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大阪ストーリーズ


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#2 御堂筋縦断(後編)

現在の御堂筋となる街路が、拡幅される前は元来幅6メートルほどの道であったことは、既にお話ししました。そのルートのうち、北御堂と南御堂の門前を結ぶ部分は特に幅員が広かったようで、この区間を「御堂筋」と称していたとのことです。この名前が今日まで受け継がれているわけです。淀屋橋からこの本来の意味での「御堂筋」までの区間は、「淀屋橋筋」という名前でした。御堂筋をはじめ、堺筋や谷町筋、四ツ橋筋など、今日では「〜筋」と呼ばれる通りの多くが、広幅員の幹線道路となっています。元来、「筋」と呼ばれる南北の街路は、東西の「通り」に対して、どちらかというとそれらをつなぐわき道のような存在であったようです。道幅の狭い、ひしめく町屋の屋根に隠されてしまいそうな小路といったニュアンスを含む道であったのでしょうか。

さて、話を今日の御堂筋散策へと戻しましょう。北御堂を過ぎ、ガスビルのたもとを通り、御堂筋は大阪都心において、「水の都・大阪」をインプレッシブに感じることのできるエリアの1つであります、中之島へと至りました。淀屋橋と土佐堀川のつくる、どこかノスタルジックなモダンを感じさせる景観の向こうに、初夏の陽光をいっぱいに浴びて輝くクスノキに囲まれた大阪市庁舎が精悍な佇まいを見せています。御堂筋を挟んだ向かい側には、1903(明治36)年に設計され、1982(昭和57)年に外観を保存しながら改築されたという、日本銀行大阪支店の緑青色の建物が穏やかな影を落としています。

中之島は、今も昔も、商都大阪の中枢として重要な位置を占めてきました。堂島川と土佐堀川とに挟まれた中洲は、江戸期における豪商の代表格としての名声を得た淀屋常安により開発が行われ、諸藩の蔵屋敷の建ち並ぶ、全国から水運により輸送された物資の集散地となりました。淀屋橋よりやや下流、土佐堀川の左岸に、淀屋の屋敷跡の碑が建てられています。その邸宅は1万坪あまりに及ぶほどの敷地を持ち、堂島米市場への交通の利便を確保するために架けた橋が、淀屋が建設した橋、ということで淀屋橋と呼ばれるようになったのだそうです。現在の淀屋橋は、大阪の新しいシンボルとしてふさわしい橋とするために、1924(大正13)年、そのデザインを全国公募によって広く募集し、1935(昭和10)年に竣工したもののようです当時の選評によりますと、「南欧中世紀の気分ある近代式を用い、その根底においては東洋趣味の横溢せる」と評されています。周辺の日銀大阪支店、当時の大阪市庁舎などの歴史的景観との調和を意識したものであったのでしょう。

淀屋屋敷跡の碑(背後は日銀大阪支店)

淀屋屋敷跡の碑(背後は日銀大阪支店)
(中央区北浜四丁目、2004.5.1撮影)
淀屋橋と大阪市庁舎

淀屋橋と大阪市庁舎
(中央区北浜四丁目、2004.5.1撮影)
淀屋橋からの土佐堀川(西方向)

淀屋橋からの土佐堀川(東方向)
(2004.5.1撮影)
中央公会堂

中央公会堂
(北区中之島一丁目、2004.5.1撮影)

市庁舎の南、「みおつくしプロムナード」と呼ばれているあたりの木立の下を、土佐堀川の水辺の景観と並びながら進みました。水の都・大阪を象徴するウォーターフロントは、穏やかな公園の緑と、都心の高層建築物群の間を、軽やかに、滑らかに、そして穏やかに佇みます。時折、水上バスが行き過ぎていきます。市庁舎の東隣には、府立中之島図書館があります。1904(明治37)年、住友家からの寄付を受けて開館しました。緑青のドームと赤レンガの壁面が鮮やかな中央公会堂は、1918(大正7)年の建設です。1985(昭和60)年完成の現在の市庁舎や1982(昭和57)年開館の東洋陶磁美術館等の新しい建物のなかにあって、絶妙のコントラストを見せる、レトロな建造物軍の存在も、中之島の魅力の1つかな、と思いましたね。御堂筋周辺には、北浜レトロビルヂングをはじめ、「大阪モダン」を髣髴とさせる近代建築物が散在しているとのことです。

