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南紀の真空色、最南端の空と海

 2019年2月10日、早朝の田辺市街地を歩いた後、本州最南端・潮岬を訪れました。初春の空はとても穏やかな空色を呈していまして、
冬らしい寒さの大地を幾分かあたたかく包み込んでいました。南部梅林にも足を伸ばしています。



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ページ公開:2020年5月27日

早朝の田辺市街地を歩く ~口熊野の中心都市のすがた~

 2019年2月10日、午前7時を回り、前日JR大宮駅前を出発した高速バスは、和歌山を経由しながらJR紀伊田辺駅前に到着しました。前夜のさいたまは夕刻より雪模様となっていて、厳寒の中出発したのですが、日付が変わった南紀の空は、雲一つ無い晴天の下にありました。日が昇って間もない市街地はまだ薄暗くて、黒潮の洗う南の当地でも空気はひんやりとしていました。駅舎のリニューアルが進む同駅舎の周囲は和歌山県南部の中心地らしく、ホテルや商店や飲食店などが集まっていました。東南の空に明るい太陽が昇り始める中、駅前で調達を予定していたレンタカーの営業所が開くまでの間、田辺の町並みを歩いてみることとしました。

紀伊田辺駅前

JR紀伊田辺駅前
(田辺市湊、2019.2.10撮影)
駅前通りの風景

紀伊田辺駅前通りの風景
(田辺市湊、2019.2.10撮影)
アオイ通り

アオイ通り
(田辺市湊、2019.2.10撮影)
宮路通り

宮路通りの風景
(田辺市下屋敷町、2019.2.10撮影)

 田辺は、和歌山県南部における中心都市であることは既にご紹介しました。京阪神を中心とした大都市圏が稠密な大都市圏を形成する近畿地方にあって、それらの地域から隔絶性のある紀伊半島南部は相対的に人口が希薄な地域となります。和歌山県の範域から見ても、人口は北部の和歌山市周辺に一極集中している現状があります。近年は紀勢自動車道が南進し京阪神圏へのアクセス性も飛躍的に向上していますが、そうした大都市圏から離れた地域の場合、地域内の中心都市が比較的中心性の高い商圏を維持する傾向があるように思います。駅前の商店街を進み、湊交差点を越えて「アオイ通り商店街」へ。アオイ通り商店街はやや道幅が広くなって業務系の建物も多くなっています。アオイ交差点から東へ入りますと、宮路通りとなります。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に2016年に追加登録された闘鶏(とうけい、鬪雞神社とも。)神社への参道をなす通りです。早朝の通りは人通りはほとんど無く、通りの向こうに朝日が輝く様子がとても神々しく目に映ります。

 田辺は古来より、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)の参詣道である熊野古道の、大辺路(おおへち)と中辺路(なかへち)の分岐点としての役割も持つ町場でした。熊野三山へ入口にあたることから、田辺市を中心とした地域は「口熊野」とも呼称されます。闘鶏神社は熊野三山を勧請していることから熊野三山の別宮としての顔もあり、当社の参拝により熊野権現の三山参詣に替えるという信仰も行われてきました。闘鶏という、神社の名前としてはやや奇異な雰囲気の社名は、壇ノ浦の戦いにおいて源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説に基づきます。熊野水軍の援軍を要請された熊野別当湛増(たんぞう)が、源氏と平家どちらにつくか、その神託を受けるため本殿の前で紅白7羽の鶏を闘わせたとされます。湛増は武蔵坊弁慶の父親と言われているため、弁慶にゆかりのある神社としても知られます。背後の小丘は「仮庵山(かりおやま)」と呼ばれ、古代から祭祀が行われる場所でした。貴重な自然林が残る山の木を伐採しようとする動きに、当地に居住した博物学者・南方熊楠が反対したというエピソードが境内の表示によって紹介されていました。早朝の清浄な空気の下、みずみずしい仮庵山の森に包まれるようにしてある社殿群(西殿、本殿、上殿、中殿、下殿、八百萬殿が横一列に並ぶ)は荘厳な佇まいを見せていまして、都から遠く離れたこの地に憧憬の念を持って訪れたであろう、多くの人々の敬虔さが滲み出るような霊妙を感じさせました。

闘鶏神社

闘鶏神社・鳥居
(田辺市東陽、2019.2.10撮影)
闘鶏神社の社殿

闘鶏神社の社殿
(田辺市東陽、2019.2.10撮影)
南方熊楠旧居

南方熊楠旧居
(田辺市中屋敷町、2019.2.10撮影)
熊野古道の道標

熊野古道の道標
(田辺市北新町、2019.2.10撮影)

