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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#37 東京リレーウォーク(23) 〜狛江市街地を行く〜 (狛江市)

 2010年11月6日、等々力渓谷から二子玉川を経て砧地域を西へ彷徨した私は、喜多見駅から一駅西の狛江駅に到達しました。狛江駅を中心駅とする狛江市は埼玉県蕨市に次いで日本で二番目に面積の小さい市です。小田急線の開通とともに都市化が進み、高度経済成長後はベットタウンとして急速な人口増をみて、1960(昭和35)年には約2万人であった人口は10年後の1970(昭和45)年には6万人弱へと増加し、この年市制施行しています。現在の人口は8万人弱にまでになっているようです。郊外の住宅都市の中心駅らしい、コンパクトながらも比較的ゆったりとした駅前を後にして、市内を歩いてみることにしました。

狛江駅前

狛江駅前の景観
(狛江市元和泉一丁目、2010.11.6撮影)
狛江弁財天池緑地保全地区

狛江弁天池緑地保全地区付近の歩道
(狛江市元和泉一丁目、2010.11.6撮影)
狛江弁財天池緑地保全地区

狛江弁天池緑地保全地区
(狛江市元和泉一丁目、2010.11.6撮影)
狛江駅南口

狛江駅南口の景観
(狛江市東和泉一丁目、2010.11.6撮影)

 狛江市は1889(明治22)年に施行された町村制により6つの村が合併して「狛江村」が発足以来、ほぼその範域を変えず、合併も経ず町になり、市になり現在に至っています。明治期における地図を確認しますと、現在の狛江市は多摩川の左岸にゆるやかに展開する低地上の農村地帯であったようです。まとまった町場は形成されず、雄川が洗う低地は水田に、それ以外の大部分の土地利用は畑地や雑木林、集落であったようです。こうした風景は基本的には戦後間もなくまで変わらず、最近50年ほどで劇的に大都市近郊の住宅地域へと変貌を遂げました。駅前には「狛江弁天池緑地保全地区」があり、シラカシやスダジイ、ケヤキ、コナラなどの落葉樹の森が水辺に残されて、往時の面影をわずかながらに伝えていました。

 駅の北には先に紹介した明治期の地図にもその名前が見える泉龍寺があって、その北側に水路(前項でご紹介した六郷用水)が描かれています。その流路は都道114号から駅前を狛江駅前交差点に至る市道へと続いていたようで、市役所の南東で北から流れてくる野川に合流し東へ進んでいました。現在は国分寺崖線に沿って直線的に市北部を流れる野川ですが、前項でお話しした河道の付け替え前は狛江市街地を南北に横切るように流れる川でした。河道変更後のかつての野川の跡は野川緑地公園として整備され、住宅地の中を進む遊歩道となっていました。ゆるやかに蛇行しながら続く遊歩道は、かつての自然河川の姿をそのまま残しています。周囲は住宅地として整備が進んでいまして、わずかに畑地の残る場所もあるものの、ここが半世紀ほど前までは純然たる農村地域であったことをほとんど感じさせません。

畑地の見える景観

畑地の見える景観
(狛江市和泉本町一丁目付近、2010.11.6撮影)
野川緑地公園

野川緑地公園
(狛江市和泉本町二丁目付近、2010.11.6撮影)
御台橋

御台橋バス停付近の景観
(狛江市西野川二丁目、2010.11.6撮影)
旧御台橋の石柱

旧御台橋の石柱
(狛江市西野川二丁目付近、2010.11.6撮影)

 都道114号(松原通り)との交点は、御台橋という橋がかつての野川にかけられいたようで、現在でも周辺の商店街の名称やバス停にその名を留めています。傍らには昭和41年ころ撮影された旧野川の写真が橋の説明と共に掲げられていました。写真の野川は遊歩道の幅から想起されるようにこれまで見てきた野川のそれとは比較にならないほど狭くて、周囲の急激な宅地化に伴い洪水防止の観点から河道変更が行われた背景が理解されます。江戸期には五大橋や五代橋とも表記されていたこの橋あたりの野川は、戦前までは子供たちの格好の遊び場であったようです。先に触れた説明板の野川の写真には、木立の横を流れる野川の向こうに住宅地が写っており、宅地開発が急速に進んで変貌の途上にあった当時の様子を垣間見ることができます。北から順次整備されたという都道によってバス路線が御台橋周辺にもやってくるようになり、利便性を増した地域は宅地化が進んで、近隣の人々が日々の生活用品を求める商店街へと姿を変えました。

 御台橋からは、その北から延長されてきたというバスに乗って調布市内へ入り、京王線の仙川駅まで移動しました。多摩川の北側の低地に広がる狛江市の一帯は、遺跡の存在が物語るように古来より多くの人々の生活の舞台となってきた土地で、市名も高麗(こま)からの渡来系の人々に由来するという説もあるようです。低平で開発が容易であったこともあって、現在では都心近郊の住宅都市として大きくその姿を変えました。人々が住まう場所としてのその良好な環境は今も昔も変わらない狛江の財産であるのかもしれません。

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