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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#4 西多摩の都邑を巡る 〜五日市・青梅の町並み〜(あきる野市、青梅市)

JR武蔵五日市駅は、秋川渓谷の谷口に展開する谷合の街を軽やかに俯瞰する位置にありました。ソメイヨシノの開花を間近に控え、プラットホームから眺める五日市の町は、穏やかな陽光に包まれているように感じられました。武蔵五日市駅の入口に掲げられている駅名が記された看板は、奥多摩の入口らしく、大きな板に手彫りの文字が刻まれたものでした。また、ロータリーの中央には、山型の石のモニュメントが美しい噴水が据え付けられていまして、山々に向う地域性を表現しています。噴水には、「五山流水 中央の五つに分かれたそれぞれの石は、奥多摩の山並みと清流秋川を表しております」とする説明が添えられていました。高架化とともに区画整理が行われた駅前は整然としており、駅前からは五日市街道の幹線が東へ、真っ直ぐと延びています。

駅を後にし、五日市の市街地より「檜原街道」と名前を変える都道を西へ進んでいきます。東町の信号にて接続する秋川街道を南へ進むと、秋川橋へ至ります。橋のたもとには、やはり山型のモニュメントが設置されており、秋川橋の移り変わりが説明されています。1909(明治42)年から1934(昭和9)年までは木製のトラス橋、同年から1987(昭和62)年までは鉄筋コンクリートのアーチ橋、そして現在の3代目はプレビーム合成桁橋とのことです。秋川橋からは、秋川の美しいカーブを眺めることができます。五日市の市街地が乗る北岸は段丘崖に生育する林の足許を洗うように浸食し、南側はゆったりとした河原を形成しつつ、留原地区の主部となるエリアを囲んでいます。この秋川がつくる、谷口の段丘が形成した、ちょっとした平坦地こそ、市場町・五日市のかけがえのない基盤となりました。


五日市街道

JR武蔵五日市駅前より五日市街道を望む
(あきる野市舘谷台、2005.4.2撮影)
五日市ひろば

五日市ひろば
(あきる野市五日市、2005.4.2撮影)


郷土資料館前の農家建物
(あきる野市五日市、2005.4.2撮影)
秋川渓谷方向の景観

秋川渓谷方向の景観
(あきる野市五日市、2005.4.2撮影)

1889(明治22)年に市制・町村制が施行された時、特別区域を除いた現在の東京都の範域において、その種別が「町」であったのは、八王子、青梅、調布、田無、そして五日市の5つだけでした(府中と日野も町場に近い扱いだったようですが、府中は「駅」、日野は「宿」の呼び名でした)。このことは、五日市が明治期以前より相当の規模の町場を形成していたことを示すものであるといえます。五日市の歴史を紐解きますと、既に戦国時代末期頃までには五日市に市が開かれており、江戸期に入りますと、五日市は奥多摩にて(入り山方と言ったようです)生産された木材や炭を扱う取引市として、大いに栄えました。最盛期(江戸末期)には、炭の年産はおよそ20万俵、木材のそれは筏にして2,000枚を数えるまでに至ったとのことです。このように、大消費地・江戸における巨大な木材と炭の需要によって、五日市は町場としての確固たる礎が築かれたわけです。東町から下町、仲町、上町と続く街道沿いの町並みは、レトロな町屋や趣のある蔵などが点在していまして、市場町としての伝統を彷彿とさせます。下町地区には、かつて五日市の「市神様」として祀られていた自然石を移設した広場、「五日市ひろば」があり、その穏やかな町屋に囲まれた開放的なスペースは、秋川の渓谷に臨んで、五日市の歴史に触れながら、日々この地域の人々の豊かな交流の場となっているようでした。

