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シリーズ・クローズアップ仙台

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#3 仙台城下町の北辺を行く 〜奥州街道から北山へ〜


北仙台駅からスタートする仙台町歩きコース第3弾は、北仙台駅から旧奥州街道のルートを辿って、比較的緑が豊かな北山地域へ至るルートをご紹介いたします。

まず、奥州街道を説明する前に、藩政時代の仙台城下町の街割について説明したいと思います。現在仙台市中心部についてまとめますと、東西方向に、国道48号線となっている北四番丁、東西の大通りとしてケヤキ並木で知られる定禅寺通(じょうぜんじどおり)、仙台西道路と直結するイチョウ並木の広瀬通、定禅寺通とともにケヤキが植栽されている青葉通、一番町アーケードの南端の南町通(みなみまちどおり)が大きな道路として機能しています。一方、南北方向では、西から桜の名所西公園(桜ケ岡公園)に並行する西公園通、かつては細横丁と呼ばれていた晩翠通、歓楽街の国分町、繁華街の一番町と過ぎて、片側4車線の南北の動脈東二番丁通、愛宕上杉通り(東五番丁)、駅前通などが主要な街路になっています。言うまでもないですが、これらの広幅員の道路は第二次大戦後の都市計画の所産です。しかしながら、一部の道路に「東二番丁」とか「一番町」などという、方角と序数との組み合わせによる名称が見られます。これらは、仙台城下町の街路や地域名などを継承した街路の一種ということになります。現在の一番町が「東一番丁」で、東へ順次二番丁、三番丁、・・・と割り出されました。同様に、現在の仙台市役所北側の街路が「北一番丁」であり、そこから北へ二番丁、三番丁、・・・と画されていったということになります。

そして、これらの街路の基本となったのが、仙台城大手門から仙台大橋(現在の大橋)を通り、名掛丁方面へ続く東西方向の「大町」(現在、中心部では「中央通としてアーケードになっている街路」及び南北方向の奥州街道(現在の国分町通)でした。この2本の道路は、現在でこそ周囲の広い道路に隠れて目立たない街路になっていますが、江戸期から戦前位までの時期までは押しも押されもせぬ、仙台随一の繁華街、メインストリートでした。この2本の街路が交差する地点は「芭蕉の辻」と呼ばれますが、江戸期にはこの交差点の四隅に櫓が作られ、仙台城下町のランドマークとなっていました。また、南町通から芭蕉の辻までは、市電が敷設されていました。

前置きが長くなりましたが、奥州街道は仙台城下町の街割の中で南北方向の基軸として重要な役割を持っていました。地図を確認していただければお分かりになるかと思いますが、奥州街道を継承した国分町通は、国分町三丁目、二日町、木町通二丁目、柏木一丁目、通町一・二丁目を経て、通町公園の東で直角に東へ進み、北仙台駅の西で仙山線と交差して、堤町方面へ進んでいきます。実は、このルートは基本的に変わっていないのです。おそらく、道幅についてもそう大きな変化はないのではないでしょうか。

方面へ進む前に、仙山線北側の日浄寺下で、奥州街道は梅田川を橋梁ではなく、堤の上を越えていきます。これが、「堤町」という地名の由来で、このあたりにはささやかながらソメイヨシノが植えられています。この堤町は、古い伝統をもつ「堤焼」や「堤人形」といった工芸品を育みました。堤人形は、粘土で人形を整形して焼き上げ、色付けしたもので、特に干支の人形はたいへん人気があり、数十年先まで予約でいっぱいであるという話を聞いたことがあります。私が北仙台にいた頃は、堤町1丁目に工房がありましたが、現在では都市化による喧騒を避けたいという理由で堤町3丁目に移っていたと思います。

青葉神社

青葉神社
(青葉区青葉町、2002.1.19撮影)
北山から望む仙台市街地

覚範寺から望む仙台市街
(青葉区北山一丁目、2003.7.21撮影)
覚範寺

覚範寺
(青葉区北山一丁目、2003.7.21撮影)
覚範寺・保春院墓所

覚範寺・保春院墓所
(青葉区北山一丁目、2003.7.21撮影)