 闘鶏神社からは宮路通りを戻り、アオイ通りを越えて中屋敷町方面へと市街地を進みました。周辺には下屋敷町や上屋敷といった地名もあり、これらの地区が藩政期における武家地であることを示唆しています。田辺は広大な藩領を持った紀州藩の一拠点としての位置づけであったため、城郭はあったものの、一国一城令を受けて陣屋の所在地とされました。先に言及した南方熊楠の旧居のある一帯から、かつての城跡である上屋敷までは比較的整然とした区割りとなっていまして、ここが城趾または上級武士の邸宅地であったことを窺わせます。北新町には大辺路と中辺路との分岐点を示す道標が残されていまして、往時を伝えていました。


本州最南端・潮岬へ ~大地の脈動と大海原を体感する風景~

 田辺からはレンタカーを借りて、一路南へ、潮岬を目指しました。会津川がつくる平地の縁に発達した丘陵を上る国道42号を進んだ後は紀勢道の上富田入口から同道に入り、すさみ南インターチェンジまで、内陸の山間を貫通する道路を進みました。紀伊半島は海岸部まで切り立った山並みが迫る地形が連続しており、陸上交通路としては難所であるといえます。紀勢道はすさみ南インターチェンジ以東、三重県へと続く部分は未完成の箇所があるほか、紀伊半島沿岸を連絡する鉄道路線であるJR紀勢本線もその全通は1959(昭和34)年のことであり、紀伊半島沿岸部が地形的にいかに隘路となっているかを示しています。

潮岬方向を望む

潮岬方向を望む
(串本町潮岬、2019.2.10撮影)
照葉樹の下を進む

照葉樹の下を進む
(串本町潮岬、2019.2.10撮影)
潮岬灯台

潮岬灯台
(串本町潮岬、2019.2.10撮影)
潮岬灯台から北を望む

潮岬灯台から北を望む
(串本町潮岬、2019.2.10撮影)

 すさみ町から串本町までは、美しい海岸風景を一瞥しながら国道42号を東方向へと車を走らせます。やがて国道は串本の町並みの中へと至り、潮岬方面へと向かう県道へと針路を採りました。串本町の中心部が形成されているのは、かつては島だった潮岬と本州との間に発達した砂州です。潮岬は砂州によって繋がれた半島(陸繋島)の南西部に位置しています。まずは島の南西、潮岬灯台のある一角で車を降りました。潮岬の沿岸部もほぼ例外なく切り立った岩礁、岩壁となっていまして、紀伊半島を含む広大なエリアが急激な隆起を続けていることを実感させます。南岸らしい、照葉樹の木々が生い茂る小道を進んだ先に、白亜の潮岬灯台が屹立していました。幕末の1866(慶応2)年、江戸幕府が対外的に建設を決めた灯台の一つで、1873(明治6)年より太平洋を照らしています。付近には潮御崎神社や、捕鯨の歴史を持つ当地らしい「鯨山見」と呼ばれる、鯨の群れを見張る場所などもあって、穏やかな植生に包まれています。入場できる灯台である潮岬灯台からは、360度のパノラマが広がります。岩礁が点在する海面は明るい日射しを受けて明るい紺色にきらめていまして、初春の穏やかな気候そのままの表情を見せていました。

 灯台のある場所から東には、潮岬観光タワーがあって、このタワーの目の前にある「クレ崎」が本州最南端の地点となります。タワーのある付近は海岸段丘上の平坦面となっていて、一面の芝生がしなやかな佇まいを見せています。その芝生を越えてクレ崎に近づきますと、やはり滴るような葉をいっぱいにつけた照葉樹の向こうに、岩礁が水面に多く顔を出した風景を間近にすることができました。地形図を見ますと、岩礁は決まった方角(北西から南東方向)に並行している様子が見て取れます。背景にはプレート運動の影響や、季節風の影響などが考えられそうで、隆起、浸食、堆積と、大地と海流とが織りなすドラスティックな活動の果てに完成した地形のいまを実感できました。目の前の太平洋はどこまでも茫洋で、雲がまったくない空の上できらめく太陽の光を受けて、極上の光の帯を投射させていました。

潮御崎神社

潮御崎神社
(串本町潮岬、2019.2.10撮影)
鯨山見

鯨山見の風景
(串本町潮岬、2019.2.10撮影)
潮岬と太平洋

潮岬と太平洋
(串本町潮岬、2019.2.10撮影)
本州最南端の風景

本州最南端の風景
(串本町潮岬、2019.2.10撮影)
 
 訪れる人々を深閑の境地へと導き、感嘆させる幽境の地である熊野はいつしか信仰の大地となり、熊野三山を巡礼する憧憬の地となりました。そうした地の果つる場所の先に限りなく広がっていく大海原は、それを目にした参詣者にとって、さならる希望の土地へと続く光景として映りました。そうした辺境における聖地としての気分は、現代においても濃厚に大地に漂っていて、この土地を踏みしめる旅行者に熱い旅愁を与え続けているようでした。