明治期、八王子などと並んでいち早く町制を敷き、密度の高い市街地を擁した五日市は、その後他の町が都市化に伴って次々に市制へと移行する中にあって、最後まで単独で市制を敷くには至りませんでした。都市におけるエネルギーが木炭から石炭やガスなどのいわゆる化石燃料に転換し、産業構造が変化する中で、上記の事実は、五日市の町が辿った道程を暗に示しています。五日市が市域の一部となるのは、1995(平成7)年、自らの移行ではなく、秋川市との合体による「あきる野市」の発足によってのことでした。しかしながら、五日市の町を歩いてみて、町場としての重厚な雰囲気を今に残す町並みが、都心から列車で1時間30〜40分程度所要の場所に、軽やかに展開していることは、たいへんに誇らしいことであるように感じました。五日市は、奥多摩の山並みに抱かれながら、豊かな町場景観を今に伝える、さまざまなエッセンスに彩られたまちでした。

青梅街道沿いの景観

青梅街道沿いの景観
(青梅市森下町、2005.4.2撮影)
青梅街道沿いの景観

青梅街道沿い、町屋と高層住宅
(青梅市上町、2005.4.2撮影)
青梅坂下

青梅坂下交差点より小曽木街道方向
(青梅市森下町、2005.4.2撮影)
青梅駅入口

JR青梅駅入口
(青梅市本町、2005.4.2撮影)

五日市を後にして、やはり多摩地域の谷口集落としてまとまった町場を形成してきた、青梅の町へと移動します。昭和レトロを前面に打ち出した地域づくりをしているという青梅のプラットホームでは、「ひみつのアッコちゃん」のアニメテーマソングの発車ベルが軽やかに鳴り響いていました。駅前に設置された市内のガイドマップは、青梅の町の姿を端的に示していました。市域の中央を東西に流下する多摩川の流れがあり、その流れに寄り添うように展開する市街地、そしてその市街地の北には関東山地の末端部(あるいは狭山丘陵の一部というべきか)の緩やかな山並みが展開している。五日市と同様、平地と山地との間、谷口の要衝に展開した青梅の町が、山と川に抱かれた、穏やかな地勢の中で育まれてきたことを、そのガイドマップは的確に表現していたのでした。加えて、大消費地・江戸の後背地域として、石灰や木材、織物等の産業が発達した町は次第に都市基盤を整備させ、明治の市制・町村制実施時に町制を施行し、やがて東京都内で5番目の市制を敷く(1951・昭和26年)に至りました。

青梅海道沿いには、そうしたまちの歴史を感じさせるシックでレトロな町並みが残されていました。切妻の瓦屋根を庇状にせり出した穏やかな町屋、しっとりと時を刻んだ味わい深い色彩を光らせる格子壁が趣深い建物、そして一際目立つ白壁の蔵などの建造物たちが、現代の高層住宅群や現代建築の商店などの建ち並ぶ街道沿いに点在しています。そこには、おそらく明治期以降の建物が現代に至る時間軸の中で並びながら、重層的に存在しているに違いありません。庭園における借景のように、春まだ浅い奥多摩の山並みがそんな町並みの家並みの彼方にたなびきます。この町より近代の成長を始めた町は、高度経済成長以降の東京大都市圏の形成の過程の中で次第にその経済的重心を東方に移しているようです。その現代都市・青梅の趨勢にあって、やはりその要にあるのは慎ましく佇むこのエリアの町並みであるのではないかと感じられました。


梅の公園

梅の公園
(青梅市梅郷四丁目、2005.4.2撮影)
多摩川・上流方向

多摩川(神代橋より)
(青梅市梅郷/日向和田、2005.4.2撮影)

青梅の町並みを散策した後、青梅線をさらに西へ乗車し、日向和田駅にて下車しました。神代橋から眺める多摩川はまさに峡谷たる雄大さを見せていました。街路樹から既に梅の木が配されている梅郷地区・吉野梅郷は、紅梅、白梅、さまざまな春の色に包まれていました。青梅市梅の公園には、約120種、1,500本もの梅の木が斜面に植えられた名所です。間もなく春本番を迎えようとする梅林はみずみずしい春のやわらかな色彩をたおやかな尾根に、谷間に、いっぱいに溢れさせていました。
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