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西海道訪問記 I

2001年8月、灼熱の日差しのもとに照らされた九州北部をめぐりました。福岡、呼子、平戸、雲仙、島原、天草、阿蘇とまわって感じたのは、大地のたおやかさ、雄大さ、そして鮮烈な歴史の残影でした・・・。


天草・本渡市街

殉教公園から望む本渡市街
(熊本県本渡市、2001.8.4撮影)
雲仙地獄

雲仙地獄
(長崎県小浜町、2001.8.4撮影)
 
※長崎県小浜町は、2005年10月11日にほかの6町と合併し、現在は雲仙市(うんぜんし)となっています。

※熊本県本渡市は、2006年3月27日に牛深市ほか8町と合併し、現在は天草市(あまくさし)となっています。

訪問者カウンタ
ページ設置:2003年11月8日


        (1)「福岡」と「博多」 〜アジアへの階〜

2001年8月2日、福岡市は朝から高温と灼熱とにさらされていた。路面やビル、窓ガラスなどありとあらゆる構造物から日射が照り返し、体中はすぐに汗でびっしょりになってしまう。その上、街路樹という街路樹からは、わしゃわしゃという蝉の鳴き声が溢れ出て、容赦のない閃熱をいっそう耐え難いものにしている。福岡は大学卒業直前の春以来(1997年3月)の訪問だったので、街中をゆっくり散策できることを楽しみにしていた。福岡市は、九州の広域中心都市として中枢管理機能が高度に集積してこの地方の中核をなす一方、国際スポーツの大会や国際会議などを積極的に誘致し、日本の国の中にあって海外、とりわけアジアに目を向けた国際都市としても近年成長が著しい、日本で最も元気で、エネルギッシュな都会の1つとなっている。そのエネルギーの根源は何なのだろう。そういったことに少しでも触れてみたかった。しかし、予想だにしなかった酷暑に見舞われて、歩くペースはどうしても制限されたものになってしまう。

ところで、行政区画上の福岡市の市域は339.38平方キロメートル(2000年4月1日現在)に及び、西の糸島半島と東の志賀島・海ノ中道とに挟まれた博多湾を取り囲むように広がっている。志賀島で発見された金印が、中国の古代書「魏誌倭人伝」にある、魏の国王が、「倭の那の国王」に授けたものであることはよく知られている。このエピソードが雄弁に物語るように、北部九州は古来中国や朝鮮半島の影響を受けてきた土地であり、その中心の位置の1つを占めてきたのが、福岡市周辺地域であったわけである。時代が変わり、近代国家の一地方都市となった現在においても、その気質はいかんなく発揮され、東アジアにおける車輪の軸の1つとして、雄飛しようとする福岡市の今は、まさに弾けんばかりである。

博多駅前のホテルを出発し、博多駅のコンコースを抜けて、駅西口から北西方向へまっすぐと延びる大通り「大博通り」を進んだ。コンクリートやアスファルト、ガラスに覆い尽くされたビジネス街は熱線が四方から放射される巷となっており、そんな中でもスーツ上下を着ながら歩くビジネスマンの姿が珍しくないことに驚く。昔ながらの博多の雰囲気を感じたくて、高層ビルの立ち並ぶ大通りから横道に入り、日本で最初の禅寺として知られる古刹聖福寺へ。表通りとはうってかわって昔ながらの住宅も目立つ下町的な風情が広がっていて、表札の横に「東流総代」などといった札を掲げている家々も多かった。いうまでも無く、「流(ながれ)」とは、博多の夏のビッグイベントである「博多祇園山笠」の曳山をひく町内単位の集団のことである。博多の町は、祇園山笠に代表される強固で豊かな近隣関係によってむつまじく営まれる、人情溢れる場所であることを、ひそやかに語ってくれているようだった。どこか中国の漢詩の世界にマッチしそうな聖福寺の本殿は、あおあおとした森に囲まれていた。

聖福寺

聖福寺
(博多区御供所町、2001.8.2撮影)
那珂川沿いの都市景観

那珂川沿いの都市景観
(「であい橋」より 2001.8.2撮影)
櫛田神社飾り山

櫛田神社境内に展示された「飾り山」
(博多区上川端町、2001.8.2撮影)
キャナルシティ博多

キャナルシティ博多
(博多区住吉一丁目、2001.8.2撮影)

再び大博通りに戻って、今度は道路を西側へ横断し、博多祇園山笠の“クライマックス”が展開される櫛田神社の境内を目指した。平安末期にこの地に勧請されたと伝えられるこの神社は、以来博多の総鎮守として、穏やかに、慎ましやかに、この町を見守ってきた。そこが勇壮な曳山のレースが展開される境内であるとはとても信じられないほど、普段のこの神社は、落ち着き払った素顔を見せている。ただ、常設展示された「飾り山」だけが、この界隈の猛々しさを物語っているようである。ちなみに、博多祇園山笠では、祭りの最高潮時に町内を引き回される「曳山」と、源平合戦などの合戦ものや武者ものを題材とし、鮮やかで躍動感のある人形たちがダイナミックに飾り付けられた、専ら展示に供される「飾り山」の2種類が製作される。1つ1つの人形が生き生きとした表情をしており、博多人形師の渾身の業に、感謝の念を抱かずには、いられない。

櫛田神社の裏手は、すぐに那珂川端だ。穏やかに水流が行き過ぎ、屋台がずらりと並び、水面に接して美しいビル群や個性豊かな建物たちが並ぶ、福岡市を代表する街中のウォーターフロントだ。九州随一の歓楽街中州に接し、映画館、劇場、ホテルに数多くの専門店街がドッキングした一大複合商業施設“キャナルシティ”もある、福岡市の、いや博多のエネルギーを余すところなく味わうことのできる、元気あふれる界隈ともなっている。川端の風にささやかな清涼感を分けてもらいながら、ますます猛暑がきつくなる炎天下を歩いた。中州を過ぎ、那珂川にかかる西中島橋を渡ると、小ぢんまりとしながらも、赤煉瓦のシックな色調が美しい、ハイカラな洋風建築が目に入る。1909年に、日本生命保険の九州支店社屋として建築され、現在では福岡市赤煉瓦文化館として利用されている建物だ。翡翠色のドームと、丸みを帯びた煉瓦の建物が洒落た、親近感のある美しい建物であった。ここから、福岡市最大の繁華街、天神に街は移り変わっていく。

