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新潟・天地豊穣

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#8 新発田、城下町を行く 〜美しい城に象徴される町〜

 2010年5月22日、新潟県北部の村上を訪れていた私は、国道7号を南下し村上と同様、藩政期の城下町を基礎都市成長した町・新発田(しばた)を訪れました。米どころ新潟は田植えが終わった水田が一面に広がって、初夏の日差しを返していました。山城の村上とは対照的に、新発田城は平地に建設された、いわゆる平城です。

水田

越後平野北端の水田景観
(村上市宿田付近、2010.5.22撮影)
新発田城跡・三階櫓

新発田城跡・三階櫓
(新発田市大手町六丁目、2010.5.22撮影)
新発田城跡・旧二の丸隅櫓

新発田城跡・旧二の丸隅櫓
(新発田市大手町六丁目、2010.5.22撮影)
新発田城跡・表門と巽櫓

新発田城跡・表門(左)と巽櫓(右)
(新発田市庄内町、2010.5.22撮影)

 新発田城跡に残るお堀の南にある城址公園に車を止め散策をスタートさせました。お堀越しに見える三階櫓(復元)は、櫓というの名ですが実質的に天守の役割を果たした建造物です。なまこ壁の城郭は北国独特の意匠であるようです。表門と旧二の丸隅櫓(本丸鉄砲櫓の在った場所に移設)は国の重要文化財、表門の東にある巽櫓は復元されたものです。松並木に囲まれたかつての城郭は、明治維新後多くが棄却されて一部にその姿を留めるにすぎませんが、町のシンボルとして初夏の青空に美しい佇まいを見せていました。
 
 城跡をいったん後にして、市街地へ向かいます。当地出身の挿絵画家蕗谷虹児の記念館や市役所、裁判所のあるあたりまでがかつての城の三の丸で、城内の位置にあたります。本丸と二の丸、三の丸を画していた堀はほとんどが埋めらてられ現存しません。堀がある頃の新発田城下は、小ぢんまりとしながらも、水の都と称するような美観を備えていたのでしょうか。県道21号を南へ進みますと、洋館風の建物が目にとまりました。シルバー人材センターとして使用されるその建物は、かつては陸軍関係で使用されたもののようでした。新発田は明治期以降、新発田城址に陸軍が所在する軍都としての一面もありました。旧陸軍の敷地は現在も陸上自衛隊の駐屯地となっています。行き着いた石川小路交差点付近から中央町交差点を経て本町交差点にかけてが新発田の中心商店街で、アーケード(雁木)が連なる風景が規模の大きさを物語ります。中央町交差点付近はかつて上町と呼ばれたようで、丁字路の突き当たりに大高札が建ったことから札の辻とも称されました。中央町交差点周辺には現在でも金融機関が集積し、ここが新発田の町の中心であることが実感されます。

石川小路

石川小路交差点から西方向
(新発田市大手町一丁目、2010.5.22撮影)
中央町交差点

中央町交差点から西方向
(新発田市中央町三丁目、2010.5.22撮影)
札の辻跡

新発田藩札の辻跡の碑
(新発田市中央町三丁目、2010.5.22撮影)
中央町交差点

中央町交差点から東方向
(新発田市中央町三丁目、2010.5.22撮影)

 中央町交差点を南へ折れ、しばらく進みますと左手(東側)に水路を伴った風情ある一角が目にとまりました。現在中央町二丁目から東の諏訪町二丁目にかけては寺院が集積しており、寺町と呼ばれました。旧城下町では防衛のために寺院が一か所に集められることがよく行われました。水路には清冽な水が流れ、アヤメの花が咲いて情趣を醸していました。菖蒲城(あやめじょう)は新発田城の別称でもあります。

 大栄町交差点から続く商店街も雁木を備えていました。カエデの青葉が目に鮮やかな水路に沿って進みますと、国指定名勝である旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園(清水園)へと導かれます。中央に草書体の「水」の字を象ったと言われる大池を配する回遊式庭園は多くの木々に囲まれてみずみずしさに富んでおり、清水谷御殿と呼ばれた書院とともに大名庭園の様式を今に残しています。敷地内にはかつて三の丸にあった武家屋敷(旧石黒家住宅)が移設されてます。また、庭園に隣接して、下級武士の住宅であった足軽長屋(国の重要文化財)も一棟が現存しています。

寺町

寺町・あやめが咲く風景
(新発田市中央町二丁目付近、2010.5.22撮影)
足軽屋敷

清水園近くの水路と足軽屋敷
(新発田市諏訪町三丁目、2010.5.22撮影)
清水園

旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園(清水園)
(新発田市大栄町七丁目、2010.5.22撮影)
新発田駅

JR新発田駅
(新発田市諏訪町一丁目、2010.5.22撮影)

 清水園から再び大栄町交差点から東へ続く通りに出て、諏訪神社を拝観しながら進んで、大正時代に市民が町へ寄付したという東公園を一瞥しながらJR新発田駅方面へと歩きます。雁木が続き、比較的高密度に建物が並ぶ中心市街地と比較すると建物はやや少ない印象です。かつて操業していた工場の跡地に、市中心部にあって老朽化していた県立新発田病院を新築移設して、併せて道路網の再整備と密集していた建物等の撤去を行う区画整理が施工された結果のようです。とはいえ、かつて大手スーパーの店舗などが立地した区画を中心に空閑地も多い印象で、工場跡地に屹立する新病院の建物と好対照を呈していました。

 四つの角にアーチ状の飾りを持つ本町交差点に戻り、再び雁木のある商店街の中を歩きながら、国道290号の北側、中央町一丁目に南の同二丁目から続く寺町の延長上に連接する寺院の門前を北へ進みながら、市街地の中に寺院が集約される城下町の情趣を味わいました。カトリック新発田教会の優美な姿を確認しつつ市役所の前を辿り、新発田病院の移転前の跡地前を通過して新発田城址公園へと戻りました。園内には当地の出で、赤穂浪士四十七士のひとりとして知られる堀部武庸(安兵衛)の像が建てられいました。

新発田病院

県立新発田病院
(新発田市本町一丁目、2010.5.22撮影)
本町交差点

本町交差点の景観
(新発田市本町二丁目、2010.5.22撮影)
寺町

寺院と住宅地の景観
(新発田市中央町一丁目、2010.5.22撮影)
カトリック新発田教会

カトリック新発田教会
(新発田市中央町一丁目、2010.5.22撮影)

 城下町としてのしなやかな町並みと田園地帯の中心都市としての穏やかな緑とに程よく彩られる新発田の町は、雪国に特徴的な雁木の商店街の景観の相まって、豊かな伝統と文化か息づいているように思われました。この日歩いた村上の町でも感じましたが、高度経済成長を経て低成長時代を迎えて久しい現代にあってもなお、近世以降の歴史的資産は随所に残されていて、この国の美意識の根底を支えているのだと心から思える新発田の町の散策となったと思います。

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