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シリーズ・クローズアップ仙台

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#60 小鶴新田エリアを歩く 〜外縁部における都市化のすがた〜
 

 2004(平成16)年3月、JR仙石線に新駅・小鶴新田駅が設置されました。駅の北側一帯は新田東土地区画整理事業(1994(平成6)年開始、2010年終了見込み)によって景観が一変しました。駅周辺は一部に空閑地も認められるものの、戸建ての住宅や10階建て前後のマンション建築が整いつつあり、仙台都心への良好なアクセス環境から順調に住宅ストックが蓄積されつつある現状が見て取れました。

 エリア内にはショッピングセンターが立地して既に周辺地域における最寄品の商業核となっているほか、「元気フィールド仙台(正式名称:「仙台市新田東総合運動場」)と呼ばれる運動公園(仙台市民球場や宮城野体育館などが立地)が配置されるなど、地域内外の多様な住民層に配慮した施設配置がなされていることも特徴的であるように感じられます。国道4号仙台バイパスを挟んで東側には、東北学院中学校・高等学校が2005年4月に市内一番町から移転してきています。

小鶴新田駅

JR小鶴新田駅
(宮城野区新田東三丁目、2008.9.7撮影)
新田東

新田東区画整理地の景観
(宮城野区新田東三丁目、2008.9.7撮影)
東北学院

東北学院中学・高校
(宮城野区小鶴、2008.9.7撮影)
水田

新田東地域東側(バイパス以東)の水田風景
(宮城野区小鶴、2008.9.7撮影)

 駅前から北へ続く通りを進んでいきます。道路沿いは街灯や歩道が整然と設置されていて、前述のとおり中規模程度のマンションも数棟立地し、郊外のゆったりとした住宅地といった空間が連続していきます。地区の北部を東西に貫く都市計画道路定禅寺通上田子線と、地区の北西で同線が南に折れる形で地区の西端を南北に画する都市計画道路六丁目線とでつくられるルートは、JR仙石線をオーバークロスして日の出町方面へと続いていることもあってか、通過車両も多く認められました。

 この2つの都市計画道路が交わる交差点の北側から西側にかけては旧来からの住宅地で、区画整理地からみますと比高にして5メートル前後の高まりとなっています。ここは中世に「小鶴城」と呼ばれる平城があった場所で、現在の区画整理施工地域一帯を含めた平地に突き出す形の要害の地でした。区画整理地一帯は、かつては水田が広がっており、仙台バイパスの内側に最後まで残されたまとまった水田地帯といってもよい状況でした。高度経済成長期を通じて仙台市街地は郊外化が進行し、仙台バイパスの内側のエリアでは卸町における卸商団地の形成をはじめ、急速に農地の都市化が進行していました。低成長時代に入りこの同心円的な郊外化の面的拡大の流れは鈍化し、都市化は各地域における個別的に進行を見せるようになりました。仙台市も環境配慮から効率的なコンパクトな都市圏を志向する政策転換を模索しているようで、今後は大規模な土地区画整理事業への着手は減少することが見込まれているようです。

元気フィールド仙台

元気フィールド仙台
(宮城野区新田東四丁目、2008.9.7撮影)
新田

区画整理地から新田地域の入口
(宮城野区新田三丁目付近、2008.9.7撮影)
新田

新田地域の景観
(宮城野区新田一丁目、2008.9.7撮影)
新田

新田地域の集落景観
(宮城野区新田三丁目、2008.9.7撮影)

 小鶴城跡下の都市計画道路の交差点を西に入り、昔からの新田の集落内へと進みます。集落は小鶴城跡付近から続く微高地にあり、道路もちょっとした上り坂となります。区画整理地内の水田地帯はかつて沼を含む湿地帯であったそうで、水害を避ける必要から、古来よりこの台地上に集落が発達してきたということなのかもしれません。なお、この台地状の地形は北東から南西方向に連続していまして、仙台市周辺にこの方向で連続する活断層帯の「長町利府構造線」と関連した隆起帯であるのかもしれません。

 手許にある年代ごとの仙台市周辺の地形図を集めた図集を確認しますと、新田集落は街道筋に連続した町並みを持つ街村的な集落として描かれており、近世以降からの基盤を持つ古い集落であることが想起されます。現在のJR苦竹駅は、第二次世界大戦中の1943(昭和18)年に東京第一陸軍造兵廠仙台製造所(現在同敷地は陸上自衛隊仙台駐屯地となっています)の設置に伴い現在地に移転する前は、新田集落に隣接する場所に新田駅として開業(1928(昭和3)年)しています(開業・移転当時は宮城電気鉄道でした。国有化は1944(昭和19)年)。古い町並みの残る旧街道筋から北西側、JR東仙台駅の南東側一帯は道路が碁盤目状に整理されています。ここは1932(昭和7)年から施工された組合による土地区画整理事業により整えられたもので、旧都市計画法による組合施工の事業としては仙台市初のことであったとのことです。周辺はその後先述の陸軍兵廠の立地をへて軍需対応の区画整理事業が進み、農地の転用が加速度的に進むこととなり、その基盤は戦後の原町から苦竹、日の出町、扇町方面へと続く産業・流通エリアの形成へとつながっていきました。歴史ある区画整理事業の施工エリアを歩きますと、現代の大きな道路・広い歩道を擁する区画整理事業のダイナミックな様相と比して穏やかな町並みが対照的で、本格的なモータリゼーションなど想起もされなかった時代の古きよき住宅街の姿がたいへん印象的に目に映りました。


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