行われてきた高宮祭場へと進むのが参拝路となっています。この後の日程をこなすため宗像大社への滞在時間を長く取ることはできませんでしたが、境内で開催されていた菊花展の色とりどりの菊花に心和まされるとともに、古代より承継されてきた交流の歴史の結晶たる境内地の奥ゆかしさに目を奪われました。バスで道の駅むなかたへ移動、徒歩で釣川河口の北斗の水くみ海浜公園へ。さつき松原の穏やかな森と、荒々しい玄界灘の彼方に浮かぶ地島(じのしま)や大島を眺望しました。



北斗の水くみ海浜公園から宗像大島を望む
(宗像市神湊、2017.11.4撮影)
北斗の水くみ海浜公園

北斗の水くみ海浜公園付近の海岸風景
(宗像市神湊、2017.11.4撮影)
スペースワールド駅前

JRスペースワールド駅前の風景
(北九州市八幡東区東田二丁目、2017.11.4撮影)


官営八幡製鉄所旧本事務所を望む
(北九州市八幡東区枝光、2017.11.4撮影)
官営八幡製鉄所旧本事務所眺望スペース

官営八幡製鉄所旧本事務所眺望スペースからの風景
(北九州市八幡東区枝光、2017.11.4撮影)
東田第一高炉史跡と皿倉山

東田第一高炉史跡と皿倉山を望む
(北九州市八幡東区東田二丁目、2017.11.4撮影)

 古の時代から続く歴史的景観を確認した後は、近代化遺産として世界遺産に認定された官営八幡製鐵所旧本事務所を確認するため、JRで最寄りのスペースワールド駅へと向かいます。同事務所の建物は、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つともなっています(2015年登録)。なだらかな丘陵地と田園風景等が交錯する風景から、洞海湾沿いの埋め立て地に製鉄業を中心とした大規模工業地域と、その後背地に発達した住宅地域とが広がる景観となる様子を、JR鹿児島線の車窓から概観しました。筑豊炭田から供給される豊富な石炭資源を背景として建設された官営八幡製鐵所は、日本初の銑鋼製鉄所で、その飛躍的な発展は北九州工業地帯として、後に「四大工業地帯」の一角を担うまでになりました。現在では産業構造の変化により往時の活況からやや落ち着きながらも、以前多くの大規模工場が集積する沿岸は、工業地帯としての迫力を見せています。

 その官営八幡製鉄所旧本事務所(1899(明治32)年完成)は、JRスペースワールド駅からスペースワールド脇(2018年元日に閉園)を歩き、JRと都市高速の下をくぐって到達できる「眺望スペース」から遠望する形で見学することとなります。眺望スペースへと向かうルート上には、この八幡の地に官営製鐵所が建設されることとなった経緯や、完成後の歩み、世界遺産の構成資産となっている各施設の説明などが丁寧に設置されていまして、重厚な赤煉瓦建築である本事務所の佇まいとともに、国家の威信をかけた一大プロジェクトとしての製鐵所の有り様や、その完成と運用に携わった数々の人々の姿などに思いをいたすことができました。

東田第一高炉史跡

東田第一高炉史跡内の風景
(北九州市八幡東区東田二丁目、2017.11.4撮影)


東田第一高炉史跡
(北九州市八幡東区東田二丁目、2017.11.4撮影)
JRスペースワールド駅周辺の再開発エリア

JRスペースワールド駅周辺の再開発エリア
(北九州市八幡東区東田二丁目、2017.11.4撮影)
東田第一高炉史跡を望む

東田第一高炉史跡を望む風景
(北九州市八幡東区東田二丁目、2017.11.4撮影)
JRスペースワールド駅構内

JRスペースワールド駅構内からの眺望
(北九州市八幡東区東田二丁目、2017.11.4撮影)
遠賀川

遠賀川
(中間市垣生、JR筑豊線車窓より、2017.11.4撮影)

 スペースワールド駅周辺の再開発エリアは、製鉄所関連の施設の整理に伴い遊休地となっていた場所です。大規模商業施設や博物館などが建設され、閉園したスペースワールドも大型商業施設へ生まれ変わる見込みのこの地域の一角には、かつてこの場所で操業した製鐵関連施設が史跡として保存され、一般に開放されていました。その「東田第一高炉史跡広場」には、八幡製鐵所で1901(明治34)年に最初に火入れされた溶鉱炉である東田第一高炉が、地区の歴史を記録するモニュメントとして燦然と屹立していました。