アクロス福岡の横を通りながら、暑さにばてばての体を冷ますついでに、福岡市関連の統計資料を閲覧することも目論んで、福岡市役所に向かう。私にとって、市役所は町歩きをするに当たって格好の休憩場所だ。冷暖房は比較的しっかりしているし、地域情報をたくさん得ることができるし、場所によっては食堂や軽食を味わうこともできる。果たして、福岡市役所の統計資料室はさまざまな資料が充実していて、人口関連、建設が進められている新しい地下鉄に関する情報などを読みながら、結構長居をしてしまった。

市役所を出ると、相変わらずの猛暑、蒸し暑さ。市役所に接して、壁面に蔦を繁茂させた建物があったが、涼しさを演出する役割はあまり果たせていないようだった。この日の福岡市の最高気温予想は36度。天神地下街に逃避して、地下鉄で大濠公園駅へ移動し、福岡の町における憩いの場所、大濠公園と福岡城跡を歩いたが、やはり尋常でない暑さの中で、その魅力に十分浸れなかったのが残念。福岡市美術館や武道館などが集積する、ちょっとした文教的な拠点となっているこの地域において、ひときわ目を引いたのが、赤坂のけやき通りだった。付近は閑静な住宅地域となっており、雰囲気のよいカフェなども見られ、穏やかな近代的都市景観が保たれていた。けやきの緑が、木漏れ日を透かして、とても眩しい。



福岡市赤煉瓦文化館
(中央区天神一丁目、2001.8.2撮影)
朝顔を入れてみました

大濠公園
(中央区大濠公園、2001.8.2撮影)
シーサイドももち

シーサイドももち(中央は福岡ドーム)
(早良区百道浜、2001.8.2撮影)
赤坂けやき通り

けやき通り
(中央区赤坂二丁目、2001.8.2撮影)

黒田家の城下町として栄えた福岡は、城跡にその面影を残しながらも、どちらかというと、より現在的な性格が色濃い町なみの際立った都会らしい都会といった風情に特徴がある。天神のあたりは言及するに及ばず、シーサイドももちあたりのシーフロントや、赤坂付近の閑静なベッドタウンなど、博多の街に見られる人懐こさよりは、どこか垢抜けた感じのある街であるように感じる。どちらがよくて、どちらが悪いということではない。双方の魅力がコラボレートして、いまの福岡市の趨勢が形成されているのである。そんな現代の福岡を最大限フィーチャーした地域である、シーサイドももちへと向かった。福岡ドーム、福岡タワー、マリゾン、そして目が覚めるようなビーチが展開する一方で、福岡市博物館も立地し、冒頭に紹介した「金印」の実物や、博多と福岡の成長史を肌で理解することができるスポットとなっている。博物館内の書籍販売ブースも、福岡市に関する地誌書、歴史書などが豊富で、へたな書店よりも効率よく文献に接することができる。

ここから海ノ中道へ、博多湾を一気に横断する船に乗る。博多湾の風を感じながら、海を介して遠望する福岡市のまちなみを体感しながら、颯爽と海原を行く。これ以上の贅沢はないのではないか。

この日は暑さにさすがにばててしまったので、夕刻にはホテルに戻り、しばし休憩。夜に再び街中に繰り出して、屋台ラーメンに、キャナルシティでのレイトショーを楽しんだ。福岡市の熱帯夜はこの日も火照った体を冷まさせない活気に裏打ちされているように感じた。博多と福岡、2つの地域が互いの個性を磨き、尊重して、競合して、そして融合して、1つの巨大な魅力と活力を化学反応させている。国際化というエッセンスをも得て、この街はさらなる展開を見せる気配に満ちている。そして、忘れてはならない、この街のオリジン・・・。



元寇防塁跡
(早良区西新七丁目、2001.8.3撮影)

翌日、呼子方面に向かう前に、元寇に備えて建設された防塁跡を見に行った。郊外の今宿や、生の松原付近に大規模な防塁跡は展開しているが、私はあえて住宅街の中に残る防塁跡を目指した。西南学院大の近傍、一方通行路の卓越する密度の高い住宅地の中に、防塁跡はひっそりと残っていた。現代に輝くこの街は、時代の荒波に翻弄されながらも、巧みに個性を磨いて、その魅力を拡大再生産させてきたのだろう。その遺構は、何よりも鮮明に、このことを示しているように感じられた。西の要衝として、大宰府が作られるなど、古来より重要な役割を果たしてきた九州北部にあって、さまざまな時代の波にさらされながらも、時に砦となり、時に掛け橋となって、自らを成長させてきた、この町の歴史は、現在にあっても、いささかの衰えも見せていない。むしろ、その勢いはますます加速度を増しているようにも感じられる。

福岡と博多というまちが、1つの都市地域の中でいかんなくその個性を発揮し、アジアとの交流のなかからその基盤を強化し、「福岡市」のいまが形成されている。一国家の中の、一地方の中心都市という枠にとどまることなく、自らのおかれた地理的な特質を武器に、邁進するこの都市は、夏の猛々しい日差しの中で、ますます鮮烈に輝いているように感じられた。



