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シリーズ・クローズアップ仙台

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#43 国見界隈 〜山林に溢れた住宅地域〜
 

 土橋通は北八番丁と半子町の通りとが交差する十字路が北端となり、交差点より北は旧町名で言うと「伊勢堂下」の通りということになります。この「伊勢堂」とは、ここより北、千代田町にある伊勢神明社のことを指しているようです。この伊勢神明社は、伊達政宗が1621(元和7)年にに伊勢神宮より分霊を勧請してこの地に祀り神明宮と称し、伊勢堂山と号したことに由来するようです。1872(明治5)年に神社は現在の西公園に遷され、桜岡大神宮となっているとのことで、ここの“元祖”の伊勢神明社は規模は往時の比ではなくなっているものの、「伊勢堂山」や「伊勢堂下」などとして、地域に地名として残されています。伊勢堂下の通りは、龍雲院の門前に突き当たります。1597(慶長2)年、秀吉により領地を米沢から岩出山へ移された政宗が仙台進出を心に秘め、その先遣として造営されたという由緒を持つこの寺院には、「寛政の三奇人」のひとりとされる林子平の墓があります。この子平にちなみ、周辺街区の住居表示は1967(昭和42)年に「子平町」となりました。

 土橋通から国見方面へ、半子町の通りを西へ進んでいきます。土橋通から半子町にかけては、青葉区西部の芋沢地区方面へ抜ける街道筋にあたります。前項の土橋通などでご紹介した「へくり沢」の難所が土橋建設により解消されるまでは、青葉区郷六付近の広瀬川が狭隘でやはり通行に注意を要する箇所であったこともあいまって、主要道路として一定の重要性があったルートであるようです。そのため、半子町には旗本足軽衆22人が配置されました。これは、1651(慶安4)年に二代藩主伊達忠宗の時代のことで、大筒組(おおづつぐみ)とも称された名誉を表するため、額の中剃りを半分残したことから「半額(はんこう)」と呼ばれ、この言葉が「半子町」の町名の由来となったようです。国見方面から市街地へなだれ込む自家用車の列に溢れた通りは、現在においてもここが重要な道筋であることを示しています。周辺はアパートや個人住宅などが穏やかに立ち並ぶ近郊住宅街の雰囲気を呈しています。

半子町

半子町の景観、西方向
(青葉区子平町、2006.12.29撮影)
壽徳寺前

壽徳寺前、超高層マンションを望む
(青葉区国見一丁目、2006.12.29撮影)
国見小付近

国見小学校下の商店集積地域
(青葉区国見二丁目、2006.12.29撮影)
市街地俯瞰

国見から市街地を望む
(青葉区国見四丁目、2006.12.29撮影)

 子平町を過ぎて、住居表示は国見へと変わります。子平町の画定と同時期に一丁目から五丁目までの街区として誕生した国見は、1990年代に入ってJR仙山線の北へその範囲を拡大しました(国見六丁目)。近年はさらにその北方に「国見ヶ丘(一〜七丁目)の街区も出現しています。その仙山線に1993年に始めて乗車した際、北仙台駅通過後の車窓風景は大都市近郊というイメージから離れた、緑の多い沿線という印象でした。現在においても、北山の緑地帯をはじめ、比較的豊かな森林を抱えるこのエリアは、住宅地化が進みながらもどこかうるおいを感じさせます。壽徳寺の趣のある石壁が続く道を進みますと、国見小学校と国見台病院の並ぶ北側にもこの地域を象徴するように丘陵地の緑が残されていまして、緩やかな坂道に展開するのびやかな居住空間が構築されているように感じられました。反対方向、歩いてきた方向を振り返りますと、広瀬町の超高層マンションが依然として驚くほどの大きさで見えています。

 高度成長期以降に進行した新しい住宅地である一方で、屋敷林や広い庭をを持つ昔からの住宅も点在していまして、そうした住宅の緑もこの地域の雰囲気を和やかにしているように感じます。国見地区には東北福祉大学やその他在仙大学の学生寮などが立地し、また学生向けのアパートのストックも比較的豊富なことから、界隈は学生の多い町としての横顔も持っています。この点については、後日中山地区との関連でご紹介することといたします。

太平洋を望む

南東方向、太平洋を望む
(青葉区国見五丁目、2006.12.29撮影)
JR国見駅

JR国見駅
(青葉区国見六丁目、2006.12.29撮影)
大学前

東北文化学園大学前の道路
(青葉区国見六丁目、2006.12.29撮影)
国見の原風景

国見六丁目、昔ながらの住宅景観
(青葉区国見六丁目、2006.12.29撮影)
 
 国見小学校の敷地を回りこむように南へ折れ、七十七銀行のある一帯までが小規模ながらも商店が集積する、近隣商業地域です。国見エリアでも比較的早くから開発された住宅地域のひとつであるのかもしれません。北側へと広がった新興住宅地と中心市街地とを結ぶバス路線と、北山地区から循環してこの地域を通過するバス路線が集中し、近郊住宅地の中では比較的バスの本数も多いエリアであることも特徴です。国見小学校西からJR国見駅方面へ進みますと住宅は少なくなり、この地域本来の山林の多いエリアへと移り変わっていきます。高台となる道路からは、仙台市街地をきれいに望むことができます。手前右側のこんもりとした木々は大崎八幡宮の杜。そして国見や八幡地区の豊かな住宅地の家並みの向こうに、高層ビルが点在する仙台の現代的な風景が美しく展開していました。
東南方向には太平洋もうっすらと眺望されます。

 JR国見駅はこうした住宅地域の拡大や大学等の立地などに対応し、1984(昭和59)年に隣の北山駅とともに開業した小さな駅です。山林が卓越した仙山線沿線は、開業当初は北仙台駅を過ぎますと陸前落合駅までは駅はありませんでした。駅の北側は東北文化学園大学が立地するほか、小規模な住宅地域が連担しているようです。空も高く、広く広がるようになり、広大な敷地を持つ昔からの住宅もあって、のびやかさがさらに実感されるとともに、市街地方面への眺望もさらにきくようになってまいります。山林と、ゆったりとした住宅地、そして見違えるようなすばらしい市街地遠景が、ゆるやかな上り坂を進むにつれて劇的に周囲の景観を変化させていきます。国見浄水場の施設を過ぎ、仙台高校を一瞥しながら進みますと、高度経済成長期を経て郊外化が大きく進展して成長してきた現代的な住宅地域が展開するエリアが近づいてまいります。この付近が、国見の地名の由来となった国見峠です。読んで字のごとく、仙台市街地をはじめ国中を一望の下に見渡せる高燥の地です。緑豊かな
自然の中で、仙台市街地を見通すエリアは、広瀬川上流付近から市街地方面へ街道を進んだ人々が始めて仙台の市街地を実感した場所であったのでしょうか。そんなすばらしい風景を確認しながら、さらに北へ、大きく拡大した現代の住宅地域が連続する地域へと進んでいきました。


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