中之島の東側は、中之島公園です。豊かな緑が水辺と都市のスカイラインにこの上ない潤いを与えています。本「大阪ストーリーズ」の表紙にも載せてありますばら園は、東西約500メートル、約13,000平方メートルの敷地内に、89種類、およそ4,000株のばらが植栽されています。この日も、赤や白、ピンク、黄色、橙、深紅などさまざまな色、形、大きさのばらの花が燦燦とした日光を受けておりました。これから花を開く株も多くあったように見えました。都市の真ん中に、ここまで穏やかな水辺の緑地があるのは、よいですね。大阪は、水の都として知られ、古来より難波の八十島(やそしま)と呼ばれてきました。都島区や福島区などに代表される「島」のつく地名の存在や、長堀、京町堀、立売堀などの「堀」のつく地名、今橋や高麗橋、阿部野橋、四ツ橋などの「橋」のつく地名、さらには船越町や船場などといった「船」の字を用いる地名など、水路と水運にまつわる数多くの地名が市街地に展開していまして、大阪の町が水と深いかかわりを持ちながら歴史を刻んできたことを伝えていますね。今日それらの水路の多くは埋め立てられ、現代都市の幹線たる道路等に転用されているわけですが、その古きよき大阪の町の姿、そして現在巨大都市として成熟した都市・大阪の姿、双方が絶妙に絡み合いながら、調和して存在する場所、新旧大阪の縮図、それが中之島ということなのでしょうか。

ばら園から、堂島川に沿った「ばらの小径」を辿り、鉾流橋、水晶橋を一瞥しながら、大江橋より御堂筋に戻って、梅田方面へと進みました。大江橋以北の御堂筋の街路樹は、プラタナスの並木となります。御堂筋が新御堂筋(国道423号線)を分ける付近から西へ入ると、大阪キタ屈指の歓楽街、北新地。近松門左衛門の最高傑作とされる「心中天網島」の舞台ともなった、歴史のある高級飲み屋街です。先述した「堂島米市場」もここに所在しました。住居表示の堂島から曽根崎新地と歩きましたが、午前の歓楽街では飲食店に食材等を搬入する業者などの車両が行き来し、慌しく荷物運び入れる光景が見られました。桜橋から、JR大阪駅へ進むと、一気に高層建築群の密度が増してまいります。時刻も午前11時を回り、町を歩く人も格段に多くなってきました。大阪中央郵便局の建物の横には、梅田スカイビルも見えます。大阪の玄関口として、急激な変化を見せながら成長する梅田の町の今を見たような気持ちでしたね。

並木がプラタナスになってます

御堂筋、大江橋北詰より北方向
(北区西天満二丁目、2004.5.1撮影)
土佐堀川を行く水上バス

土佐堀川を行く水上バス
(北区中之島一丁目、2004.5.1撮影)
北新地の景観

北新地の景観
(北区曽根崎新地一丁目、2004.5.1撮影)
阪神百貨店前、御堂筋起点

阪神百貨店前、御堂筋起点
(北区梅田一丁目、2004.5.1撮影)

御堂筋は、阪急百貨店や阪神百貨店の所在する一角が北の起点となります。ここから難波までの約4キロメートルの大幹線が開かれたことにより、現代の大都市・大阪の形成の礎になったといってもよいでしょう。地下鉄御堂筋線と一体的に整備が進められ、また本格的に電線を地下化されるなど、昭和初期に建設されたものとしては画期的な都市的機能性を備えた道路でした。これほどの規模の街路を昭和初期においていち早く完成させたことは、大阪の都市としての気概を反映しているようにも感じられましたね。現在の大阪を形づくった「記念碑」・御堂筋は、今日においても、大阪のメインストリート、大動脈として、いきいきと躍動しています。

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