       (2) 肥前西海岸をゆく 〜末盧国の歴史を感じて〜

福岡市で元寇防塁跡を見た後、国道202号線を西へ向かい、唐津方面へと車を走らせた。昨日に引き続いて夏の陽光がぎらぎらと眩しい晴天のもと、福岡都市圏の影響を受けて都市化が進みながらも、穏やかな表情を見せる地域を進んだ。二丈町あたりからは、佐賀県境をなす背振山地の山体が海に向かって張り出すかたちとなって、国道は海岸沿いを進むことも多くなった。そして、佐賀県境を越えると、程なくして唐津築城時に防風林として作られたという、虹の松原の只中へと国道は突入していく。この虹の松原は、総延長が二里であったことから、もともとは「二里の松原」という呼び名であったものが、唐津の町人文化の中で「二里」が「虹」へと読み替えられたものなのだという。虹の松原というと、どこか爽快というか、鮮やかな色彩を思わせる、実に南国らしいイメージを伴うものだが、そういったセンスある名前に変えることを思いついた当地の粋な文化もまたそういった鮮烈さというか、おおらかさのようなものを感じる。

唐津訪問は初めてではなく、大学時代に一度訪れていた。そこで、今回は自動車できていることもあり、また違った場所の空気も感じて見たい衝動に駆られ、唐津の町は素通りし、進路を北へ向けて、呼子へ向かうこととした。呼子は古来より中国大陸との交流の窓口の1つとして、天年の良港たる地形を生かした、海上交通の要衝としての伝統をもっている。秀吉の朝鮮出兵にあたっても、近傍の名護屋の浦がその拠点として選択されている。そんな海とともに歩んだ地域の風を感じてみたい、そんな思いが募った。

呼子は、まさに大陸へ向かって伸びた、きざはしのような港町だ。呼子のある東松浦半島から、大陸や朝鮮半島への延長線上には、壱岐島や対馬、済洲島などが連なり、実際そういった島と島とを結ぶルートによって、古代日本に多くの人々が行き来し、たくさんの文化、技術が移入されてきた。現在でも、呼子からは壱岐の印通寺とを結ぶフェリーが周航し、交通の拠点としての性格を維持している。

呼子を訪れてみると、この浦が港として十分な地形に恵まれていることが分かる。深く内陸に切り込んだ湾、港を外洋の荒波からまもるように、沖合いに加部島が浮かんでいる。大陸との結びつくチリ的な条件に加えて、地形的にも、呼子は良港たる資質を備えているといってよい。現在、加部島へは呼子大橋がかけられており、呼子の町と結ばれている。加部島にある「風が見える丘公園」から、呼子の町を眺望した。実に、たおやかな港町である。陸地に入り込んだ海面はどこまでも穏やかで、夏の力強い日差しは、海面の輝きをいっそうなめらかなものにさせており、乳青色に滲んだ夏空の色を体いっぱいに吸収してきらめいている。陸(おか)もそんな海のやさしい表情を投影しているかのようにどこまでも緩やかな稜線を描き、海岸段丘の平坦な大地が連なっている。その段丘崖と海面との間のわずかな低地に、呼子の町が展開している。狭い低地にへばりついているといった印象がまったくしないのは、陸や海がこのように限りなく「まるい」顔をして、鋭角的な特質をことごとく排除しているからなのであろう。

呼子遠景

呼子遠景(加部島風が見える丘公園より)
(佐賀県呼子町、2001.8.3撮影)
呼子遠景

呼子遠景
(佐賀県呼子町、2001.8.3撮影)
加部島の景観

加部島の景観
(佐賀県呼子町、2001.8.3撮影)
加部島より、加唐島、松島を望む

加部島より加唐島、松島を望む
(佐賀県呼子町、2001.8.3撮影)
 
※佐賀県呼子町は、2005年1月1日、唐津市ほか6町村とともに対等合併し、新しい唐津市となりました。

加部島から壱岐水道の方に目を移すと、とたんに大陸との接点としての呼子の姿が浮き彫りになってくる。加唐島や馬渡島をはじめ、松島、小川島といった島々が海上に浮かび上がる姿は、大陸とこことが島伝いにつながっており、古来多くの人々が船に乗ってこの海を渡っていったことを暗喩しているようにさえ感じられる。この日は水平線がぼやけており視界が利かなかったため望むことができなかったが、晴れ渡った、澄んだ青空の下では、壱岐島の島影を間近に眺めることができるであろう。このような「海の道」のようすは、お隣鎮西町の波戸岬や、名護屋城址からもはっきりと認めることができた。現在の呼子は、交通の要衝という性格以上に、漁港としての姿が印象的なまちとなっているようであった。呼子の朝市は、獲れたての魚介類や干物が並ぶ、活気溢れるマーケットとして知られているという。海上交通の拠点から、新鮮な海産物が水揚げされるゆたかな漁港へ。呼子の町は長い時間の中で少しずつ変化してきたが、この町がなにより海とともに歩み、海と密接な関係を保ちながら存立してきたことには変わりはない。

この呼子を含む、東松浦郡や北松浦郡の一帯は、古来は「末盧(まつろ、まつら)国」と呼ばれていた(末盧国の範域については諸説あるが、ここでは広く捉えて現在の「松浦」全体と考えたい)。この古代国家の名前は、『魏誌』に見えるわけだが、その中の末盧国のことを記述した部分を現代語訳すると、「人家が四千戸余りあり、海山に沿って住んでいる。草木が茂って道を行くとき前の人が見えないくらいだ。人々は魚やあわびを取るのが上手で、浅いところも深いところもかまわず潜って取っている。」となるそうである。この描写からは、古くから末盧国周辺地域においては、素潜り漁などの漁労が行われていて、この地域の有力な食糧獲得源であったことが想像される。『魏誌』が書かれたのは紀元3世紀頃で、日本は弥生時代であり、稲作文化を獲得して久しい時が経過していた。稲作が最も早い時期に浸透したであろう松浦地域にあっても、低地では稲作も行われていたことは十分に想像できる。しかしながら、「草木が茂って」といった記述を勘案すると、稲作の適地が狭隘であったのか、稲作は相対的に限定的な展開を見せていたのかもしれない。大河が流れ込んでいるわけではなく、沖積地も狭く、水の得にくい台地が卓越する地形をみても、稲作を大々的に行うには不利な土地柄であることは容易に推察できる。あるいは、漁労への特化を志向させるほど、豊かな漁業資源を手にすることができたのだろうか。いずれにしても、古来より、海から魚介類を獲得する営みが行われてきたことは確かなようである。

