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とうほくディスカバリー


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#10 新庄市内の諸地域をゆく 〜最上地方の中心都市〜

 2015年10月17日、穏やかな山並みに抱かれた山形県最上地方の金山を訪れた後は、国道13号を南進して、同地方の中心都市である新庄市へと向かいました。その途上で重要文化財建造物の旧矢作家住宅に立ち寄りました。江戸中期の農家建築の姿を今に残すその建物は、桜並木の続く道路沿いに移築されて、農村地域における伝統的な景観を今に伝えていました。

旧矢作家住宅

旧矢作家住宅
(新庄市泉田、2015.10.17撮影)
最上中央公園

最上中央公園
(新庄市金沢、2015.10.17撮影)
最上広域交流センターゆめりあ

最上広域交流センターゆめりあ
(新庄市多門町、2015.10.17撮影)
新庄駅

JR新庄駅
(新庄市多門町、2015.10.17撮影)

 山形県内陸を南北に縦貫する国道13号は、その市街地に近い部分を中心に片側二車線の幹線道路として整えられていまして、多くの交通量がある地域の大動脈として機能しています。JR新庄駅の東側を抜ける国道の沿線はロードサイド型の店舗が集積して、地域の中心都市としての新庄の中心性が窺われました。JR新庄駅の東口には「かむてん公園」の愛称で知られる県立最上中央公園があって、美しい植栽と屋内運動施設「すぽーてぃあ」とともに、開放的な空間を構成していました。駅前の駐車場に何とか自家用車を止めて、駅の自由通路を経由し、中心市街地のある西口方面へと進みました。

 JR新庄駅は1999(平成11)年12月に山形新幹線が山形駅から延伸開業し、同新幹線の終着駅となっています。この開業に合わせて駅舎も更新され、ガラス張りのファサードが印象的な交流施設「最上広域交流センター ゆめりあ」として活用されています。駅前からまっすぐのびる駅前通りを進みますと、道路は歩行者天国となって多くのテントが立ち並んで、たくさんの市民が訪れていました。毎年10月中旬に開催されている恒例の「新庄味覚まつり」が開催されていたためでした。市街地は最上川支流の指首野川(さすのがわ)が形成する扇状地に位置していまして、西に向かって緩やかに傾斜する中を小さな水流が軽やかに流れていまして、そうした地形を反映していました。

駅前通り

駅前通りの景観
(新庄市沖の町、2015.10.17撮影)
二の堀跡

二の堀跡
(新庄市堀端町、2015.10.17撮影)
最上公園

最上公園・堀跡
(新庄市堀端町、2015.10.17撮影)


戸澤神社
(新庄市堀端町、2015.10.17撮影)

 まつりのメイン会場となっていた南北の本町通りはいったん横断し、新庄城跡につくられた最上公園へと向かいました。途中には二の堀跡もあって、城下町であった新庄の縄張りを物語っていました。新庄は藩政期に新庄藩の政庁があった城下町でした。現在の最上公園はコの字型に堀が残る本丸跡で、建築当初は正面奥に天守櫓があって、周囲を堀と土居で囲んだ平城でした。1636(寛永10)年の火災により天守は焼失、再建はされませんでした。本丸から東側へ二の丸、三の丸があって武家地がまとめられ、さらにその外側に町人町が設けられて、現在の新庄市街地の中心となりました。

 晩秋の公園は植栽されていたソメイヨシノの葉も少しずつ色づいていまして、豪雪に閉ざされる季節への序章を告げていました。つかの間の穏やかな晴天の下、木々はきらめき、堀の水面はどこまでも穏やかにやわらかい日射しを受け止めていました。新庄藩を治めた戸沢家を祀る戸澤神社や戸沢家氏神の天満神社も鎮座して、新庄の町の礎を開いた城跡の歴史を伝えているかのようでした。城跡周辺は学校や文化施設が集まっていまして、多くの城下町において見られるような、文教施設への転換が認められました。最上公園よりやや北に行った場所には「雪の情報館」が旧積雪地方農村経済調査所跡」に建てられています。敷地には同調査所の旧庁舎が復元されていまして、雪国における生活改善のための研究が続けられた史実を記録していました。

最上公園

最上公園内の景観
(新庄市堀端町、2015.10.17撮影)
雪の里情報館

雪の里情報館
(新庄市石川町、2015.10.17撮影)
本町通り

本町通りの景観
(新庄市本町、2015.10.17撮影)
本合海

本合海・最上川の流れ
(新庄市本合海、2015.10.17撮影)

 まつりがたけなわの本朝の市街地を一瞥して駅東の駐車場に戻り、新庄市西部の本合海(もとあいかい)地区へと足を伸ばしました。最上川が蛇行を繰り返しながら庄内地方へ向かって西へ流れを変える場所である本合海は、陸路のなかった時代に庄内と最上、村山方面とを結ぶ舟運の重要な拠点として栄えました。松尾芭蕉も「おくのほそ道」の途上でこの地から船に乗って庄内へと川を下りました。雄大な流れを目の当たりにして、古来より地域の文化と経済とを支えてきた母なる川の、懐の深さにしばし感慨に浸りました。

 
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