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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#58 東久留米から東村山へ 〜清流とみどりの台地上を行く〜 (東久留米市・東村山市)

 2014年5月14日、鶴瀬駅から三富新田を散策後バスで所沢駅まで進んでいた私は、西武池袋線で池袋方へ3駅進んだ東久留米駅で下車し、フィールドワークを再開しました。午後1時過ぎ、初夏の昼下がりはいまだに雲一つない快晴で、西口駅前にある「富士見テラス」からは、まろにえ富士見通りの向こうに、白い富士山の山容をうっすらと確認することができました。

東久留米駅前

西武東久留米駅前の景観
(東久留米市本町一丁目、2014.5.11撮影)
富士見テラス

富士見テラスから望む富士山
(東久留米市本町一丁目、2014.5.11撮影)
落合川

落合川
(東久留米市南沢一丁目/本町一丁目、2014.5.11撮影)
竹林公園

竹林公園
(東久留米市南沢一丁目、2014.5.11撮影)
南沢湧水群

南沢湧水群
(東久留米市南沢三丁目、2014.5.11撮影)
落合川周辺

落合川と住宅地の景観
(東久留米市中央町二丁目、2014.5.11撮影)

 駅前の商業地区を南に進みますと、程なくして住宅地域へと移り変わり、多摩地域らしい畑と住宅地とが交錯する景観となっていきます。住宅地域の中を西から東へと流下する落合川は、周辺が高度に市街地化しながらも清らかな水が流れていまして、川沿いを快く散策することができるようになっていました。東久留米市を流下する河川は西から東へ緩やかに傾斜する台地上を東へ流れて、荒川やその支流に注いでいます。河川の隆起には湧水が多く認められ、周辺には緑地が形成されて、地域にうるおいを与える存在となっているようでした。落合川の南には竹林公園があって、かつてこの一帯に存在した農家には必ずあったという竹林の風情を偲ばせていました。公園に設置されていた説明版の記載によると、緑地保全の一つとしてこの竹林が都市公園として開設されたのは1974(昭和49)年とのことで、高度経済成長が終焉を迎えて低成長時代へ移り変わり、環境問題が次第に重要な政策へと変化する時期にあたっていたようです。そこから約40年を経て、市街地と緑地との穏やかな共存が現出していることは、とても素晴らしいことと感じます。

 落合川のほとりは緑に溢れていまして、初夏を彩る木々の花や川面をゆらめく水草も実にみずみずしい印象でした。南沢氷川神社の南側には豊富な水量を持つ湧水群があって、それは「東京の名湧水57選」や「平成の名水百選」にも選定されています。その水は周辺に豊かな雑木林を育んで、武蔵野らしい風景を今に伝えていました。明治期の地勢図によりますと、このあたりは雑木林が卓越する農村地域で、川沿いに水田が広がる田園風景が広がるエリアであったようです。池袋を経て都心へとダイレクトにつながる郊外という立地にありながら、豊かな自然が坤為地まで受け継がれる素地は、こうしたふんだんな湧水にあるといえるでしょうか。この南沢湧水群の美しい景色と、清浄な水を受け止める落合川がつくるたおやかな水辺空間とを楽しみながら上流へ歩きました。流れはだんだんと狭くなり、やがて住宅地域の中へと取り込まれていき、都道4号付近で流路が途切れているようでした。一つの川の源流が住宅地域の中にあるということも、市街地と自然環境とが共存する地域の姿を象徴しているように思いました。都道4号は所沢へと続く近世以来の幹線道路であったようで、かつての村役場の所在地として、市指定の旧跡となっている一角も存在しています。

柳窪二丁目

柳窪二丁目付近の田園風景
(東久留米市柳窪二丁目、2014.5.11撮影)
柳窪天神社

柳窪天神社付近の景観
(東久留米市柳窪四丁目、2014.5.11撮影)
柳窪四丁目

柳窪四丁目付近の景観
(東久留米市柳窪四丁目、2014.5.11撮影)
野火止用水

野火止用水
(東村山市恩多町二丁目付近、2014.5.11撮影)
高札場跡

恩多辻・高札場跡
(東村山市恩多町三丁目、2014.5.11撮影)
空堀川

空堀川
(東村山市栄町一丁目、2014.5.11撮影)
都道129号

東村山駅付近・都道129号
(東村山市本町三丁目付近、2014.5.11撮影)
東村山駅前

東村山駅前(東口)
(東村山市本町二丁目、2014.5.11撮影)

 地図を見て、都道129号が狭隘ながらも都道として指定を受けて市街化した地域を縫うように進んでいることが気になって、昔からある道路であったのではないかという興味からそのルートを辿ってみることにしました。先ほど確認した旧村役場の場所からいったん都道4号の新道に突き当たり、滝山団地の西から再び地域を屈折しながら進む都道は、後日前述の地勢図を確認しますとその当時から存在していた道であったようでした。およそ「都道」いう言葉からは連想しにくいほどの道幅の道路は、住宅地を通過し、自身よりも広幅員の道路を貫きながら進んでいきます。途中には、南沢湧水群とともに東京の名湧水57選に採られている「黒目川天神社の湧水」があって、近隣の屋敷林や柳窪天神社の社叢と合わせて、穏やかな森が形成されていました。緑地に接して国登録有形文化財の村野家住宅もあって、近世から明治期にかけての農村建築の態様と伝えています。

 黒目川を過ぎますと間もなく東村山市域に入り、変わらず住宅地と畑地と雑木林とが連続する只中を歩きました。出水川や野火止用水などを越えて恩多辻と呼ばれる五差路へ。明治期の地勢図では町場が発達していたこの交差点の一角には「高札場跡」と刻まれた石碑の横に石碑と地蔵尊が佇んでいまして、ここが交通上の重要な結節点であったことを示していました。さらに道を西へ進み、その名の通り水がほとんど枯れていた空堀川を越えて東村山駅周辺の商業地へと入り、駅前へ到達してこの日の活動を終えました。東久留米駅から東村間駅まで進んだ道のりは、高度に市街地化が進展しながらも清らかな水流が保全された、実にのびやかな郊外の風景に満ちていました。それは、多くのサイトの記述にあるような、かつての高度経済成長期における、多くの河川が生活雑排水で汚染されていたという光景をまったく想起することができないものでした。

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