波戸岬

波戸岬より加唐島、松島を望む
(佐賀県鎮西町、2001.8.3撮影)
玄海町内の水田

棚田状になっている水田
(佐賀県玄海町、2001.8.3撮影)

※佐賀県鎮西町は、2005年1月1日、唐津市ほか6町村とともに対等合併し、新しい
唐津市となりました。

稲作に適さない地形は、この地域に棚田を発達させた。呼子を後にし、鎮西町から玄海町、肥前町へと移動する途上でも、海に広がった丘陵地に棚田が開かれているのを眺めることができた。丘陵地を切り開き、作付けが可能な場所であれば最大限水田として利用しようとした、先人たちの精神に感嘆するとともに、日本にとってコメはそういった努力をさせてしまうほどの魅力を持った作物であったのだろうか。無論、こういった新田開発が促進された背景には、江戸期における「年貢」としてのコメの存在を指摘することができるわけであるが、そういった強制的な要因を差し引いたとしても、このような棚田は、この国が、この作物にかけてきた情熱が並大抵のものでなかったことを、改めて印象付けられざるを得ないことと認める論拠として十分な存在なのではないかと感じた。




       (3) 平戸にて 〜鮮烈なる、西洋の残照〜

肥前の土地は、明るさとたおやかさに満ちているように感じられた。もちろん、壱岐と対馬を除けば、現在の佐賀県と長崎県とにわたる地域が、「肥前国」の範囲であるので、今通過している松浦地域の感覚でもって肥前を代表させることはできないが、海とともに生業を営んできた歴史、海外との接触の中でその地域性を発達させてきた歴史は、アジアスケールでの雄大さをも想起させるものであり、やわらかな輪郭を描き出す陸や海との印象とも重なって、そういった感傷をいっそう駆り立てているのではないかと感じた。その上、この上なく光に満ちた夏空の下である。呼子を経て、伊万里から松浦市へと向かう国道204号線沿いの津々浦々は、最高の輝きを見せてくれていた。

壮年期の丘陵地と、その尾根筋に入り込む海という景観が続く中、前方の視野が不意に開け、広大な海面が急に狭まって、幅の広い川のようになっている風景が突然に現れた。平戸の瀬戸である。対岸の島は、無論、平戸島である。鎖国政策によって外国との貿易の拠点が長崎・出島に限定される前までは、南蛮貿易の拠点として栄えた、松浦藩の城下町である。夏空色に輝く瀬戸の上を跨ぎ、照葉樹の緑がこぼれる島と島とをつなぐ、鮮やかな朱色の平戸大橋を越えて、大陸と日本とをつなぐ中継地として、古くから栄えた平戸の町へと足を踏み入れた。

オランダ商館跡

オランダ商館跡
(長崎県平戸市、2001.8.3撮影)
幸橋

幸橋
(長崎県平戸市、2001.8.3撮影)
中央やや左に教会の尖塔が見えます

寺院と教会の見える風景
(長崎県平戸市、2001.8.3撮影)
オランダ商館跡から平戸城を望む

平戸城を望む
(長崎県平戸市、2001.8.3撮影)

平戸の松浦家の歴史は、江戸期の大名の中では指折りの古さを持つようで、既に平安時代の末期に、水軍としての松浦党として誕生をみている。鎌倉時代からは、平戸を根拠地として私貿易や海賊行為などを行った。いわゆる「倭寇」である。室町時代になると、中国の海賊五峰王直(ごほうおうちょく)が平戸にやってきたのを大歓迎し、当時の松浦氏当主は、それに屋敷を与えるなどして保護し、これを契機として、平戸と中国との貿易が盛んに行われるようになった。1550(天文19)年には、東洋における貿易の拡大とキリスト教の布教を目的として、ポルトガル船が平戸に入港し、ポルトガルとの貿易が始まった。さらには、江戸期となり、大名として松浦藩6万1千石を安堵された松浦家によって城下町平戸が形成されつつあった1609(慶長14)年、オランダの商船2隻が平戸に入港した。時の当主隆信の仲介で幕府の通商許可を得たオランダ東インド会社は、1611(慶長16)年に平戸に商館を建設することとし、1616(元和2)年に倉庫や埠頭が完成したことを皮切りに、それから2年余りの歳月を経て、オランダ商館のすべての施設が完成した。以後、1640(寛永17)年に幕府の鎖国政策への転換によって幕府から取り壊しの厳令が下るまで、平戸の町は外国貿易により大いに栄えるのだが、オランダ商館の存在はその繁栄の大きな原動力となった。そのオランダ商館跡地は、市街地の北側、平戸港の突端の位置にある。現在は、みやげ物店などが軒を並べる市街地の延長上にあって、平戸城や照葉樹の原生林がよく保存された黒子島などを望むことができる、風光明媚な一角となっている。オランダ商館の面影は、オランダ塀、オランダ倉庫の壁、オランダ井戸、オランダ埠頭などを留めるのみとなっており、海外に門戸を大きく開いていた平戸の歴史を今に伝えている。夏の日は、午後3時をまわってもなお、西国のこの地を燦燦と照らして、「亀岡城」といわれた松浦氏の居城跡に1962(昭和37)年に天守閣が復元された平戸城の建物と緑の濃い丘、小波が穏やかに寄せる港、港の入口に常灯が設置された「常灯の鼻」といった、歴史の香りに溢れた平戸の町のすみずみまで、夏の灼熱を照射していた。