筑豊の諸都市、往時の面影 〜産炭地域のノスタルジア〜

 八幡製鐵所周辺の散策を終えた私は、JRスペースワールド駅より北九州市西部の中心地である黒崎駅で列車を乗り換え、筑豊線から篠栗線を経て博多駅へと向かう「福北ゆたか線」系統の電車により、筑豊地方を目指しました。八幡を訪れたあたりから、時折空に灰色の雲が覆って俄雨も一瞬でしたが降って、初冬の日本海岸らしい天候も現れるようになっていました。筑豊地方は、その名のとおり、かつての令制国の「筑前」と「豊前」にまたがった地域という意味で呼ばれるようになった名称です。産炭地域としての等質性から地域としてのまとまりが醸成され、石炭産業が斜陽化した後も福岡県内における部分地域の名称としてそれは息づいています。中間駅を過ぎて、筑豊地域の母なる川である遠賀川を渡って、筑豊地域の主要都市のひとつである直方市へと向かいます。

 
JR直方駅

JR直方駅
(直方市古町、2017.11.4撮影)
多賀神社参道入口

多賀神社参道入口
(直方市殿町、2017.11.4撮影)
多賀神社

多賀神社
(直方市直方、2017.11.4撮影)
直方市街地俯瞰

多賀神社境内から直方市街地を望む
(直方市直方、2017.11.4撮影)
石炭記念館本館

直方市立石炭記念館本館
(直方市直方、2017.11.4撮影)
筑豊線と平成筑豊鉄道伊田線

複線のJR筑豊線(右)と平成筑豊鉄道伊田線(左)
(直方市直方、2017.11.4撮影)

 直方は、遠賀川に彦山川が合流する左岸に市街地が発達していまして、交通上の結節点に町場が成立しやすいという地勢上の要件に合致しているようにも思われます。藩政期には福岡藩黒田家の支藩が置かれるなどされて地域の中心地としての地盤が徐々に確立し、筑豊炭田の興隆とともにその流れは確実なものとなりました。遠賀川と西岸の丘陵地との間の低地に比較的稠密に展開する市街地を、JR直方駅を出発して南へと歩きます。遠賀川西岸の台地上に鎮座する多賀神社へは、丘陵に沿う鉄路の上に架けられた橋上の参道を進みます。直方の総鎮守として崇拝を受ける多賀神社の本殿は、切妻造りに屋根が優美なラインを描く大きな向拝がつけられているのが印象的で、石炭で栄えた町の栄華を感じさせます。高台に位置する境内からは、遠賀川がつくる狭い低地いっぱいに展開する直方の街並みを穏やかに眺望することができました。

 境内裏手の階段を進み、市立石炭記念館への道筋をたどります。石炭記念館本館は、1910(明治43)年に筑豊石炭鉱業組合の直方事務所として建てられたもので、石炭産業にまつわる最も歴史のある建物の一つであるようです。敷地内には蒸気機関車や石炭運搬のための貨車などが静態展示されて、館内の資料とともに、明治の文明開化・殖産興業の趨勢の中、筑豊に鮮烈に花開いた石炭産業の様を体感することができました。境内から市街地へ戻る際に歩道橋で越えた筑豊本線、平成筑豊鉄道伊田線の鉄路はともに複線で、石炭輸送のために増強された4本の線路が伸びる姿も、地域の歴史を燦然と示していました。

直方歳時館

直方歳時館
(直方市新町一丁目、2017.11.4撮影)
向野堅一記念館

向野堅一記念館
(直方市殿町、2017.11.4撮影)
古町商店街

古町商店街
(直方市古町、2017.11.4撮影)


三ケ町(サンプラザ)商店街・玉屋前
(直方市古町、2017.11.4撮影)
JR新飯塚駅東側のマンション群

JR新飯塚駅東側のマンション群
(飯塚市立岩、2017.11.4撮影)
新飯塚駅前

JR新飯塚駅前(西口)
(飯塚市立岩、2017.11.4撮影)

