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シリーズ・クローズアップ仙台

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#75 2010年・仙台駅東口区画整理エリア 〜かつての街並みの最晩年を見る〜

 2010年12月26日、昨日の雪が残る仙台城址を後にして定禅寺通を散策、一番町から広瀬通を歩いて駅前のアエルのふもとまで到達しました。冬の晴天は空気も清浄な印象で、仙台駅北側で近年集中的に建築が進んだ高層ビル群も窓に冬の日差しを柔らかく受け止めています。エックス橋の通称で知られる宮城野橋は、東北線を越えるために、東西一方通行であった道路を一本にまとめる構造(元寺小路から鉄砲町へ東進する道路と二十人町から名掛丁へ精神する道路が橋上で束ねられていた)からその名で親しまれてきたことは本稿でも触れてまいりました。西側の再開発に伴ってまず西口側の出口が元寺小路(広瀬通方面)へ集約されて東側のみ二股に分かれ「Y字」型になっていた橋も、北側に新しい橋が完成して東側の鉄砲町に下る部分が撤去されました。これに伴い東も二十人町の通りからの侵入のみに集約されて、名実ともに「エックス橋」としての形状は無くなっていました。本記事を記載している2015年夏現在では、旧橋は撤去されて、その跡地に現在供用中の橋に並行するようにもう1つ橋を建設して片側二車線の道路とするべく、工事が進捗している状況のようです。

広瀬通

広瀬通(左:アジュール仙台、右:東京建物仙台ビル)
(青葉区本町一丁目、2010.12.26撮影)
駅近くの超高層ビル群

仙台駅近くの超高層ビル群(左:AER、右:東京建物仙台ビル)
(青葉区花京院一丁目、2010.12.26撮影)
仙台駅付近の超高層ビル群

仙台駅北側の景観(駅前通)、駅方向
(青葉区花京院一丁目付近から、2010.12.26撮影)
仙台駅北部名掛丁自由通路

仙台駅北部名掛丁自由通路
(宮城野区名掛丁、2010.12.26撮影)


藤村広場(奥はAER)
(宮城野区名掛丁、2010.12.26撮影)
元寺小路福室線

都市計画道路元寺小路福室線、エックス橋の方向
(宮城野区車町付近、2010.12.26撮影)

 アーケード街を構成する名掛丁商店街は駅前通に達してAER(アエル)と仙台マークワン(パルコ)との間の道路となってJR線で行き止まりとなります。名掛丁の地名は東口にもあるとおり、もともとは連続して街並みを形成していた名掛丁は鉄路によって東西に分断された歴史も、以前お話ししていたと思います。東西の通行の利便のため、地下通路があって利用されていましたが、西口のペデストリアンデッキからエスパル2の前を経て東口に至る新たな通路が完成していました(仙台駅北部名掛丁自由通路)。従来からの地下通路も引き続き利用可能なようでした。中層のマンションや駐車場などが目立つ通りを東進しますと、藤村広場と呼ばれるスペースがありました。この広場はかつて島崎藤村が下宿をしていた旅館兼下宿屋の「三浦屋」の跡地につくられているようです。『若菜集』の大部分はこの下宿屋の二階で編まれたそうで、藤村が滞在していた当時、遠く荒浜のほうから海の鳴る音が聞こえていたというのですから驚きです。

 そこから東の道路は拡幅のための敷地の確保が終了し、現代的な幹線道路としてまさに生まれ変わろうとしている二十人町の光景が広がっていました。昔ながらの商店街だったかつての一方通行の街並みはまったく想像できません。現在でこそ杜の都の象徴としてケヤキ並木が快い木陰をつくる定禅寺通も、建設当初は滑走路のようなただの広い茫漠とした風景であったそうで、しばしば砂塵が舞って「仙台砂漠」と揶揄されたという当時の景色はもしかしたらこんな感じだったのかもしれないと思い至りました。通りは完全に広瀬通に直結する方向へ工事が進められていまして、名掛丁につながるようにカーブしていた当初の姿もほぼ失われていました。アエルの見える方向は変わらないものの、アエルの南へ緩やかに曲線を描いた道は、これからはアエルの北側を直進していきます。

二十人町

二十人町、都市計画道路の整備が進む
(宮城野区二十人町、2010.12.26撮影)
鉄砲町

鉄砲町、道路の拡幅・再整備が進む
(宮城野鉄砲町、2010.12.26撮影)
和光神社

和光神社、もと神社があった方向を見る
(宮城野区鉄砲町、2010.12.26撮影)
鉄砲町

鉄砲町・陶器店(現存せず)
(宮城野区鉄砲町、2010.12.26撮影)
矢先神社

矢先神社
(宮城野区二十人町、2010.12.26撮影)
二十人町

かつての道路の幅がまだ残っていました
(宮城野区二十人町、2010.12.26撮影)

 二十人町とその北側の鉄砲町と間には、河岸段丘に起因する高低差があります。区画整理地はそうした段差も緩やかに呑みこみながら毅然として土地利用を現代的なものへと再編して進められています。緩やかに上る街路を北へ上がると、やはり拡幅が進み歩道を備えた片側一車線の道路へと整えられようとする鉄砲町の通りに出ました。2007年当時は辛うじて面影を残していた鉄砲町の鎮守・和光神社やその社叢、町民館は撤去されていました。神社はかつての市から南西の一角に移転していました。神社の北側の陶器店は以前のままありましたが、周辺は一気にクリアランスが進み、最期の時を待っているかのような印象さえ感じさせました(なお、2014年7月に再訪した際は既に更地になっていました。同年3月に店を閉め、移転しているとのことのようです)。二十人町の鎮守である矢先神社もまた区画整理により場所を変えて再建されているようでした。

 つい10年くらいまでは戦前からの古い町並みが残る商店街でった二十人町と鉄砲町は、東口エリアにおける区画整理事業の最終盤の地域として一気に土地区画の再編が進み、一大幹線道路である元寺小路福室線を中心とした住商混在地域へと急速に変貌を遂げていました。高度経済成長期には多くみられた都市の現代化の風景を今にして目にしているということなのかもしれません。思えば、木町あたりの古い家並みが印象的だったあたりも北四番丁大衡線の開通により劇的に姿を変えていました。都市圏が急速に拡大する中で郊外地域と都心とを有機的に接続し、コンパクトな都市交通網を志向する仙台においては、これからの時代をデザインしていく過程として重要な地域として位置づけられてていると言えるのでしょうか。広瀬通へ貫通する大通りが将来、定禅寺通のように仙台市街地を明るく彩るようになることを期待したいと思います。


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