オランダ商館跡から、平戸観光資料館、かつて松浦氏の居館が置かれた松浦史料博物館など付近に立地する商店街を抜けて、聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂のある丘をのぼった。この聖堂は、1931(昭和6)年に、日本最初の天主堂である天門寺があった地に立てられたもので、当初は平戸カトリック教会と呼ばれていたが、1971(昭和46)年にフランシスコ=ザビエル像が建立されたのを機に、現在の名称で親しまれるようになったとのことである。ここから、平戸の町に下る小道に沿って、正宗寺、光明寺、瑞雲寺といった仏教寺院が並び、西洋的な景観と、日本らしさが感じられる景観とが1つの視界に同居していて、西洋から広く文化を受け入れてきた平戸のまちの歩みを象徴した一角となっている。正宗寺は松浦家29代鎮信(しげのぶ)の開基、江戸東海寺住持江月の開山と伝えられる臨済宗の寺院で、キリシタン棄教の証となり、28代隆信(たかのぶ)の墓所が鎮座している。光明寺は浄土真宗を宗旨とし、28代隆信の開基、瑞雲寺(曹洞宗)は、1402(応永9)年16代勝(すぐる)の開基と伝えられ、代々松浦家の尊崇が厚く、境内には混血のため国外追放となった、オランダ商館長ナイエンローデの娘コルネリヤの供養塔や松雄芭蕉の句碑がある。坂を下るにつれて、寺院の屋根が連なる先に屹立する、聖堂の尖塔が美しく、見事な調和を見せている。その光景は、キリシタンの普及、弾圧、そして再興といった、光と影が刻まれた歴史を思い起こさせるとともに、西洋の空気を存分に吸収したこの土地の雰囲気を、これ以上ない存在感でもって示しているように感じられた。

平戸の市街地を後にして、平戸島最大の信徒をかかえるという、紐差教会へ向かった。平戸島のほぼ中央、平戸島の東海岸で一際内側に湾入した木ヶ津湾の最奥に、紐差の集落が展開する。周囲は丘陵性の平戸島の中にあって、まとまった平坦地が広がっており、水田の目映いばかりの緑が、やはり輝かしい緑が重なる山々の緑にたおやかに囲まれていた。そんな穏やかな集落景観の中にあって、ロマネスク様式の白亜の教会は、高台にあって一段と輝きを放っている。内部は、ゴシック建築で整えられており、ステンドグラスから差し込む光が作り出す空間美が見事とのことであった(夕刻が迫る時間となり、拝観は遠慮した)。1885(明治18)年にこの地に初めて教会が建てられ、現在の聖堂は、1929(昭和4)年に再建されたもの。100年を超える時間の中で、人々の信仰を穏やかに受け止めて、いっそうのかがやきを見せてきたのであろうか。紐差の土地を見下ろすこの教会の佇まいを見ていると、そんな慈愛と奉仕の精神が垣間見られるようで、実に清々しい気持ちになる。

紐差遠景

紐差遠景
(長崎県平戸市、2001.8.3撮影)
紐差教会

紐差教会
(長崎県平戸市、2001.8.3撮影)
生月島から望む夕日

生月島から望む夕日
(長崎県生月町、2001.8.3撮影)
生月島大バエ断崖

生月島大バエ断崖
(長崎県生月町、2001.8.3撮影)

※長崎県生月町は、2005年10月1日、平戸市ほか2町村とともに対等合併し、新しい平戸市となりました。

紐差を後にして、夕暮れの迫る平戸島の西海岸をひた走った。夕日に染まりゆく海のすぐ側には、1991年に完成した橋によって平戸島と結ばれた、生月島。そこでの夕焼けを見ておきたい。激しい潮流を思わせる波目がはっきりと認められる、辰ノ瀬戸をひとまたぎにして、生月島へ入る。集落が連続する東海岸とは対照的に、西海岸には断崖が多い。地元で、大バエ断崖とよばれる急崖から、東シナ海に沈む夕日を眺めた。生月島は、隠れキリシタンの島として知られる。島内には、ガスパル様などの殉教遺跡がひっそりと佇むという。夏の夕暮れは、ゆっくりと、ゆっくりと、辺りを暗闇へと誘っていく。秋を思わせる綿のような雲が、茜色の夕日を受け、そのやわらかいオレンジ色に照らされたガラスのような波の上、漁船が2つ、3つ、のたりのたりとたゆたっている。波の寄せる音が、周囲の静寂をいっそうはっきりと印象づけている。そんな静かさと、この島の歴史がシンクロしているように感じられた。海とともに生きてきたこの島の夏の一日は、こうして穏やかに帳を下ろしていった。



       (4) 島原半島 〜大地に滲む光と影〜

前日、平戸から車を飛ばしに飛ばして長崎市内に投宿していた私は、雲仙、島原を経て天草方面への行程を進んだ。この日も、夏空が大きく広がり、酷暑を予感させる。国道57号線を東し、雲仙地獄周辺を散策した後、島原方面への展望が開ける、仁田峠展望所へ向かう。ここからは、普賢岳の荒々しい姿と、1991年6月、水無川の河谷を流れ下った火砕流の爪痕とを、くっきりと望むことができる。河谷は一面の草に覆われていたが、溶岩の生々しいさまを、窺い知るには十分な光景であった。水無川の流域では、堤防や砂防ダムなどの災害対策事業が着実に進行しているようで、土石流による大被害の痕跡を残しながらも、復興は進んでいるように感じられた。

国道57号線から国道251号線を経て、城下町島原へ。現在は、1964(昭和39)年に復元された天守閣と、付近の武家屋敷跡の景観によって、かつての城下町の風情を感じることができる町となっている。その天守閣からは、島原市街地を一望のもとに見渡すことができる。そういった風光とは裏腹に、この城は島原半島におけるキリシタン弾圧の中心となった、痛ましい過去を背負っている。

仁田峠からの景観

仁田峠から見た水無川河谷
(長崎県小浜町、2001.8.4撮影)
雲仙普賢岳

仁田峠付近から見た雲仙普賢岳
(長崎県小浜町、2001.8.4撮影)
※長崎県小浜町は、2005年10月11日に他の6町と合併し、現在は雲仙市(うんぜんし)となっています。

