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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#16 東京リレーウォーク(8) 〜木場を歩く 江戸と東京のフロンティア〜 (江東区)

 2008年9月27日、両国界隈から始まったフィールドワークは、墨田区から江東区に入り、この年の6月に訪れた深川付近を掠めながら「のらくロード」の愛称を持つ江東区高橋の商店街まで至りました。のらくロードとは、漫画「のらくろ」が代表作の漫画家・故田河水泡の常設展示館が付近の森下文化センターにあることなどから地域にゆかりのある「のらくろ」をコミュニティのシンボルとしたいということからの命名でしょうか。商店や低層の商業系のビル群が並ぶ中を東へ通りは猿江橋にて大横川の流れへとさしかかりました。

 橋の近くに掲げられた説明板によりますと、大横川は横川ともいい、1659(万治2)年に、本所深川埋立が行われたときに開削された水路であるとのことです。現在の大横川は、業平橋付近で北十間川より分岐し墨田区、江東区域を南下、竪川、小名木川、仙台堀川と交差し、東方を同じく南北に流下し西に流路を変えてきた横十間川を合流後、自身も西に大きく曲がって木場エリアを南から取り囲むように西へ進み、門前仲町の南から西へ、永代橋の南で再び隅田川に合流します。竪川より北の部分は埋め立てにより親水公園として再整備が図られています。多くの人工の運河が縦横に町を貫く江東区の諸地域は、先の大横川の説明にも加えられていたとおり、江戸期以降順次埋め立てられてきた土地をその基盤としており、首都として爆発的に集住の進んだ江戸にあってまさにフロンティアとしてのエリアであったといえます。江東区のホームページの説明を引用しますと、慶長期(1596〜1615)に深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行い、深川村を創立しました。また、万治2年(1659)に、砂村新左衛門一族が、宝六島周辺の新田開発を行い、砂村新田と名づけられたとのことです。

のらくロード

高橋商店街「のらくロード」
(江東区高橋、2008.9.27撮影)
大横川

大横川
(江東区森下五丁目、2008.9.27撮影)
小名木川

小名木川、新高橋とプラザ元加賀などを望む
(江東区森下五丁目、2008.9.27撮影)
新高橋

新高橋より小名木川と大横川の交差部分を望む
(江東区森下五丁目/白河四丁目、2008.9.27撮影)

  猿江橋の西詰から水路に沿ってつけられた遊歩道を進み、小名木川との水上の交差点を一瞥しながら小名木川沿いに少し西に戻り、小名木川に架かる新高橋を渡って木場を目指します。高層の建築物は少ないもののほぼ建物によって充填された地域にあって、川の上だけは例外で、なめらかな小波のたつ水面の上には青空が広がっていまして、まさに晴れやかな気持ちになります。清洲橋通りを渡り、関東大震災後に防災拠点や復興のシンボルとして設置された震災復興公園のひとつである元加賀公園の脇を通り、東京都現代美術館方面へと歩みます。元加賀公園付近は、地下鉄半蔵門線の沿線という利便性から高層のマンション群が多く立地していました。

 美術館脇から木場公園へと入ります。総面積24.2haにも及ぶ広大な公園は、仙台堀川の流れを挟んで南北に長い緑地帯を形成しています。1969(昭和44)年に発表された江東区防災六大拠点のひとつとして、大震災時における避難広場として位置づけられているのだそうです。1978(昭和53)年の都市計画指定・事業認可を受け、公園事業に先だって始められていた木材関連企業の新木場への移転跡地を中心として土地の取得が行われ、1992(平成4)年に開園を迎えています。緑がふんだんに植栽された快い空気に満ち溢れた公園を散策しながら、仙台堀川と葛西橋通りを一気にまたぎ、公園を象徴する斜張橋である木場公園大橋を渡って、地下鉄東西線を通す永代通り方面へと進んでいきます。

木場公園

木場公園
(江東区平野四丁目、2008.9.27撮影)
木場公園

木場公園・木場公園大橋
(江東区平野四丁目、2008.9.27撮影)
木場公園

木場公園
(江東区木場四丁目、2008.9.27撮影)
仙台堀川

仙台堀川
(江東区平野四丁目/木場四丁目、2008.9.27撮影)

 木場は、その名が示す通り、かつて貯木場が置かれていた地域であったことは広く知られているところであると思います。1657(明暦3)年に発生した「明暦の大火」の後、隅田川の右岸に集中していた市街地を当該深川エリアにも拡大させることにより、幕府は災害に強い町づくりを企図し、密集した市街地の再開発、拡張に努めました。貯木場は当初永代島に集められ、その後現在の木場に移転されたとのことです(1701(元禄14)年)。貯木場に接して多くの木材関連業者が集積し、一大産業エリアが形成されていました。前述のとおり、木場の機能は1969年に新木場に移転し、防災拠点としての機能も併せ持つ都市公園として生まれ変わっています。しばしば大火の起こった江戸に木材を供給してきた木場は、ある意味では今も昔も都市の防災を担う地域としての色彩を帯びていると言えるのかもしれません。

 永代通り沿線は、中層の商業ビルが多く立地し、人々の往来も多い、活気あるエリアが形成されています。沢海橋を渡り、東詰から南に入る、ここで西へ流れを変える大横川に沿った道を進みますと、東陽区民館の付近に現在の地図と江戸期の地図とが並べて比較できる表示が設置されていました。この場所から洲崎川に架かる弁天橋を越えた向かいには洲崎神社(弁天)が鎮座しますが、江戸期の地図にも記載がありまして、江戸期から続く古刹です。江戸期の地図には、ここが当時の海岸線で、海難除けの社として地元漁民の信仰を集めたとされているようです。古くは「深川洲崎十万坪」とも称される景勝地でした。

木場駅付近

永代通り・地下鉄東西線木場駅付近
(江東区木場五丁目、2008.9.27撮影)
洲崎神社

洲崎神社
(江東区木場六丁目、2008.9.27撮影)
洲崎弁天

洲崎神社・弁天池
(江東区木場六丁目、2008.9.27撮影)


永代通り・地下鉄東西線東陽町駅付近
(江東区東陽二・三丁目、2008.9.27撮影)

 永代通りを東へ進み、東陽町を歩きます。永代通りから南の一帯のエリアは、明治期から戦後にかけて多くの遊客を集めた「洲崎遊郭」の跡地でありました。地下鉄東陽町駅周辺は多くの中高層のビルが立ち並び、そうした歴史を感じさせない、現代都市としての活気にあふれていました。木場エリアは、現在では穏やかな下町的な雰囲気を残しながらも、地下鉄駅周辺を中心に、都心へのアクセス性からスポット的に高密度化の進むより多様な姿を見せる地域へと変貌を遂げているように感じられます。かつての豊かな海岸の風景は既に見る影もなく、一貫して進められてきた埋め立てにより海は遥か南へと遠ざかりました。そうした歴史と地域性に、都市として拡大してきた江戸、そして東京のフロンティアとしてのエッセンスを存分に感じることができた行程であったように思いました。東陽町駅からは都バスを利用しJR錦糸町駅に出て、総武線でJR小岩駅まで移動、柴又エリアを目指しました。


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