 近代の炭鉱開発に尽力した堀三太郎氏の住宅として1898(明治31)年に建設された直方歳時館を一瞥しながら、旧長崎街道の道筋に発達した古町商店街へと歩を進めました。町家造りの建物やレトロな雰囲気の西洋風の建物が点在する街並みは、昔ながらの外観が続くアーケードの古町商店街へとつながっていきます。直方の市街地が江戸時代の城下町起源であることは先にご紹介しました。福岡藩のローカルな陣屋町であった都邑が、石炭産業による爆発的な成長によって一変した歴史を、商店街に残る多くの西洋建築物は物語っていました。古町商店街に直行する明治町商店街は、直方駅の開設後に駅へ向かう通りとして明治期に作られたことに因みます。戻った直方駅の周辺は整備が進んで、前出の北九州や博多を直結する「福北ゆたか線」の運行が主体となって、北九州市や福岡市への通勤圏へと緩やかに変遷してきた地域構造を反映したものとなっていました。

 直方駅からは、電車で筑豊地方最大の都市である飯塚市の市街地最寄りの新飯塚駅へと進みました。地図を確認しますと、飯塚市街地は遠賀川に穂並川が合流する地点に位置していまして、交通の要路上に町場が成立している点は直方のそれに似ているように感じます。JR線は中心市街地とは遠賀川や穂並川を隔てた右岸を通過していまして、飯塚駅、新飯塚駅とも若干の距離があります。飯塚市も筑豊炭田の成長とともに人口集中が進み、現在でも筑豊地域の中心都市として機能しています。公共施設は新飯塚駅周辺に多いようで、同駅の周辺が飯塚市の拠点的な地域として位置づけられているようでした。新飯塚駅からタクシーを利用し、炭鉱経営者であった伊藤伝右衛門の旧邸へと向かいました。

旧伊藤伝右衛門邸

旧伊藤伝右衛門邸
(飯塚市幸袋、2017.11.4撮影)
旧伊藤伝右衛門邸

旧伊藤伝右衛門邸
(飯塚市幸袋、2017.11.4撮影)
旧長崎街道沿い

旧長崎街道沿いの風景
(飯塚市片島二丁目、2017.11.4撮影)
曩祖八幡宮

曩祖八幡宮と須佐宮
(飯塚市宮町、2017.11.4撮影)
本町商店街

本町商店街
(飯塚市本町、2017.11.4撮影)
本町商店街南端

本町商店街南端、西側を望む(旧長崎街道方向)
(飯塚市飯塚、2017.11.4撮影)

 遠賀川左岸、幸袋地区にその壮大な邸宅は豪奢なたたずまいを見せていました。炭鉱王とも呼ばれた伊藤伝右衛が妻柳原白蓮を迎え入れるため贅を尽くして完成させた邸宅は、国の名勝に指定される優美な庭園の景観もあいまって、最盛期には日本におけるエネルギーの多くを賄った筑豊炭田の趨勢がいかに莫大なものであったかを物語っていました。雄大な邸宅を見学したのちは、旧長崎街道の道筋をたどりながら、飯塚市の中心市街地を目指しました。国道200号から水江交差点付近で国道211号の西側を並行する細い道筋が旧長崎街道筋にあたります。片島一丁目交差点を過ぎたあたりからは徐々に古い建物が住宅地に交じるようになって、宿場町を礎とする町場へと至りました。

 曩祖(のうそ)八幡宮と須佐宮の鳥居が並び立つ界隈を過ぎ、本町入口交差を渡りますと、アーケードが架けられた本町商店街へと連続していきます。商店街はやや斜陽化した様子も拭えないものの、多くの店が立ち並んでいまして、都市の規模よりも繁華な印象を受けました。長崎へ向かう主要街道沿いの宿場町が、炭鉱の影響によりその都市基盤を充実させて大きい街となり、石炭産業の終焉後は福岡・北九州の両大都市圏からの郊外化を受けて一体的な地域となった筑豊エリアの中核都市として生き続けている歴史を存分に垣間見ることができる街並みであるように感じられました。当時の長崎街道は商店街を南へ抜けて、突き当たった先を西へ向かっていきます。その丁字路から東へ伸びる東町のアーケードの下へ行き、県道を渡った先には1931(昭和6)年建築の嘉穂劇場へと到達しました。石炭産業の労働者やその家族の憩いの場所であった同劇場は、今日では地域の歴史を今に伝える資産であるとともに、現在でも現役で公演が行われています。