島原市街と眉山

島原市街と眉山
(島原城より望む、2001.8.4撮影)
武家屋敷跡周辺の景観

武家屋敷跡周辺の景観
(長崎県島原市、2001.8.4撮影)

島原地方は、海を隔てた天草諸島とともに、当時領主であった有馬晴信や小西行長、天草の土豪たちもキリシタンであったこともあり、日本においてもっとも濃密なキリシタンの信教が浸透する地域の1つとなっていた。島原の不幸は、そんなキリシタンを保護した有馬晴信が、いわゆる「岡本大八事件」にかかわったとして甲斐国に流されたことに始まる。家康の側近である本多正純の与力岡本大八が、有馬氏の旧領を家康が恩賞として与える意向があるという偽りの話を有馬晴信に持ちかけた。キリシタンであり、長崎奉行長谷川左兵衛の配下にあった大八のその言葉を信用した晴信は、多額の賄賂を大八に贈りその斡旋を依頼した。しかし、その後不審を抱いた晴信が直接、本多正純に問い合わせたところ、大八の虚偽が発覚し、贈収賄事件が明るみに出ることとなった。以上が「岡本大八事件」の内容である。この事件は、島原のその後の運命にとって決定的な転換点として作用する。1つは、キリシタンを擁護した当主が改易され、後にキリシタンを徹底的に弾圧することとなる、松倉重政の入部を結果することとなったこと。そしてもう1つは、この事件を転機に幕府がキリシタンを脅威と認識するようになり、鎖国政策、キリシタン弾圧の方向へ向かう契機となったこと、である。

島原の夏は、とても輝かしいヴェールに包まれているように感じられた。島原から、南へ。有明海に接しながら、快適なドライヴが続く。有明海は、時に静かな浦につつましい風景を導き、また時には浜辺に広い干潟をつくりだして、たくさんの生きものたちに、快適な生活の舞台を提供している。夏の海は、きらきらと光を受け止めて、ぎらぎらした太陽の閃熱のイメージを緩和させながら、さわやかな面持ちを見せる。航行するにも、漁労を行うにも、もってこいの、豊かな海、そして、希望の海。海はすべてを包み込むとびきりのやさしさを体現しているようだった。幾星霜の時の流れの中で、そのたおやかさは人々の記憶の中に受け継がれてきたに違いない。島原の、海と隣り合った国道を、自動車は軽やかに、進む。

以上の経緯で島原に入府した松倉重政は、4万石という、城持ちの資格をもつ大名としては最小規模にあたる石高ながら、数々の悪政の限りを尽くし、領民から日本史上稀に見る搾取を行った。日野江城(北有馬町)や原城(南有馬町)といった城郭を形成する適地がありながら、島原の地に島原上を築き、その石垣に原城に使われていた石垣を取り壊して運ばせるといった労役を領民に課した。さらに、江戸城改修にあたり、石高以上の規模の労役を買って出て、その費用もまた領民に課税することによって賄った。記録によると、当時島原では米の獲れ高の8割が年貢として搾り取られ、人頭税、通行税などの尋常でない課税を始め、埋葬のために穴を掘った場合に「穴税」を徴収するなど、その搾取のさまは常軌を逸すること甚だしいものであった。

その後、幕府からキリシタン弾圧の手がゆるいと叱責されるや否や、これまた史上稀に見る大弾圧をやってのけるのである。その有様は辛酸の極みであったといわれ、摘発されたキリシタンや宣教師などは、これ以上ないほどの残忍な手法によって処刑され、殉教していったといわれている。折からの過酷な搾取に打ちのめされてきた領民にとって、一揆に向かうことは、必定の成り行きであったわけである。この土壌が、「島原の乱」を発生させることとなる。弾圧に対抗するキリシタンが起こした大規模一揆としての性格が強調される島原の乱だが、その発生の背景には、このような領主の過激な搾取があったわけである。

諫早あたりでは、沖積平野や広大な干潟が展開する土壌が展開している。島原は、諫早に接しながら、雲仙岳が海上に溶岩を噴出してできた大地を母体としているために、まとまった平地に乏しい土地柄である。大規模な河川はあまり多くない。このことは、水田に適した土地が少ないということと同義である。現在、島原周辺の地形図を眺めていると、比較的まとまった水田が見られるのは、河谷に限られるようで、火山灰の卓越した段丘面は畑としての利用が中心であるようだ。先に、松浦地域一帯で目にした棚田のような土地利用はあまりみられないのが、かなり対照的であるように思う。鮮やかな海に向かって、緩やかに傾斜した大地は、緑豊かで、輝いて見える。天水は十分にあるのだから、台地状における新田開発を行う条件はあったのだと思うが、この地域ではそういった積極的な新田開発は行われなかったようである。

島原と同じくカトリック信仰が定着し、当時所領していた唐津藩によって強力な搾取、弾圧を受けていた天草でも一揆の機運が高まり、一揆軍は島原城、富岡城(天草)への攻撃にまで至った大規模な反乱へと発展する。一揆軍は最終的に廃城となっていた原城を修復してそこに篭城し、それは88日間にも渡った。信仰と生活とが密接に結びついていた島原では、村全体で篭城に加わったケースも多かったこともあり、幕府や九州諸藩の12万人もの兵力を動員して平定された後、篭城していた村民は皆殺しにされた結果、そういった村については、人口全員が殺されてしまう運命を辿ることとなった。乱の後に、廃村となった地域に新たに移民が行われた。現在、島原ではそうめん作りが盛んに行われているが、これは島原の乱後に小豆島から移住した人々が始めたものである。島原の乱によって、それまでの血筋が絶たれた村があったのである。これほど背筋が凍る史実もないのではないか。

原城跡

原城跡から見た大江名集落
(長崎県南有馬町、2001.8.4撮影)
天草四郎像

原城跡に立つ天草四郎像
(長崎県南有馬町、2001.8.4撮影)
※長崎県南有馬町は、2006年3月31日に他の7町と合併し、現在は南島原市(みなみしまばらし)となっています。

