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#5 芭蕉の辻 〜仙台城下町の一大中心地〜 1976年3月31日をもって惜しまれつつ廃止された仙台市電ですが、その廃止よりかなり早く、1944年3月に廃線となっていた路線があります。それが、「芭蕉の辻線(東一番丁仙台郵便局前〜芭蕉の辻)」です。現在でも、この芭蕉の辻線が通っていた、国分町通は、芭蕉の辻のある交差点以南で道が広くなっており、市電がかつて通っていたことを物語っています。ところで、芭蕉の辻のことです。現在で言うところの「国分町通」と「中央通」の交差点のことです。この交差点の北西隅には、芭蕉の辻の由来が書かれた石碑が、ビルのたもとにうずくまるようにして建てられております。
この芭蕉の辻は、仙台城下町のまさに中心にあたる場所でした。仙台城大手門から広瀬川を「大橋」でわたり、城下を東西に貫いた「大町」幹線道路(現在の中央通。今でこそ大橋は青葉通に繋がっているように見えますが、青葉通は大町交番前の交差点で少し南に折れていますよね。大橋と本当に直線で繋がっている道路は、この「大町」現在の中央通なのです。青葉通自体が戦後の都市計画によって作られた道ですので・・・)と、南北に城下町を通る奥州街道(現在の国分町通)とが交差するこの場所には、仙台藩の札所が置かれ、「札の辻」と呼ばれたのだそうです。またこの交差点の四隅には藩が造営した建物があり、その銃眼と矢挟間とを備えた城郭式楼櫓建築は、仙台城下町のランドマークにふさわしい威容を見せていたのでした。 この「札の辻」は、伊達政宗が仙台城へ移る前、千代と呼ばれたこの地域の情勢を監視・報告させた虚無僧「芭蕉」の名に因むとする説が有力です。仙台城下町建設後も、札の辻の櫓の運営の役目をこの僧は任されていたのですが、ある時芭蕉は城下町の雑踏を嫌い、名取郡増田(現・名取市)に居を移したのだそうです。そこで、彼の功をたたえるため、その札の辻は、いつしか「芭蕉の辻」と呼ばれるようになったというものです。 この芭蕉の辻界隈には、名実ともに仙台城下町の中心として栄えておりまして、辻を中心に藩の御用商人が軒を連ね、藩の開替所が設けられるなど、仙台城下町の経済の中枢として機能しました。 また、この辻を起点として、東一番丁とか北一番丁その他に呼称される、城下町の町割が割り出されておりまして、都市建設の上でも重要なポイントであったのです。 この藩政期の隆盛は明治期、大正期、昭和初期にいたるまで存続し、仙台市の主要な卸売業、小売業、金融業などは、この芭蕉の辻界隈に集積していました。現在でも、七十七(しちじゅうしち)銀行旧本店(現在は芭蕉の辻支店が存在)や日本銀行仙台支店が辻に隣接して立地しており、仙台における伝統的な金融街を形成しているのが名残のように思われます。そういった仙台市中心部のまさに「中心」に、市電が敷設されたのは、必然に等しい状況であったのでしょう。
しかしながら、戦後を迎え、芭蕉の辻にも転機が訪れます。高度成長を迎え、仙台が東北地方の中心都市としていよいよ高い成長を誇るようになるにつれて、流通の便を考えると、街中の卸売業の立地は次第に手狭になってしまいました。そこで、1965年、仙台バイパスの全通をその翌年に控えていた現在の若林区卸町に、大規模な卸売・流通業の拠点「卸商センター」が完成し、市中心部、とりわけ芭蕉の辻界隈に多く立地した卸売業関連の業者はこぞって、交通の至便なこの新拠点に移転していきました。 さらに、戦後の都市計画によって市内の主要道路の大幅な拡幅と新設が進み、青葉通、広瀬通、定禅寺通の東西の幹線と、晩翠通、東二番丁通の南北の幹線が整備され、また東一番丁通りが「一番町通り」としてアーケード化されて近代化されるなかで、かつての城下町のメインストリートは、次第にその影に隠れるようになっていきました。 ※南町通り、西公園通り、北四番丁(国道48号線)、定禅寺通の東二番丁より東、駅前通などは市電通りとして、戦前から拡幅された道路でした。 現在では、芭蕉の辻付近は、北に東北有数の歓楽街「国分町」を控え、すぐ東に人通りの絶えない一番町、中央通に接しながらも、どこかその喧騒からは外れた、落ち着きのある場所のように思います。そこにひっそりと建つ「芭蕉の辻」の石碑が、かつてのこの地域の隆盛を、静かに伝えております。 |
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