堤町から、奥州街道を西へ進むと、仙台の城下町の北辺を形成する北山丘陵の山すそを辿るルートになります。今では宅地開発もすすみ、マンションや住宅も増えていますが、寺院等も多く立地することから、それらの擁する緑地帯が穏やかな市街地周辺部の住宅地にうるおいを与えています。それらを代表するのが、「北山五山」と呼ばれる光明寺、東昌寺、覚範寺、資福寺、満勝寺です。伊達郡(福島県)が本拠地だった時代から伊達家にも京都五山に倣った伊達五山があり、仙台開府の際に、鬼門にあたる北山周辺に集められたことから、「北山五山」と呼ばれるようになったのだそうです。満勝寺だけは、柏木3丁目にあり少し離れていますが、残りの光明寺、東昌寺、覚範寺、資福寺はともに近くにあり、散策するにはちょうどよい距離感です。また、北山五山建立後にこの地に創建された輪王寺も、この界隈を象徴する名刹です。

光明寺には、支倉常長の墓があり、境内には樹齢250年を越える菩提樹があるそうです。

東昌寺は、伊達政宗とともに仙台に移ってきた北山五山の筆頭格の寺院で、境内には樹齢500年とも言われるマルミガヤ(県指定天然記念物)などの古木が豊かに繁茂しています。また、明治7年にはこのお寺の西半分の敷地に伊達政宗を祀る青葉神社が城内より移り造営されています。

覚範寺は、政宗の父輝宗の菩提寺で、政宗の母保春院の墓があります。こちらにも、樹齢250年余りと推定されるヒヨクキバの古木が佇みます。

資福寺は、「あじさい寺」として著名です。境内を埋め尽くさんばかりに紫陽花が植えられていて、梅雨時には鮮やかな花を咲かせます。

これらの寺院に象徴される、ゆたかな北山丘陵の景観を楽しみながら、奥州街道とは別れ、通町公園南の交差点からさらに北山方面へ進みます。この道の界隈も、個人住宅や集合住宅などに充填されていますが、背後の北山五山の景観もあり、閑静な住宅地の趣です。やがて、木町方面から拡幅された道路が南から突き当たり、北山から国見方面をカバーするバス通りになるため、周辺はにわかに車が増えて慌しくなります。その三叉路を過ぎると、程なくして輪王寺下へ行き着きます。本堂へゆるやかに丘陵を登る石段の両側には、整然と屹立する杉の木がしずかな空間を演出し、その彼方に本堂が鎮座します。その道程にある山門のみが創建時からのゆかりを持つ建物とのことです。また、池泉回遊式の庭園は、仙台では有数の美観を誇る名園とのことです。

資福寺

資福寺
(青葉区北山一丁目、2003.7.21撮影)
輪王寺山門

輪王寺山門
(青葉区北山一丁目、2002.1.19撮影)
輪王寺参道

輪王寺、山門へ向かう参道の景観
(青葉区北山一丁目、2002.1.19撮影)
拡幅された木町通

拡幅された木町通
(青葉区木町、2003.7.21撮影)

先ほど話題にした、拡幅された道路ですが、私が仙台にいた頃は北仙台方面から来る道路との丁字路(木町交差点)までが広くなっていました。しかしながら、昨年1月に輪王寺を訪れた際の帰路、この道路が木町交差点より南でも順次拡幅のための工事が進み、東北大学付属病院のすぐ北あたりまで、拡幅のために建物が取り壊され、用地が確保されていました。早晩、北四番丁(国道48号線)まで広幅員の道路が出現するのでしょうか。実は、この道路は、県立図書館や宮城大学のあるあたりから泉区を縦断し、青葉区桜ケ丘団地中央の道路に連結し、北四番丁まで貫く、壮大な南北縦貫道路の一部をなすものです。北山から桜ケ丘までのルートは丘陵地で緑も多く、住宅地となっているところも多いので、このルートの完成までにはまだまだ長い年月を要することになるでしょう。現在でも、泉区と仙台市中心部とを結ぶ幹線道路は少なく、需要も多いものとは思っていますし、この北山付近や荒巻神明町付近の狭隘な道路において渋滞が慢性化していることも事実です。そういった交通問題の解消と引き換えに、もしこの北山地域が藩政時代から培ってきた市街地周辺のゆたかな緑地帯としての性格が失われてしまうということになったとすれば、少々勿体無いなあ、とも感じています。このあたりのバランスをうまく勘案した、南北縦貫道路の完成を期したいものです。

<その後・・・>
 上述している木町付近の道路ですが、2003年7月21日に通過したときには、上の写真のように立派な片側二車線の道路として拡幅が終わっていました。大学病院(東北大学医学部附属病院)北の路地(北六番丁)まで、広い道路に生まれ変わりました。在仙していた頃(1993年〜1999年)、私はいつもこの道路を自転車で通過していたのですが、ここは昔ながらの建物が多く残る、一方通行の狭い路地だったんです。上の写真からは、かつてのこの道の様子は想像も及ばないことでしょう。


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