嘉穂劇場

嘉穂劇場
(飯塚市飯塚、2017.11.4撮影)
新飯塚駅

JR新飯塚駅
(飯塚市立岩、2017.11.4撮影)
平成筑豊鉄道伊田線の車窓風景

平成筑豊鉄道伊田線の車窓風景
(直方市内、2017.11.4撮影)
田川伊田駅

田川伊田駅の構内風景
(田川市伊田、2017.11.4撮影)
田川伊田駅

田川伊田駅
(田川市伊田、2017.11.4撮影)
石炭記念公園

石炭記念公園内の風景
(田川市伊田、2017.11.4撮影)

 タクシーで急いで新飯塚駅へと戻り直方駅へ移動、平成筑豊鉄道伊田線の行橋行きの列車に乗り換え、田川伊田駅を目指しました。平成筑豊鉄道は旧国鉄からJRに承継された3つの路線を第三セクター化した路線です。JRが運行中の路線のほかにも、廃止となった路線も存在しいまして、最盛期には筑豊地域を縦横に鉄道網が運用されていました。到着した田川伊田駅の構内はレールが敷かれていない広大な敷地が確保されていまして、かつてはそうしたスペースにもレールがあって、石炭輸送に供された経緯が推察されました。田川市は伊田地区と後藤寺地区の2つの中心地が統合した町で、両町が合併し田川市となった際、「田川駅」の名をめぐって論争があり、協議の結果両方の駅に「田川」を冠することに落ち着いたという経緯があったようです。駅の南側に整備された石炭記念公園へ、鉄路の下をくぐる通路をくぐり進みます。

 石炭記念公園は、三井田川鉱業所伊田坑の跡地を整備したもので、同所の関連施設の一部(伊田竪坑櫓、伊田竪坑第一・第二煙突)が設置された位置にそのまま保存されて、炭鉱とともに生きた町のランドマークとなっています。周囲より比高のある公園からは、香春岳やその手前にあるボタ山(石炭採掘の際に出た岩屑などの不純物(ボタ)が廃棄されてできた山)を眺望できました。香春岳は3つのピーク(一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と呼ぶ)を持つ石灰岩により構成される山で、一ノ岳は山体の大半が石灰の採掘により消失しています。「日本煙突」と呼ばれる旧三井田川鉱業所伊田竪坑第一・第二煙突は1908(明治41)年に排煙用として建設された煉瓦製の煙突で、地下深部の石炭を採掘するために設置された竪坑櫓(1909(明治42)年完成)とともに、夕刻を迎える田川市の街並みを見据えながら、茜色にその体を染めていました。

田川の町並み

石炭記念公園から田川の町並みを俯瞰
(田川市伊田、2017.11.4撮影)
香春岳一ノ岳とボタ山

香春岳(一ノ岳)とボタ山
(田川市伊田、2017.11.4撮影)
夕刻の田川市街地

夕刻の田川市街地を望む
(田川市伊田、2017.11.4撮影)
伊田竪坑第一・第二煙突

石炭記念公園内・伊田竪坑第一・第二煙突と竪坑櫓
(田川市伊田、2017.11.4撮影)
煙突と夕日の風景

煙突と夕日の風景(石炭記念公園)
(田川市伊田、2017.11.4撮影)
伊田町の町並み

伊田町の町並み
(田川市伊田町、2017.11.4撮影)

 公園内の田川市石炭・歴史博物館を見学後駅前に戻り、駅周辺の市街地景観を一瞥した後、JR日田彦山線の列車で田川後藤寺駅へ、そこで急いで後藤寺線の車両へと乗り移って新飯塚駅に戻り、福北ゆたか線の電車へと乗り継ぎました。宗像大社から八幡、そして筑豊エリアを1日でめぐるという、やや駆け足気味になった今回の彷徨は、この地域が歩んだ多様な歴史と、産業や経済環境の変遷に応じて醸成された、バラエティに満ちた地域の姿の輻輳性を感じさせるものでした。そうした地域の姿を今にとどめる史跡や街並みは、往時の人々の生き様を生々しく伝えていまして、郷愁を誘う風景であるようにも感じられました。乗り込んだ福北ゆたか線の電車は、福岡と北九州の大都市圏を連絡する現代の日常生活圏を端的に象徴するものです。既に薄暗くなった福岡市郊外を進んだ電車は午後7時前に博多駅へと到着しました。この日目に焼き付けた光景は、多くのメルクマールにより捉えられる地域的枠組みが「合従連衡」した結果のノスタルジアであるように感じられたのでした。


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