島原から、国道251号線を南へ、雲仙岳の山麓に緩やかに展開する、穏やかな土地を通過した。有明海もどこまでも穏やかで、南国の夏の日差しは、極上の輝きを海へ、大地へ降り注いでいた。この地域にカトリックが根づき、濃厚に日常生活と結びついた信仰が行われたわけだが、上記した島原の乱の顛末を考え合わせると、その光と影とが鮮烈に印象づけられるようで、目の前の明るい大地や海のきらめきが、いっそうの静かさと悲しみとを表現しているように感じられる。19999月に、沖縄本島の南部戦跡を訪れたときも、南国の底抜けに明るい風景に、戦時中の凄惨な出来事の印象が重なって、複雑な思いを抱いたのだが、眼前の島原の、緩やかな輪郭を呈する大地の姿を目にすると、この地にかつて実際に起こった出来事がいかにすさまじい経過によって発生し、結果いかに惨たらしい運命を辿ることになったかを考えずにはいられなくなる。こんなこと、二度あって欲しくない。

島原の乱最後の舞台となった原城は、有明海に突き出した台地状の岬地形を利用した平山城である。今、城跡に立つと、眼前に穏やかに広がる有明海が美しく、眼下に臨む集落や雲仙岳とつながるゆたかな山なみの風景は、海からのさわやかな風の中、ひときわ爽快な印象であった。夏の日差しは、相変わらず激しいが、その分、木々の緑や海や空の青がいっそう鮮やかに照らし出されている。風が木々を揺らす音や、わしゃわしゃ喚いている蝉のけたたましい泣き声以外、聞こえる音はない。厳しい日差しが覆い尽くしているのに、実に静かなのである。蝉のやかましい合唱が、かえって城跡の静寂を強調しているようにも感じられる。この静かさが、何より雄弁に、この地に起こった悲哀を物語っているようにも思われた。





       (5) 天草から阿蘇へ 〜海の大地、草原の大地〜

島原半島南端の良港として、口之津浦がある。島原半島の南端の瀬詰崎は、早崎の瀬戸にむかって突き出す格好になっているが、その東の付け根には有明海が鋭く湾入している。ここに、口之津が発達した。この港は、キリシタン文化の窓口として重要な役割を果たし、有馬に日本最初のセミナリオ(カトリックの神学校)の設立をみた。また、この港は天草にとても近い。天草は、熊本県であり、肥後の国であるが、江戸期には肥前唐津藩の領する地域であった。また熊本を中心とした肥後本土が農業中心であったのに対し、天草は農業の適地に恵まれず、むしろ漁業に依存する土地柄であり、その地域性は肥前のそれに類似していた。このことから、天草は肥後本藩よりも、肥前との関わりをより深く持っていた。口之津港と、天草の鬼池港を結ぶフェリーは、わずか30分で2つの港を連絡している。

今も昔も、島原と天草が近い関係にあることは変わらないように感じられた。桟橋を出たフェリーは、干潮で干潟が広く広がる口之津の入り江をゆっくりと、ゆっくりと進んだ。波は水槽に張られた水のように凪いで、夏の日差しを鏡のごとく反射している。海の色は、すなわち空の色であった。空は青い。そして、海もまた、どこまでも青い。

口之津港内

口之津港内の干潟
(長崎県口之津町、2001.8.4撮影)
港の入り江は向かって右側です

口之津町瀬詰崎を望む
(長崎県口之津町沖、2001.8.4撮影)
天草の島影

見えてきた天草の島影
(長崎県口之津町沖、2001.8.4撮影)
天草鬼池港

天草鬼池港
(熊本県五和町、2001.8.4撮影)
※長崎県口之津町は、2006年3月31日に他の7町と合併し、現在は南島原市(みなみしまばらし)となっています。
※熊本県五和町は、2006年3月27日に本渡市・牛深市ほか7町と合併し、現在は天草市(あまくさし)となっています。

港を発つと、ほどなくして天草の島影が見えてくる。海面に近い空は、乳白色に淡く滲んでいて、天草はその延長上に、心持ちうっすらと横たわっている。その姿は、想像以上に急峻な印象だった。松浦地域で眺められたたおやかな島影とは多少趣を異にしているように感じられた。およそ30分ほどの航海で、フェリーは天草・五和町にある鬼池港へと入港した。こちらは、口之津のような大きな入り江があるわけではなく、穏やかな森に抱かれた、有明海に向かう波止場であるように感じられた。港から国道に出て間もなく、タコが竹竿につるされ、海風に揺れていた。

天草における有数の砦であった富岡城のあった、志岐・富岡の砂州の町を過ぎて、海まで迫った断崖のごとき海岸線を、西に海をみながら進んだ。予定では、このまま天草下島の西海岸を南下して、天草町の大江天主堂、羊角(ようかく)湾の漁港に臨む崎津天主堂を巡りながら本渡市方面へ戻るルートを進むはずだったのだが、妙見ヶ浦付近が災害のために通行止めで、国道389号線を通過することができなかったため、急遽行程を変更し、県道24号線から県道35号線の細い山道に入り、一町田川沿いに国道389号線に戻ることにした。ルートは、天草下島の険しい山々の只中を通過しており、自動車がぎりぎりで行き違いができるくらいの狭い道に、鮮やかな木々が迫る景観であった。

羊角湾は、急峻な山容に彩られた天草下島の南部、それらの山々が形成する谷筋の1つに海水が侵入したような海である。最奥部には早浦、その西側には亀浦という湾入部を擁している。地形的には、三陸海岸のリアスに似たいわゆる「溺れ谷」の様相を呈するが、真夏の日光をふんだんに含んだ、なめらかな海面は、じつに暖かさに溢れており、このようなぽかぽかした感覚は、おそらく東日本や北日本のリアスは持ち合わせていないに違いないだろう。崎津(さぎつ)天主堂は、そんな鏡のようなつややかな海に臨み、漁港に面して建てられている。

