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シリーズ・クローズアップ仙台

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#73 苦竹から宮城野原へ 〜初冬の彩りにあふれる地域〜

 2010年11月21日、海岸の蒲生から内陸へ、七北田川の自然堤防に沿うように進んで福田町へ進んだ私は、JR仙石線で3駅仙台方面へ進んだ宮城野原駅で下車しフィールドワークを続けました。宮城野原一帯が古来より歌枕として多くの人々の憧憬を集める地域であったこと、そして現在では総合運動場として整備され数々の競技が行わる場所となっていることは既にお話ししました(宮城野原の項を参照)。

苦竹のイチョウ

苦竹のイチョウ、宮城野八幡神社境内から
(宮城野区銀杏町、2010.11.21撮影)
苦竹のイチョウ

苦竹のイチョウ
(宮城野区銀杏町、2010.11.21撮影)
苦竹のイチョウ

苦竹のイチョウ
(宮城野区銀杏町、2010.11.21撮影)
宮城野原公園

宮城野原公園総合運動場内の広場
(宮城野区宮城野二丁目、2010.11.21撮影)

 地下化された同駅から地上に出て北へ進みますと、「苦竹のイチョウ(国指定天然記念物)」と呼ばれるイチョウの木があります。宮城野八幡神社の境内に隣接した私有地にあるその木は樹齢1200年といわれ、初冬のこの日、大きな樹冠をあざやかな黄色に染めて冬空にこの上の無い彩りを与えていました。幹などから出た気根と呼ばれる根の一種が乳房のように垂れる様子から、別名「乳銀杏」とも呼ばれて親しまれています。同神社境内のケヤキの大木とともに美しく染まる木々は本当に鮮烈な色彩を帯びていまして、ここが茫漠たる平原の一角であった時からこの地で生育していたであろうイチョウの姿を思いますと、幾世相の時を越えた壮大な気持ちになります。

 イチョウの天然記念物への指定名称にもある「苦竹(にがたけ)」は地名です。JR仙石線の駅名にもあり、同駅周辺の国道45号周辺の東西に細長いエリアが「苦竹1〜2丁目」であり、それより南、陸上自衛隊仙台駐屯地東側に同3丁目と4丁目とがあります。苦竹の地名はもともとはそれよりも広大な地域の名称であり、仙台城下町東の宿駅として町場が形成されていた原町周辺も含めた一帯(JR宮城野原駅から北、JR東仙台駅南の新田地区まで、そして自衛隊の駐屯地を囲んで現在苦竹として住居表示されているエリアを含む範囲がおよその範囲であるようです)が旧苦竹村の範囲でした。苦竹村は1889(明治22)年に小田原村と南目村と合併して原町となり、1928(昭和3)年に長町ととともに仙台市に編入されています。乳銀杏のある場所も元々苦竹村の範域でしたので、「苦竹のイチョウ」の名称があるわけです。現在はこのイチョウにあやかり、町名は「銀杏町」となっています。

榴ヶ岡

榴ヶ岡付近、撓曲を反映した高まり
(宮城野区宮城野一丁目、2010.11.21撮影)
定禅寺通

定禅寺通の景観
(青葉区国分町三丁目付近、2010.11.21撮影)
青葉城址からの俯瞰

青葉城址から中心部を望む
(青葉区川内、2010.11.21撮影)
青葉城址からの俯瞰

青葉城址から大年寺山を介し太平洋を望む
(青葉区川内、2010.11.21撮影)

 歌枕として広大な野原であった宮城野原は都市の一部へと大きく変貌しながらも、総合運動公園としてのびやかな緑地景観も保たれていまして、初冬の穏やかな晴天の下、色づく木々に包まれていました。宮城野原は仙台市街地を北東から南西へ貫く活断層帯の影響もあり、榴ヶ岡の撓曲(断層による地形の高まり)を経て地形的には台地から低地へと遷移する場所にあたります。広瀬川が形成した河岸段丘から沖積平野へとなだらかに移り変わる地形は、遠い海岸線までたなびくように続いて、往時の人々の情趣を誘ったのでしょうか、そんな想像もはたらくような快い日和でした。

 その後中心市街地へ戻り、定禅寺通や青葉城址周辺の紅葉の様子を確認しながらこの日の活動を終えました。青葉城址から俯瞰した仙台の街並みはどこまでもたおやかで、色づく木々に豊かに覆われていました。


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