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新潟・天地豊穣

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#5 長岡市街地を歩く 〜中越地方の中心都市〜

 新潟平野の広大な大地を潤す信濃川は、上越国境に端を発する魚野川などの水を集めてしばらく小盆地を縫うように進んだ後、長岡に至っていよいよ茫漠たる大平野へとその流れを進めていきます。その信濃川右岸に隣接する長岡市役所に車を止め、市街地に向かって北に歩みますと、程なくして信濃川に架かる橋の東詰へ至ります。早朝の市街地は人影もまばらで、部活動に向かう中学生と思われる自転車の一団や、早朝の散歩などを楽しむ人々に時折すれ違いながら、朝の穏やかな町並みに向かい合うように佇むその橋は、経年的な変化の跡を感じさせながらも、どこか流麗でのびやかな印象です。その名を長生橋といいます。

 長生橋(ちょうせいばし)は、新潟県内で信濃川に架けられた最初の橋で(1876(明治9)年架橋)、信濃川に架かる橋としてやはり著名な新潟市街地の万代橋よりも10年早く完成しました。現在よりも川幅の大きかった信濃川は渡河には渡し船によるほかなく、洪水等の天候の状況により安定的な運航のできなかった渡船に代わる通行手段として切望された橋は、木製の初代、二代目(1915(大正4)年竣工)を経て、現在の三代目(下路式ゲルバー鋼ワーレントラス橋、1937(昭和12)年完成)と形を変えながら、信濃川の両岸を結ぶ主要交通路として大きな役割を果たし続けてきました。8月2日と3日に開催される長岡大花火大会では、「ナイアガラ」と呼ばれる仕掛け花火が輝くことでも有名なこの橋は、その結節性ととともに、まさに長岡市のシンボルとして位置づけられているようです。長生橋上から眺める信濃川の流れは「悠然」そのもので、大地を潤し、時に洗い流す、畏敬と恩恵とを人々に抱かせ、もたらす存在としてあまりある偉大さを感じさせました。

信濃川

信濃川(大手大橋東詰付近、長生橋を望む)
(長岡市信濃二丁目、2008.4.20撮影)
表町

表町交差点付近、雁木構造
(長岡市表町一丁目、2008.4.20撮影)
大手通り

大手通りの景観
(長岡市大手通二丁目、2008.4.20撮影)
厚生会館

旧厚生会館(現在は解体)
(長岡市大手通一丁目、2008.4.20撮影)

 さらにゆったりとした信濃川の堤防を歩き、JR長岡駅の大手口(西口)へとまっすぐ接続する大手大橋のたもとへと向かいます。長らく長生橋しかなかった信濃川の東西交通路の増強を目的に1985(昭和60)年に完成しています。市街地中心部へ接続する道路としてしばしば渋滞が発生してきた大通りは、四車線化や道路構造の改善(旧城下町の道路構造を反映して駅前からの道路(大手通り)と橋からの道路(大手大橋通り)とがクランク状に接続していた表町交差点を直線状に接続するように改良)により、現代的な幹線道路としての整備が進められてきました。付近の町名は「日赤町」を名乗ります。これは現在大型スーパーのある場所にかつて長岡日赤病院があったことにちなみます(現在は信濃川対岸の千秋が原に移転)。

 表町交差点からは、歩道にアーケードが設けられて、いよいよ長岡の中心市街地の只中へと町並みが変化していきます。表町交差点は前述のとおり、信濃川川西へ向かう新旧のメインストリート(旧:長生橋方面、新:大手大橋方面)の結節点であるとともに、中心市街地と郊外エリアとの分岐点的な要素も持っているように感じられ、長岡市街地の今後を考える際、重要なポイントの一つとなってきそうな界隈です。東側は駅に向かって近代的なアーケードが整備されている一方で、交差点付近には商店の軒先に屋根を歩道側に延長した、いわゆる「雁木」と呼ばれる雪国では伝統的な歩道の設備の雰囲気を残す町並みも残っていまして、そうした歴史的なエッセンスもこのエリアの特色であるように感じられます。こうした郊外対中心市街地という構図を持ち出すのも、やはり長岡市街地にあってもこのことが「中心市街地活性化」のメルクマールの中で、重要な課題のひとつとなっているようであるためです。