南部梅林、初春のかがやき ~日本一の梅の生産地における風光~

 紀伊半島南部、いわゆる熊野へと至る山並みは、急峻な山地が海に迫って、複雑で多様な景観を多くつくりだしています。潮岬から紀勢道を戻り、田辺に隣接するまちが南部(みなべ)です。行政的には南部町と南部川村の合併により「みなべ町」の表記となっています。町域を流下する南部川がつくる平野は比較的広大な平坦面を構成しており、背後の丘陵性の場所の雰囲気も相まって、南部の大地は前述した紀伊半島における一般的な地形的な特徴から比べると心なしか柔和な印象を受けます。なお、みなべ町は日高郡に属し、熊野エリアに相当する(東・西・南・北)牟婁郡とは区画を異にします。郡域の相違は、あるいはそうした地理的な背景が影響しているのかもしれません。

南部梅林近くの集落景観

南部梅林近くの集落景観
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
みかへり坂

みかへり坂
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
みかへり坂上からの眺望

みかへり坂上から望む風景
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
小殿神社の社叢

小殿神社の社叢
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
香雲丘展望台で見た紅梅

香雲丘展望台で見た紅梅
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
香雲丘展望台で見た白梅

香雲丘展望台で見た白梅
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)

 言うまでも無く、南部は日本一の梅の生産地である和歌山県内にあって、最大の産地の一つです。南高梅は高級品として広く珍重されています。南部川左岸側にある晩稲(おしね)地区の丘陵一帯に広がる南部梅林は、およそ8万本もの梅が栽培される、日本最大級の梅林です。観梅の季節を迎え、梅林周辺の駐車場は既に多くの車で埋まっていて、梅林への入口である「みかへり坂」からはやや離れた場所に車を止めて、梅林へと歩を進めました。南部梅林は2007年以来の再訪です。みかへり坂は元来「鼻崎の道」と呼ばれる生活道路でしたが、傾斜がきつかったため、地域の有力者らにより拡幅され、より緩やかな道路となったという来歴があります。道の完成記念式典に招待されていた紀州徳川家第十五代当主で貴族院議員であった徳川頼倫が梅園の風景を絶賛し、「みかへり坂」の文字を揮毫しました。その直筆の石碑が散策路の入口にひっそりと建てられていまして、訪れる人を迎えています。

 南部梅林は純粋に梅を栽培している果樹園であり、観梅のための梅林ではありません。梅の開花時期に散策路として供される小路も、本来は農業用の道路で、丘陵を埋め尽くすように植えられた梅の木の間には運搬用のモノレールが張り巡らされていたり、梅の実を採集するための青いネットがたくさん設置されていたりしていまして、ここがまさに日本一の梅が作付けされる現場であることを実感します。香雲台展望台周辺は観賞用の紅梅や枝垂れ梅なども植えられて彩りを添えていましたが、やはり南部梅林の主役は、丘陵と谷間とを埋めるように栽培されている梅のありのままの白梅です。現地では梅林を周遊できるコースが用意されていまして、その中の4キロメートルほどのコースを辿りました。南部梅林では、一部に薪炭のための雑木林を残しながら、山の斜面に梅林を配置し、水源涵養や崩落防止の機能も併せ持たせるという栽培システムを確立し、維持してきました。コースをめぐりながら、たおやかな丘陵と谷間にいっぱいに広がる梅林と里山の風景を探勝しました。南西の方向には南部の中心市街地の町並みの向こうに海原を望み、そして振り替えますと紀伊半島の主部を構成する悠然たる山並みが広がります。


南部梅林の風景

南部梅林の風景
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
運搬用施設の見える風景

運搬用施設の見える風景
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
太平洋と南部の中心市街地を望む

太平洋と南部の中心市街地を望む
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
丘陵の尾根を進む農業用道路

丘陵の尾根を進む農業用道路
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
梅林と晩稲集落

梅林と晩稲集落
(みなべ町晩稲、2019.2.10撮影)
白良浜

白良浜の風景
(白浜町、2019.2.10撮影)
 
 栽培される梅はまだ春浅い時期であったこともあり、開花は日当たりのよい局所的な場所にとどまっていましたが、空は雲一つ無い、どこまでも清涼な空色に依然として彩られていまして、大地の早春の景色と豊かに呼応していました。散策路は谷筋に寄り添うような集落へと下りて、梅のふくよかな風合いそのままの、長閑な家並みが連続していました。南部梅林での散策を終えた後は、田辺市街地を経由する大阪行きのバスまでの時間を利用し、白浜の白良浜を訪ねました。
その名のとおり白い砂浜に打ち寄せるマリンブルーの小波は春のしなやかなかがやきをその波頭にいっぱいに溶け込ませていまして、爽やかな潮騒が耳に心地よく響いていました。



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