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大阪ストーリーズ


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#19 貝塚市を歩く 〜寺内町と水間観音を訪れる〜

 2011年12月4日、岸和田市街地を散策した後、紀州街道筋を南へ進み、南接する貝塚市域へと入りました。市境を越えて程なく到達する津田川に架かる岸見橋のたもとには、古い親柱が残されていました。川を渡った先には、1871(明治4)年に建てられたという「捕鳥部万(ととりべのよろず)の道標」があって、ここが歴史のある街道であることを伝えていました。

岸見橋

岸見橋の古い親柱
(貝塚市津田北町、2011.12.4撮影)
津田川

津田川(岸見橋より上流を望む)
(貝塚市津田北町/津田南町、2011.12.4撮影)
紀州街道筋の景観

紀州街道筋の景観
(貝塚市津田南町付近、2011.12.4撮影)
貝塚寺内町めぐりみち

貝塚寺内町めぐりみちの景観(堀之町通)
(貝塚市北町、2011.12.4撮影)
利齋坂

利齋坂の景観
(貝塚市北町、2011.12.4撮影)
尊光寺・カイヅカイブキ

尊光寺・カイヅカイブキの老樹
(貝塚市中、2011.12.4撮影)

 所々に土蔵造りの家屋がある奥ゆかしい町並みが続く街道は、やがて拡幅された幹線道路(大阪府道204号堺阪南線・旧国道26号)に合流しました。堀新交差点から貝塚駅下り交差点付近までは街道筋と府道とが重なっているようで、現代的な幹線道路に昔ながらの町屋が面している箇所も見受けられました。府道沿いをさらに進みますと、北小学校方面に入る道路が一部石畳が施された上に舗装の色が変えられていて、一隅に「貝塚寺内町めぐりみち」と刻まれたレリーフが埋め込まれていました。この意匠を発見し、貝塚の町が室町時代中期に取り立てられた寺内町に由来することを知りました。ここからはこの寺内町めぐりみちを辿り、寺内町の雰囲気を感じることにしました。

 貝塚寺内町は1545(天文14)年、庵寺(現在の願泉寺)に根来寺(和歌山県岩出市にある寺)から僧右京坊が迎えられ、僧は卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)と名乗り、寺内町の建設を始めたことを端緒としています。地内町は後に一向宗の拠点となり信長の焼き討ちに遭うも、秀吉・家康とは緊密な関係を保って、江戸時代を通じ卜半家の寺内領として泉州の中心都市の一つとして存立しました。堀之町通の石柱が建てられた路地を進みますと、北小学校裏辺りで道は上り坂になっており、格子や板壁、虫籠窓のある平入の町屋が往時のおかげを伝えて、趣のある景観を形成していました。その坂は「利齋坂(りさいざか)」と呼ばれ、坂に面する町屋「利齋家住宅」に因むもののようでした。北小学校の北でこの坂に交差する道筋は「御下筋(おしたすじ)」。藩政期に貝塚寺内町の藩庁(通称卜半役所)が置かれた現在の北小学校敷地を含め、願泉寺境内のある坂上の下を通る道筋であったためその名が付けられたようです。さらに「めぐりみち」を辿り、最初の角を右へ進みますと、カイヅカイブキの老樹が樹冠を広げる尊光寺の向かいに、「貝塚御坊」願泉寺の広大な寺域がありました。築地塀に囲まれた壮大な堂宇は、1719(享保4)年建立の太鼓堂が楼閣のように屹立して、威風を感じさせました。1663(寛文3)年再建の本堂は入母屋造、本瓦葺の堂々たる建物で、正面に目隠壁があるのが特徴です。1679(延宝7)年建立の表門と共に重要文化財の指定を受けています。

願泉寺門前の景観

願泉寺門前の景観
(貝塚市中、2011.12.4撮影)
願泉寺・太鼓堂

願泉寺・太鼓堂
(貝塚市中、2011.12.4撮影)
願泉寺・表門

願泉寺・表門
(貝塚市中、2011.12.4撮影)
願泉寺

願泉寺
(貝塚市中、2011.12.4撮影)
感田神社

感田神社
(貝塚市中、2011.12.4撮影)
貝塚駅前

貝塚駅前の景観(西口)
(貝塚市海塚、2011.12.4撮影)

 願泉寺南の「中の町通り」を南へ進み、貝塚寺内町の氏神社である感田神社(かんだじんじゃ)を見ながら、貝塚駅方向へ。駅前は旧寺内町の南のはずれにあたり、駅前には「従是東西海塚(貝塚の旧表記)領」と刻まれた石碑が残されていました。駅前は中小の商業ビルや商店が集積する街並みで、寺内町の昔ながらの風景と軽やかに連接しているように感じられました。貝塚駅からは、水間鉄道水間線が分岐しています。水間観音の通称で親しまれる龍谷山水間寺(りゅうこくさん・みずまでら)への参詣鉄道として1926(大正15)年1月に全通したローカル線で、沿線における通勤・通学路線としても機能している鉄道です。郊外の市街化された田園の中を約15分の所要で、終点の水間観音駅へ至りました。駅前から直線的に続く市道を進みますと、10分ほどで境内への入口である厄除橋に到着します。近木川(こぎがわ)に架かるこの橋は、両側に石塔が建ち、午後2時を回り丁度境内の方向に太陽が輝いていて、神々しさを感じさせました。

 水間寺はその名のとおり、近木川にその支流である秬谷川(きびたにがわ)が合流する「水間」に鎮座しています。天台宗別格本山で、開山は744(天平16)年、行基によるとされています。聖武天皇の勅命により行基が天皇の夢に現れたという観音菩薩を求めこの地を訪れたところ、十六人の童子が出現し、谷間に導かれた先に白髪の老人がおり、行基に観音像を託し、自身は竜になって昇天したとする寺伝が伝わっています。手に一体の仏様を捧げ、「汝を待つこと久し」と言って、自分の手首を自ら噛み切って、その尊像を行基菩薩に手渡し、そうして自分は龍となって昇天したと由来記に記されています。周囲を山々によって穏やかに囲まれた境内には本堂や三重塔などの堂宇が厳かに甍を並べており、地域の篤い信仰を集めながら時を刻んだ寺院の風格が漂っていました。本堂の裏手には、由来にもある観音像が降臨したとされる渓流が浄域として守られていました。

水間観音駅

水間観音駅
(貝塚市水間、2011.12.4撮影)
厄除橋

水間寺・厄除橋
(貝塚市水間、2011.12.4撮影)
水間寺

水間寺
(貝塚市水間、2011.12.4撮影)
水間寺近くの集落景観

水間寺近くの集落景観
(貝塚市水間、2011.12.4撮影)

 水間寺からの帰路は、行きに通った市道に並行する集落の中を行くルートを歩いてみました。こちらの方が旧来からあった道筋のようで、道路の端には小さな水路があって、旧家や土蔵などの古い家並が連続している風景は、畿内における伝統的な集落景観を今に伝えているように感じられて、とても快い気持ちになりました。水間線で再び貝塚駅に戻り、南海線を西へ、泉佐野を目指しました。

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