JR長岡駅

JR長岡駅と花火のモニュメント
(長岡市大手通一丁目、2008.4.20撮影)
長岡駅前

JR長岡駅前
(長岡市大手通一丁目、2008.4.20撮影)
郷土史料館

郷土史料館(悠久山公園内)
(長岡市御山町、2008.4.20撮影)
悠久山公園からの眺望

悠久山公園からの眺望
(長岡市御山町、2008.4.20撮影)

 アーケードの歩道を進み、新幹線停車駅として燦然とした駅ビルを持つ長岡駅へ至る行程は、長岡市街地の今を如実に印象づけます。かつて長崎屋や丸専、ダイエー(東口)などの大型店舗がひしめいていたという大手通りも、それらが経営不振のために閉店したことにも表れているように、景観的には中規模の地方中心都市としては有り余るような密度で商業ビルや店舗などが立ち並んではいるものの、看板に文字がない店舗も散見されます(長年店舗を構えていた長岡大和も、2010年4月に閉店)。早朝午前7時から8時の訪問であったことを差し引いても、目の前に展開する高密な商店街や、多くの金融機関が集積する駅前の様子に比して、活気の面でどこか物足りない雰囲気を拭い去ることはできませんでした。

 郊外エリアにおける大規模なショッピングモールやロードサイド型の店舗の成長や、1982(昭和57)年の上越新幹線開業による好況とその反動、モータリゼーションによる郊外中心のライフスタイルの確立や交通渋滞の慢性化、新潟市や東京方面との都市間競争やストロー効果の影響など、さまざまな要素が想像されます。城下町時代から受け継いだ都市基盤に、中越地方の中心地としての優位性から、都市として一定の中心性を維持してきた長岡市の中心市街地は、バブル経済とも重なった新幹線開業に呼応するように一時多大型店の集積をみたものの、その後の郊外型の大型ショッピングモール等との競争のあおりを受けてそれらのほとんどが撤退し、相対的な地盤沈下が進み現在に至る、という変遷のなかにあるといそうです。

悠久山公園

悠久山公園・桜
(長岡市御山町、2008.4.20撮影)
悠久山公園

悠久山公園の景観
(長岡市御山町、2008.4.20撮影)

 長岡花火をモチーフにしたモニュメントが設置される長岡駅前は、小規模ながら緑も配されていて、多くの建造物によって囲まれながらも落ち着いた周辺景観が整えられています。駅が立地している場所はかつての長岡城のまさに本丸が位置していた場所で、付近の厚生会館(体育施設)が立地する一帯は二の丸跡を継承しています。現在は完全に駅前の中心商業地域として市街化し、城下町当時の面影はまったくと言っていいほど存在せず、わずかにここが城跡であったことを物語る石碑等によってその史実を知ることができるのみとなっています。1958(昭和33)年に、厚生年金還元融資制度を適用して完成した体育施設の第一号として完成し、以来長岡市におけるスポーツ・文化の拠点として利用されてきた厚生会館は、2009年1月に業務を終了し、2010年現在はほぼ解体を終えています。跡地は長岡市が中心市街地再生への一大プロジェクトとして2011年度中の完成を目指している新市役所庁舎とシティホール、屋根付き広場とが一体となった新公共施設の立地場所となります。厚生会館前付近を一瞥し、穏やかな市街地の散策を続けながら、新市役所完成後は公民館機能を強化して引き続き活用される予定という現市役所へと戻りました。

 中心市街地から東へ、多くの市民に親しまれているという悠久山公園へと足をのばしました。公園を覆う桜は満開を過ぎて、やわらかな桜吹雪をあたりに振りまいてました。歴代の長岡藩主の手によって植林などが実施され、1919(大正8)年に、現代的なうるおいのある公園として再整備が進んだ公園は、多くの市民に親しまれる、憩いの場になっているようでした。先にご紹介したとおり長岡城は現在のJR長岡駅の場所にあり現存しないものの、悠久山公園には城郭を模した郷土史料館が高台に建てられています。晩春の桜の花弁舞う公園は、信濃川に育れた城下町の歴史をのびやかに表現しながら、中越地域の中心都市として挑戦を続ける長岡の町に寄り添っていました。


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