タコが干してある風景

鬼池港近くで干されていたタコ
(熊本県五和町、2001.8.4撮影)
大江天主堂

大江天主堂
(熊本県天草町、2001.8.4撮影)
崎津港の景観

崎津港と、崎津天主堂
(熊本県河浦町、2001.8.4撮影)
崎津天主堂

崎津天主堂
(熊本県河浦町、2001.8.4撮影)
※熊本県五和町・天草町・河浦町は、2006年3月27日に本渡市・牛深市ほか5町と合併し、現在は天草市(あまくさし)となっています。

明るい灰色の瓦屋根の家々、小船が何艘ももやってある穏やかな港、集落に迫る岩の壁のごとき山々、浦の向こうに見える、緑鮮やかな山の稜線。そんな、ごくありふれた、西海の集落、崎津。そんな小ぢんまりとした、奥ゆかしささえ漂う漁業のまちに、これほどまでに溶け込みながら、やさしさに満ちた聖堂が屹立しているとは!ゴシック様式のすっきりとした建築、空に向かって細く高く伸びてゆく尖塔は、グレーに整えられた外観によって、見事に漁港の町並みにすっぽりとおさまっているさまは、カトリックに彩られた天草の文化が、津々浦々、このような小さな海辺の集落にまで、実に濃厚に行き渡っていたことをこれ以上ない存在感によって示しているように感じられた。本当に、この港町にぴったりな、教会なのだ。この教会は、崎津にあってこそ、このようなたおやかさを持ちえているのだ。崎津の町並みと、浦と、山々の緑があって、教会が自然にそこにある。それらのどれが欠けても、調和は生まれないのではないだろうか。

海に接し、山の中を行き過ぎ、集落内の小道を縫い、狭い道路は天草の海辺をドラスティックに周囲の景観を変化させながら続いた。軍ヶ浦という海岸を越えると、隠れキリシタンの痕跡が濃密に刻まれた里、大江に着く。付近の小高浜というところでは、1963(昭和38)年に、畑の中から隠しロザリオ(壺と十字架)が発見されたというエピソードがある。この地域は、厳しい弾圧に耐えながらも、信仰のともし火を守りつづけられてきた。丘の上に立つ、白亜のロマネスク教会、大江天主堂は、そんな地域を象徴するように、集落を見下ろしているようだった。1932(昭和7)年、フランス人宣教師ガルニエ神父によって建てられたものである。

天草は、海と山とに穏やかに抱かれながら、カトリック信仰や数々の文化に彩られた島々であるように感じられた。島原半島から、海を渡って天草への旅程は、両地域の交流の証をかすかに感じるものであった。ふたつの地域を結ぶ海は、限りなく穏やかであるように思われた。

阿蘇中岳

阿蘇中岳、中央火口
(熊本県阿蘇町、2001.8.5撮影)
阿蘇・草千里

草千里
(熊本県阿蘇町、2001.8.5撮影)
阿蘇・米塚

米塚
(熊本県阿蘇町、2001.8.5撮影)
大観峰から眺める阿蘇谷

大観峰から眺める阿蘇谷
(熊本県阿蘇町、2001.8.5撮影)

※熊本県阿蘇町は、2005年2月11日に一の宮町及び波野村と合併し、現在は阿蘇市(あそし)となっています。

翌日、私は熊本市内の宿泊先から、東へ、阿蘇の大地へと足を踏み入れていた。中岳の猛々しさに、地球の大いなる脈動を感じ、阿蘇谷に豊かに展開する町々の個性溢れる景観を観察することができた。そして、阿蘇の大地を一望の下に見通すことのできる、大観峰に立った。外輪山と中央火口丘とが連続する山なみを背景に、エメラルドグリーンの草原が、どこまでも、本当にどこまでも展開している。雄大という言葉を、これ以上的確に、大きく言い得ている風景は、他にないのではないかと、そのときは信じて疑わない気持ちになっていた自分が確かにいた。天草が、「海の大地」であれば、阿蘇を中心とした肥後の土地は、まさに「草原の大地」であった。これまで、肥後の国イコール熊本県と、ステレオタイプに認識し、熊本県の茫漠たる広い大地のイメージに裏打ちされた枠組みの中に天草の島々を組み入れてきたように思っていた。それは、現在の県域を基礎とした地域システムの中において、実質的な経済地域を形成しているのであるが、原風景としての天草は、やはりその根底の部分において熊本とはその存立のあり方、辿った道筋において、やや質を異にするのではないのだろうか。私たちは、海というルートによって結び付けられてきたリンケージに、もう少し目を向けるべきではなかったか。目の前のあまりに広大な草原と、吹き渡る快い風とにインスパイアされた地域の風は、まさにそのような色をしていた。日本の大地は、なんと実にいろいろな輝きと、彩りとを持っているのだろうか。


西海道訪問記 I −完−



追伸

今回の「地域文」において、特に島原半島の段で、歴史の暗い影の部分をあえて強調して記述するスタイルをとった。しかしながら、それは現在の島原地域がどうような陰鬱を持っているということを意味するものでは、全くない。むしろ、輝きに溢れた、実に魅力溢れる大地である。このことだけは、強調しておきたい。 




Regional Explorer Credit
  2001年8月 2日  前日夜の便で福岡入り。この日は、福岡市内を散策。博多駅前にて宿泊        
        8月 3日  福岡市をレンタカーで出発。呼子、平戸などを経由するドライヴ。長崎市内にて宿泊。
        8月 4日  長崎市を出発し、雲仙、島原、原城と島原半島を巡り、口之津から鬼池ゆきフェリーにて天草へ。崎津天主堂、大江天主堂を見たあと、本渡市を概観。熊本市内にて宿泊。
     8月 5日  熊本市を出発し、阿蘇、久住高原などを経て、大分道、九州道を経由して福岡空港へ。その日の便で羽田へ。なんとか電車を乗り継いで、自宅へ戻る。



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