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大阪ストーリーズ


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#9 天保山周辺 〜伝統的な“ウォーターフロント”〜

 平尾地区の住宅街を出発した市バスは、千本松大橋西詰から西へ、大正通を進みます。バスから見える風景は、海や川に面した地域は製造業・流通関連の事業所で埋め尽くされている一方で、大正通の沿線は住宅地となっていまして、住工混在地域としての地域性を窺い知ることができます。正確には産業地区と住宅地区は前述のとおり区画として明確に分かれていまして、職住近接的な性質を帯びた混在地域という印象はうすくて、産業地域に一本大通りが間入し、その通り沿いに住宅地域が「くさび型」に流れ込んでいるような印象です。産業地域と住宅地域が棲み分けながら共存する港湾地域を経て、バスは「なみはや大橋」へ続く道路へと進んでいきます。1995年に完成したなみはや大橋は、橋の下に航路を確保するために橋詰では相当の急勾配となっています。流線型のなだらかなカーブを描きながら中空を行くバスの車窓からは、大正区から港区にかけての臨海産業地域を眼下に穏やかに望むことができます。ベイエリアを俯瞰するスポットとしても知られているようですね。港湾部分を渡りきると道は一気に下りとなり、天保山地区へとつながっていきます。

 天保山は「日本一低い山」として知られています。標高は4.53mで、二等三角点があり、国土地理院発行の地形図にも天保山の名前が掲載されています。天保山は江戸時代につくられた人工の山です。1831(天保2)年に安治川の河口を大規模に浚渫した土砂によってつくられました。完成当初は標高が20メートルほどであったらしく、桜や松などが植えられ、大坂町民などの遊興の地でした。航路で大坂に出入りする船にとっても恰好の目印となったことから、「目印山」とも呼ばれていたのだそうです。幕末に大坂を警護するために砲台が建設されたり、港湾の造成や工業地域化に伴う切り崩し、地下水の汲み上げに伴う地盤沈下などの要因で徐々に高さが無くなり、現在に至っています。周辺は天保山公園として整備されています。

天保山

天保山バス停付近の景観
(港区築港三丁目、2006.11.25撮影)


天保山バス停付近・高層住宅
(港区築港三丁目、2006.11.25撮影)
天保山公園

天保山公園・浮世絵のタイル画
(港区築港三丁目、2006.11.25撮影)
天保山公園

天保山公園内の景観(大観覧車を眺める)
(港区築港三丁目、2006.11.25撮影)

 高架上を行く地下鉄中央線が寄り添う国道172号線を経てバスは天保山バス停へと到着しました。周辺はランドマーク的な存在の大観覧車をはじめ、海遊館(水族館)やサントリーミュージアムなどの娯楽施設が集まる観光地となっていまして、「天保山ハーバービレッジ」と総称されるエリアです。地下鉄中央線大阪港駅からも至便な天保山はまた高層住宅も比較的多く立地していまして、港湾施設が中心であったエリアを観光地や職住近接の業務地区などへと再生させる「ウォーターフロント開発」が行われた地域の姿を濃厚に感じさせます。

 付近の住居表示「築港」にも雰囲気が感じられますとおり、天保山地区は大阪における近代的な港湾施設が最初に整備された場所でもあります。「天下の台所」大坂は江戸時代、日本最大級の物資集散地で多くの廻船が往来していました。しかしながら、近代的な大型船が入港するには水深が浅く、港の大きさも十分でない上に、低湿地であったため水害に悩まされていました。明治期より、大阪市自身が経営主体となって工事が進められ、築港事業は1929(昭和4)年に完成、日本最大の貨物取扱量を誇る港湾となりました。戦災等で壊滅的な被害を受けるも、戦後に復興、拡張が順次行われていき、北港地区(舞洲・夢洲)や南港地区(咲洲)を含めたエリアへとウォーターフロント地域は広がりを見せています。ほとんどのフェリー航路の発着機能は南港にゆずっているものの、大阪における伝統的な港湾地域として、天保山地区には税関や水上警察署などの港湾関連の行政機関が現在も多く立地しています。

山頂

天保山山頂
(港区築港三丁目、2006.11.25撮影)
天保山渡

天保山渡・渡船場(背後はUSJ付近のビル群)
(港区築港三丁目、2006.11.25撮影)
天保山渡

天保山渡・船上より海遊館(左)、南港方面を眺める
(港区/此花区、2006.11.25撮影)
天保山渡

天保山渡、此花区側より天保山を眺める
(此花区桜島三丁目、2006.11.25撮影)

 公園をぐるりと取り囲む高い防潮堤の存在は、ここが水害常襲地帯であることを実感させます。阪神高速をバックに穏やかな景観を見せる公園内へ向かい、三角点のある「日本一低い山」天保山の山頂へと至りました。公園周辺地域の再整備の結果、実はこの「山頂」より標高の高い場所は複数存在しています。しかしながら、天下の台所として繁栄の極みにあった大坂を見守った「目印山」として、町人たちが遊んだ行楽地として、そして数々の困難を乗り越えて、都市自らが作り上げてきた近代港湾の発祥地として、天保山の持つ象徴性の輝かしさは大阪にとってかけがえのないものではないのかなとも思えました。江戸期の天保山のようすを描いた浮世絵(安藤広重・画)のタイルの前を通り、「天保山頂」と書かれたプレートのある山頂へ「登頂」しました。

 天保山山頂に程近い場所にある渡船場へ向かい(天保山渡)、対岸の此花区側へ渡りました。中之島の南北を流れる堂島川・土佐堀川からそのままつながるこの安治川は、現在の淀川が放水路として明治期に開削されるまではこちらが淀川の本流でした。大坂の町場だけでなく、上流の京都方面へも多くの船舶が航行してきた、日本における河川交通のまさに大動脈であった流れでしょう。現在は近代的な港湾地域を流れる広大な川幅を持つ内水面といった表現が適切であるのかもしれません。近年は此花区側に大型テーマパーク「ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)」も立地して、天保山渡しはこのUSJと天保山のふたつの観光エリアを至便に結ぶルートとして活用されているようです。渡船の船上からは、北に阪神高速の橋脚越しにUSJ周辺のホテル群が颯爽と屹立する姿が、また南には天保山ハーバービレッジの施設群を介して南港地区のビル群が、港湾地区の無機質な建造物たちと並んで眺められました。そんな景観の中にあって、天保山公園周辺は緑あふれる丘となって、人工物と水面とで構成される風景にうるおいを与えていました。大阪臨海地域における観光と産業いう新旧の要素のあわいにあってそれらを有機的に結合させながら、大阪港の歴史としてまとめている場所、それが天保山であるといえるのかもしれません。

<お断わり>
 取材に使用したデジタルカメラが現地にて突如調子が悪くなってしまい、写真画像がやや不鮮明となっています。ご了承願います。
 以下にやや古い写真ですが、2004年5月に天保山周辺で撮影した写真を掲載いたします。

海遊館・南港

海遊館と南港方面
(港区/此花区、2004.5.1撮影)
天保山

天保山渡より天保山公園を眺める
(港区/此花区、2004.5.1撮影)


天保山渡・船上より此花区・梅町方面
(港区/此花区、2004.5.1撮影)
天保山渡

天保山渡より安治川河口方向
(港区/此花区、2004.5.1撮影)



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